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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第2章 黒花の村

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第15話 黒い花の記憶

 黒曜花は、夜になると少しだけ光る。


 昼間は黒い花びらの縁に銀色の光を宿しているだけだが、日が沈み、村に闇が降りると、花びらの奥から淡い光がにじみ出る。


 それは炎のように揺れない。


 魔道灯のように強く照らすこともない。


 ただ、眠る死者が静かに呼吸しているような、弱く、温かな光だった。


 その夜、アシュベルの共同畑には、村の者たちが集まっていた。


 バルザ、グラン、エナ、ミト、リナ。


 リュシア。


 ノア。


 そして、昨日この村にたどり着いた魔族の子どもたち。


 サナ、リク、トト、ミミ。


 リクの腕の傷は、黒曜花の葉のおかげで熱が引き始めている。ミミはまだエナの後ろに隠れていたが、昼よりは顔色がよくなっていた。トトは眠そうに目をこすり、サナは相変わらず短剣を腰に差したまま、黒曜花の前に立っている。


「本当に、記憶が見えるの?」


 サナが尋ねた。


 声には期待より警戒が強い。


 誰かに希望を持たされることを、彼女は怖がっているようだった。


「必ず見えるとは限らない」


 俺は答えた。


「前に現れたのは、魔王を埋葬した直後だった。この村で亡くなった人たちの記憶が、銀色の灯になって見えた」


「声は?」


「聞こえなかった」


「じゃあ、何も分からないじゃない」


「分かることもある」


 俺は黒曜花の根元に膝をつき、土に触れた。


 土は、昨日よりさらに柔らかくなっている。


 枯れてひび割れていた畑が、少しずつ水を含み始めていた。


 そこに眠る魔王ゼルグレイスの遺体。


 その遺体から広がる黒曜花。


 その根が、村の死者たちの記憶に触れている。


 俺の鑑定は、死者に残された価値を見る力だ。


 ならば、この花が抱えている記憶も、見ることができるかもしれない。


 俺は黒曜花に触れた。


 冷たいと思っていた花びらは、指先にかすかな温もりを返した。


 鑑定を発動する。


【対象:黒曜花群】


【由来:魔王ゼルグレイスの埋葬地】


【性質:魔力毒浄化、土壌再生、死者記憶保持】


【現在反応:未弔いの記憶多数】


【記憶開示条件:関係者の呼びかけ、墓守の許可、死体鑑定士の接触】


【注意:記憶は事実の断片であり、完全な過去ではない】


 記憶は事実の断片。


 完全な過去ではない。


 それでも、断片だけでも必要だった。


 サナたちの母親がどうなったのか。


 避難小屋で何が起きたのか。


 王国軍がどこへ捕らえた者たちを連れていったのか。


 知る手がかりが欲しかった。


「リュシア」


 俺が呼ぶと、リュシアは黒曜花の前に進み出た。


 彼女は花の群れに向かって、静かに頭を下げる。


「墓守リュシアが願います。ここに眠る父と、黒曜花に残された記憶よ。生きている者を救うため、必要なものを見せてください」


 黒曜花が揺れた。


 風はない。


 畑全体に、薄い銀色の光が広がっていく。


 ミミが小さく息を呑み、エナの服を握った。


 ノアは杖に体重を預けたまま、緊張した顔で花を見ている。


 彼にとっても、これは初めての光景だ。


 死者の記憶。


 王国では研究対象か、迷信として片づけられるもの。


 ここでは、弔いの一部として現れる。


 やがて、黒曜花の上に一つの銀色の灯が浮かんだ。


