第15話 黒い花の記憶
黒曜花は、夜になると少しだけ光る。
昼間は黒い花びらの縁に銀色の光を宿しているだけだが、日が沈み、村に闇が降りると、花びらの奥から淡い光がにじみ出る。
それは炎のように揺れない。
魔道灯のように強く照らすこともない。
ただ、眠る死者が静かに呼吸しているような、弱く、温かな光だった。
その夜、アシュベルの共同畑には、村の者たちが集まっていた。
バルザ、グラン、エナ、ミト、リナ。
リュシア。
ノア。
そして、昨日この村にたどり着いた魔族の子どもたち。
サナ、リク、トト、ミミ。
リクの腕の傷は、黒曜花の葉のおかげで熱が引き始めている。ミミはまだエナの後ろに隠れていたが、昼よりは顔色がよくなっていた。トトは眠そうに目をこすり、サナは相変わらず短剣を腰に差したまま、黒曜花の前に立っている。
「本当に、記憶が見えるの?」
サナが尋ねた。
声には期待より警戒が強い。
誰かに希望を持たされることを、彼女は怖がっているようだった。
「必ず見えるとは限らない」
俺は答えた。
「前に現れたのは、魔王を埋葬した直後だった。この村で亡くなった人たちの記憶が、銀色の灯になって見えた」
「声は?」
「聞こえなかった」
「じゃあ、何も分からないじゃない」
「分かることもある」
俺は黒曜花の根元に膝をつき、土に触れた。
土は、昨日よりさらに柔らかくなっている。
枯れてひび割れていた畑が、少しずつ水を含み始めていた。
そこに眠る魔王ゼルグレイスの遺体。
その遺体から広がる黒曜花。
その根が、村の死者たちの記憶に触れている。
俺の鑑定は、死者に残された価値を見る力だ。
ならば、この花が抱えている記憶も、見ることができるかもしれない。
俺は黒曜花に触れた。
冷たいと思っていた花びらは、指先にかすかな温もりを返した。
鑑定を発動する。
【対象:黒曜花群】
【由来:魔王ゼルグレイスの埋葬地】
【性質:魔力毒浄化、土壌再生、死者記憶保持】
【現在反応:未弔いの記憶多数】
【記憶開示条件:関係者の呼びかけ、墓守の許可、死体鑑定士の接触】
【注意:記憶は事実の断片であり、完全な過去ではない】
記憶は事実の断片。
完全な過去ではない。
それでも、断片だけでも必要だった。
サナたちの母親がどうなったのか。
避難小屋で何が起きたのか。
王国軍がどこへ捕らえた者たちを連れていったのか。
知る手がかりが欲しかった。
「リュシア」
俺が呼ぶと、リュシアは黒曜花の前に進み出た。
彼女は花の群れに向かって、静かに頭を下げる。
「墓守リュシアが願います。ここに眠る父と、黒曜花に残された記憶よ。生きている者を救うため、必要なものを見せてください」
黒曜花が揺れた。
風はない。
畑全体に、薄い銀色の光が広がっていく。
ミミが小さく息を呑み、エナの服を握った。
ノアは杖に体重を預けたまま、緊張した顔で花を見ている。
彼にとっても、これは初めての光景だ。
死者の記憶。
王国では研究対象か、迷信として片づけられるもの。
ここでは、弔いの一部として現れる。
やがて、黒曜花の上に一つの銀色の灯が浮かんだ。
続いて、もう一つ。
三つ。
五つ。
灯は畑の上をゆっくり漂い、やがて薄い幕のように広がった。
その中に、ぼんやりとした景色が浮かび上がる。
俺は息を止めた。
そこに映っていたのは、今のアシュベルではなかった。
緑の畑。
水をたたえた井戸。
低い石垣のそばで遊ぶ子どもたち。
人間の耳を持つ者。
魔族の角を持つ者。
その両方の特徴を持つ者。
誰もが同じ畑で働き、同じ井戸から水を汲んでいた。
「昔の、アシュベル……」
バルザが震える声でつぶやいた。
銀色の記憶の中に、若い女がいた。
しっかりした体つきで、袖をまくり、鍬を手に畑を耕している。傍らには、若いころのバルザらしき男がいる。
「マリア……」
バルザが膝をついた。
記憶の中のマリアは、畑の中央に立ち、大勢の村人たちに何かを言っていた。
声は聞こえない。
けれど、口の動きと表情で分かる。
彼女は笑っていた。
怒っているようにも見えた。