 続いて、もう一つ。


 三つ。


 五つ。


 灯は畑の上をゆっくり漂い、やがて薄い幕のように広がった。


 その中に、ぼんやりとした景色が浮かび上がる。


 俺は息を止めた。


 そこに映っていたのは、今のアシュベルではなかった。


 緑の畑。


 水をたたえた井戸。


 低い石垣のそばで遊ぶ子どもたち。


 人間の耳を持つ者。


 魔族の角を持つ者。


 その両方の特徴を持つ者。


 誰もが同じ畑で働き、同じ井戸から水を汲んでいた。


「昔の、アシュベル……」


 バルザが震える声でつぶやいた。


 銀色の記憶の中に、若い女がいた。


 しっかりした体つきで、袖をまくり、鍬を手に畑を耕している。傍らには、若いころのバルザらしき男がいる。


「マリア……」


 バルザが膝をついた。


 記憶の中のマリアは、畑の中央に立ち、大勢の村人たちに何かを言っていた。


 声は聞こえない。


 けれど、口の動きと表情で分かる。


 彼女は笑っていた。


 怒っているようにも見えた。


 たぶん、誰かを叱りながら励ましている。


「人間の畑、魔族の畑、混血の畑に分けるな、と言っているんだ」


 バルザが涙声で言った。


「あの日だ。共同畑を作ると決めた日だ」


 記憶の中で、マリアは鍬を土に突き立てた。


 その場所は、今、黒曜花が咲いている場所と重なっていた。


 壊れた鍬の過去価値。


 共同畑の最初の畝を作った農具。


 俺たちが境界を刻んだ鍬は、この日から始まっていたのだ。


 次の瞬間、記憶が揺れた。


 緑だった畑が、少しずつ色を失っていく。


 井戸の水が濁る。


 畑の端で子どもが咳き込む。


 村人たちが空を見上げる。


 東の方角から、黒い霧のようなものが流れてくる。


「魔力毒……」


 俺はつぶやいた。


 その濃さは、今のアシュベル周辺に残っているものよりずっと強い。


 記憶の中の人々は、井戸を布で覆い、畑に溝を掘り、子どもたちを家へ入れていた。


 だが、毒は止まらない。


 土に染み、井戸に入り、作物を枯らしていく。


 その中に、一人の大きな影が現れた。


 黒い外套。


 長い角。


 圧倒的な魔力をまとった男。


 魔王ゼルグレイスだった。


 リュシアが息を呑む。


「お父さま……」


 記憶の中の魔王は、今より少し若く見えた。


 彼は村人たちに囲まれていた。


 恐れている者もいる。


 すがる者もいる。


 怒鳴っている者もいる。


 その中で、魔王は静かに畑へ歩き、膝をついた。


 彼は素手で土を掘った。


 魔王が、王でも英雄でもなく、ただ畑の土を手ですくっている。


 その姿は、俺が聞かされてきた魔王像とはあまりにも違っていた。


 ゼルグレイスは土に手を当て、何かを唱えた。


 黒い霧の一部が、彼の体へ吸い込まれていく。


 彼の肩がわずかに揺れた。


 苦痛に耐えているようだった。


「父は……この村の毒を、自分で受けていたのですか」


 リュシアの声が震える。


 俺の鑑定が、記憶の断片に反応した。


【記憶対象:魔王ゼルグレイス】


【行為:魔力毒吸収】


【目的:アシュベル水脈の一時保護】


【代償:魔王体内への魔力毒蓄積】


【備考:処置は不完全。毒源の流入継続により村の完全救済は失敗】


 完全救済は失敗。


 その表示が、胸に刺さった。


 魔王はこの村を救おうとした。


 けれど救えなかった。


 王国の物語では、魔王は村を滅ぼす存在だった。


 だがこの記憶では、魔王は滅びかけた村を前に膝をついている。


「どうして……」


 リュシアは黒曜花を見つめた。


「どうして、父は私に何も言わなかったのでしょう」


 バルザが小さく言った。


「魔王様は、よく言っておられた。背負う姿を見せれば、子はその背中を追ってしまう、と」


 リュシアは何も答えなかった。


 父が隠していた優しさは、残された子にとって救いにもなるが、同時に痛みでもある。


 知らされなかったこと。


 分けてもらえなかった重み。


 それは、愛だったのかもしれない。


 けれど、残された者には寂しい愛だ。


 記憶はさらに揺れた。


 今度は、アシュベルではない。


 森の中の小さな避難小屋。


 サナがはっと顔を上げる。


「あそこ……!」


 映像の中には、魔族や混血の大人たちがいた。


 疲れた顔。


 怯える子どもたち。


 壁際には少しの食料と水。


 そして、サナの母親らしき女性が、子どもたちを奥へ押し込んでいる。


「お母さん……!」


 サナが黒曜花へ駆け寄ろうとした。


 リュシアがそっと肩を押さえる。


「触れると記憶が乱れるかもしれません」


「でも……!」


「見ましょう。最後まで」


 サナは唇を噛み、必死にこらえた。


 避難小屋の扉が乱暴に開かれる。


 入ってきたのは王国兵と神官兵だった。


 先頭にいた神官兵は白い仮面をつけている。


 聖教会の捕縛部隊。


 ノアの顔色が変わった。


「白面神官……」


「知っているのか」


「あいつらは、教会直属の回収班だ。表向きは保護部隊だけど、実際は魔族や異端者を研究院へ送る」


 ノアの声は硬かった。


 記憶の中で、白面神官が何かを告げる。


 声は聞こえない。


 だが、周囲の反応で分かる。


 保護ではない。


 命令だ。


 魔族の血を持つ者は、王国の管理下へ入れ。


 抵抗すれば、魔王残党とみなす。


 そういう内容なのだろう。


 大人たちが子どもを後ろへ隠す。


 サナの母親が、サナの肩を強く押す。


 逃げなさい。


 そう言っている口の動きだった。


「お母さん……」


 サナの短剣を握る手が震えている。


 記憶の中のサナは、リク、トト、ミミを連れて裏口へ走った。


 母親は扉の前に立ちふさがる。


 白面神官が杖を上げる。


 青白い光。


 母親が倒れる。


「いや……!」


 サナが叫んだ。


 だが、記憶は止まらない。


 倒れた母親は、死んではいなかった。


 王国兵二人に抱えられ、他の大人たちと一緒に外へ連れ出されていく。


 腕には、白い拘束具がはめられていた。


 俺の鑑定が反応する。


【記憶対象:魔族避難民】


【状態:生存多数】


【処置:捕縛、魔力封じ】


【移送先候補:王国西方臨時収容地】


【目的:黒曜花焼却作戦の人質、魔族血液検査、魔力適性選別】


 生存多数。


 サナの母親は、まだ生きている可能性が高い。


「生きている」


 俺が言うと、サナが振り返った。


「本当?」


「鑑定では、生存多数と出た。全員とは限らない。でも、まだ助けられる人はいる」


 サナの顔が崩れそうになる。


 泣きそうになりながら、彼女は歯を食いしばった。


「じゃあ、助けに行こう。今すぐ」


「待て」


「どうして! 生きてるんでしょ!」


「だからこそ、急ぎすぎると危ない」


 サナは俺を睨んだ。


「大人はいつもそう言う。待て、我慢しろ、考えろって。その間に、みんな死ぬ」


 言い返せなかった。


 彼女の言葉は正しい部分もある。


 待っている間に失われる命はある。


 だが、何も考えずに飛び込めば、助けられる命まで失う。


 俺は記憶に意識を戻した。


 映像は避難小屋から、森の中の道へ変わっていた。


 捕らわれた大人たちが歩かされている。


 白面神官。


 王国兵。


 荷馬車。


 そして、聖油の樽が積まれた馬車。


 捕虜と聖油は、同じ場所へ運ばれていた。


「ノア」


「見えてる」


 ノアの顔は青ざめている。


「臨時収容地と聖油の野営地が一緒だ。たぶん、捕虜を盾にして黒曜花を焼くつもりだ」


「盾?」


 リュシアが聞き返す。


「王国軍が黒曜花を焼きに来たとき、村が抵抗すれば捕虜を殺す。そう脅すためだ」


 サナの目が見開かれる。


「そんな……」


 ノアは苦しそうに続けた。


「王国軍ならやる。特に白面神官がいるなら」


 グランが低く唸った。


「胸糞悪いな」


 バルザが杖を握りしめる。


「人質を取って墓を焼くか。勇者の国は立派だな」


 皮肉のはずなのに、声には怒りより悲しみがあった。


 記憶の幕がさらに薄くなる。


 最後に映ったのは、野営地だった。


 森の中に急造された柵。


 中央に聖油の樽。


 片側に捕虜たちを閉じ込めた檻。


 もう片側に神官兵の天幕。


 そして、木の杭に掲げられた白い旗。


 聖教会の紋章。


 その下に立つ白面神官が、何かを手にしていた。


 黒い花びらだった。


 サナたちの道しるべになった黒曜花の花びらかもしれない。


 神官はそれを銀の皿に置き、聖油を垂らした。


 花びらが白い炎に包まれる。


 その瞬間、共同畑の黒曜花が一斉に震えた。


 リュシアが胸を押さえる。


「痛い……」


「リュシア?」


「花が……父の花が、焼かれている感じがします」


 俺は黒曜花に触れた。


【警告:黒曜花断片への聖油実験】


【影響:本体根部への微弱干渉】


【聖油適性:部分的有効】


【危険:高】


【推奨:聖油本隊到着前に対処】


 やはり、聖油は効く。


 境界線で一時的には防げる。


 だが、王国が実験を重ねれば、黒曜花を焼く方法を見つけるだろう。


 記憶の幕が消えていく。


 銀色の灯が、一つずつ黒曜花へ戻る。


 共同畑に静けさが戻った。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 見てしまった。


 アシュベルの過去。


 魔王がこの村を救おうとした記憶。


 捕らわれた魔族たち。


 聖油の実験。


 死者の記憶は、優しいだけではなかった。


 知らなければ楽だった事実を、容赦なく目の前に置いていく。


 サナが短剣を抜いた。


「私、行く」


「一人では無理だ」


 俺が言うと、彼女は叫んだ。


「じゃあ、どうすればいいの! 見たでしょ! お母さん、生きてる! なのにここで待ってろって言うの!」


 ミミが泣き出した。


 トトがサナの服をつかむ。


 リクは怪我した腕を押さえながら、唇を噛んでいる。


 サナは、皆の前で泣かないように怒っていた。


 怒っていなければ、崩れてしまうのだろう。


 リュシアがサナの前に膝をついた。


「サナ」


「何!」


「私は、父を守れませんでした」


 サナの怒りが、一瞬止まった。


「魔王城で父が戦っている間、私は地下墓所にいました。墓守として、死者を守ることしか考えていませんでした。でも父は、生きている者も守ろうとしていた」


 リュシアは黒曜花を見た。


「今日、その記憶を見ました。私は、父のことを何も知らなかった」


「だから何」


「だから、もう知らないままにはしません」


 リュシアの声は震えていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「あなたのお母さんを助ける方法を、私も探します。魔王の娘としてではなく、墓守として。生きている人を、これ以上、弔う側に回さないために」


 サナは何も言えなくなった。


 短剣を握る手が震え、やがて少しずつ下がる。


「本当に……助けるつもり、あるの」


「あります」


 リュシアははっきり答えた。


「でも、あなたを死なせてまで助けるつもりはありません」


 サナの目から、ついに涙がこぼれた。


 彼女は慌てて顔を背ける。


「泣いてない」


「はい」


「泣いてないから」


「はい」


 リュシアはそれ以上何も言わず、ただ隣にいた。


 俺はノアを見た。


「野営地の場所は分かるか」


「だいたいは。北東の森、炭焼き小屋の奥なら、ここから半日もかからない」


「兵の数は?」


「記憶で見えた限り、王国兵十数人。神官兵が五人以上。白面神官が一人。聖油の樽は二台分」


「正面からは無理だな」


「無理だ」


 ノアは即答した。


「俺たちの戦力じゃ、全滅する」


 グランが槌を担いだ。


「だが、見に行かねえわけにもいかんだろ」


「偵察ならできる」


 ノアが言った。


「境界紋の外側に、王国軍が使う監視札があるはずだ。逆にそれを使えば、野営地の警戒範囲を読めるかもしれない」


「お前、歩けるのか」


「無理」


「堂々と言うな」


「だから、行くなら俺じゃなくて、王国式の合図を覚えている人が必要だ」


 ノアの視線が俺へ向く。


「レインなら、死体や壊れた道具から情報を読める。森の戦場跡をたどれば、王国兵の通った道も見つけられるはずだ」


「俺に行けということか」


「他にできる人がいない」


 その通りだった。


 俺の鑑定は、戦うためには弱い。


 だが、足跡、壊れた馬具、落ちた矢、死んだ草、魔力毒に焼けた土。


 そういうものから道を読むことならできる。


 リュシアが俺を見る。


「私も行きます」


「駄目だ」


 即答した。


 彼女は眉を寄せる。


「なぜですか」


「君は黒曜花の墓守だ。村に残って花と境界を守る必要がある」


「でも」


「それに、魔王の娘である君が捕まれば、王国の狙い通りになる」


 リュシアは悔しそうに唇を結んだ。


 その気持ちは分かる。


 父の記憶を見た今、彼女は動かずにいられないのだろう。


 だが、今この村で彼女がいなくなることは危険すぎる。


 黒曜花の葉を使うにも、境界を保つにも、墓守の許可が必要になる場面がある。


「俺が偵察に行く」


 俺は言った。


「戦いに行くわけじゃない。場所と数、捕虜の位置、聖油の保管場所を確認する」


「一人でか」


 グランが言う。


「一人の方が目立たない」


「一人で死ぬのも簡単だぞ」


「死ぬ前に鑑定する」


「冗談が下手だな」


 グランは呆れた顔をした。


 バルザが静かに口を開いた。


「なら、夜明け前に出るといい。森霧が出る。昔、炭焼き小屋へ行く者は霧に紛れて歩いた」


「道は分かるか」


「古い道なら覚えている。地図を描こう」


 エナが小さく言った。


「食べ物を用意します。少ししかありませんけど」


「助かる」


 サナが一歩前に出た。


「私も行く」


「駄目だ」


「何で!」


「君は場所を知っている。だが、君が捕まれば人質が増える」


「お母さんを助けたいのに!」


「だから、君はここで弟たちを守れ」


 サナは歯を食いしばった。


「また待てって言うんだ」


「ああ」


 俺は正直に言った。


「待つのは怖い。置いていかれるみたいで、苦しい。でも、君がここに残ってくれれば、俺は戻る理由が増える」


「戻る理由?」


「君に報告しなければならない」


 サナは涙で濡れた目で俺を睨んだ。


「戻ってこなかったら許さない」


「覚えておく」


「絶対に許さない」


「ああ」


 そのとき、黒曜花の中から一つの灯が浮かび上がった。


 先ほどの記憶の残りのような、小さな銀色の灯。


 それはサナの前まで漂い、彼女の胸元で揺れた。


 サナは息を止めた。


「お母さん……?」


 灯は言葉を発しない。


 だが、サナの頬に触れるようにふわりと動いた。


 彼女は泣きそうな顔で、けれど泣かないまま目を閉じた。


「生きてるんでしょ」


 灯は答えない。


 代わりに、黒曜花へ戻る直前、北東の森の方へ一度だけ揺れた。


 道を示すように。


 俺の鑑定が反応する。


【記憶灯:残留反応】


【方向:北東】


【意味:未完の弔い】


【備考:まだ死者として迎える段階ではない】


 まだ死者として迎える段階ではない。


 つまり、生きている。


 少なくとも、黒曜花はそう判断している。


 サナもそれを感じたのか、短剣を鞘に戻した。


「待つ」


 彼女は震える声で言った。


「でも、ずっとは待たない」


「分かった」


 俺はうなずいた。


 夜が深くなっていく。


 村人たちは、それぞれ準備に動き始めた。


 バルザは古い炭焼き道の地図を描き、グランは音の出にくい短剣を整え、エナは乾いた麦粥を布に包んだ。ノアは王国軍の警戒札の見分け方を俺に教えた。


 リュシアは黒曜花の前に残り、長く祈っていた。


 俺はその背中を見ながら、今日見た記憶を思い返す。


 共同畑を作ったマリア。


 魔力毒を吸い込む魔王ゼルグレイス。


 避難小屋で子どもを逃がしたサナの母親。


 死者の記憶は、過去を慰めるだけではなかった。


 今、何をするべきかを突きつけてくる。


 黒い花は、ただ咲いているだけではない。


 死者が残したものを、次の行動へ変えている。


 弔いの花。


 死者の価値を、生者の明日へ変える花。


 その意味を、俺は少しずつ分かり始めていた。


 夜明け前、俺は村を出る。


 北東の森へ。


 王国の臨時収容地へ。


 死者の記憶が示した、まだ死者になっていない人々のもとへ。


 共同畑では、黒曜花が静かに揺れていた。


 その光は、見送りの灯のようだった。


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