たぶん、誰かを叱りながら励ましている。
「人間の畑、魔族の畑、混血の畑に分けるな、と言っているんだ」
バルザが涙声で言った。
「あの日だ。共同畑を作ると決めた日だ」
記憶の中で、マリアは鍬を土に突き立てた。
その場所は、今、黒曜花が咲いている場所と重なっていた。
壊れた鍬の過去価値。
共同畑の最初の畝を作った農具。
俺たちが境界を刻んだ鍬は、この日から始まっていたのだ。
次の瞬間、記憶が揺れた。
緑だった畑が、少しずつ色を失っていく。
井戸の水が濁る。
畑の端で子どもが咳き込む。
村人たちが空を見上げる。
東の方角から、黒い霧のようなものが流れてくる。
「魔力毒……」
俺はつぶやいた。
その濃さは、今のアシュベル周辺に残っているものよりずっと強い。
記憶の中の人々は、井戸を布で覆い、畑に溝を掘り、子どもたちを家へ入れていた。
だが、毒は止まらない。
土に染み、井戸に入り、作物を枯らしていく。
その中に、一人の大きな影が現れた。
黒い外套。
長い角。
圧倒的な魔力をまとった男。
魔王ゼルグレイスだった。
リュシアが息を呑む。
「お父さま……」
記憶の中の魔王は、今より少し若く見えた。
彼は村人たちに囲まれていた。
恐れている者もいる。
すがる者もいる。
怒鳴っている者もいる。
その中で、魔王は静かに畑へ歩き、膝をついた。
彼は素手で土を掘った。
魔王が、王でも英雄でもなく、ただ畑の土を手ですくっている。
その姿は、俺が聞かされてきた魔王像とはあまりにも違っていた。
ゼルグレイスは土に手を当て、何かを唱えた。
黒い霧の一部が、彼の体へ吸い込まれていく。
彼の肩がわずかに揺れた。
苦痛に耐えているようだった。
「父は……この村の毒を、自分で受けていたのですか」
リュシアの声が震える。
俺の鑑定が、記憶の断片に反応した。
【記憶対象:魔王ゼルグレイス】
【行為:魔力毒吸収】
【目的:アシュベル水脈の一時保護】
【代償:魔王体内への魔力毒蓄積】
【備考:処置は不完全。毒源の流入継続により村の完全救済は失敗】
完全救済は失敗。
その表示が、胸に刺さった。
魔王はこの村を救おうとした。
けれど救えなかった。
王国の物語では、魔王は村を滅ぼす存在だった。
だがこの記憶では、魔王は滅びかけた村を前に膝をついている。
「どうして……」
リュシアは黒曜花を見つめた。
「どうして、父は私に何も言わなかったのでしょう」
バルザが小さく言った。
「魔王様は、よく言っておられた。背負う姿を見せれば、子はその背中を追ってしまう、と」
リュシアは何も答えなかった。
父が隠していた優しさは、残された子にとって救いにもなるが、同時に痛みでもある。
知らされなかったこと。
分けてもらえなかった重み。
それは、愛だったのかもしれない。
けれど、残された者には寂しい愛だ。
記憶はさらに揺れた。
今度は、アシュベルではない。
森の中の小さな避難小屋。
サナがはっと顔を上げる。
「あそこ……!」
映像の中には、魔族や混血の大人たちがいた。
疲れた顔。
怯える子どもたち。
壁際には少しの食料と水。
そして、サナの母親らしき女性が、子どもたちを奥へ押し込んでいる。
「お母さん……!」
サナが黒曜花へ駆け寄ろうとした。
リュシアがそっと肩を押さえる。
「触れると記憶が乱れるかもしれません」
「でも……!」
「見ましょう。最後まで」
サナは唇を噛み、必死にこらえた。
避難小屋の扉が乱暴に開かれる。
入ってきたのは王国兵と神官兵だった。
先頭にいた神官兵は白い仮面をつけている。
聖教会の捕縛部隊。
ノアの顔色が変わった。
「白面神官……」
「知っているのか」
「あいつらは、教会直属の回収班だ。表向きは保護部隊だけど、実際は魔族や異端者を研究院へ送る」
ノアの声は硬かった。
記憶の中で、白面神官が何かを告げる。
声は聞こえない。
だが、周囲の反応で分かる。
保護ではない。
命令だ。
魔族の血を持つ者は、王国の管理下へ入れ。
抵抗すれば、魔王残党とみなす。
そういう内容なのだろう。
大人たちが子どもを後ろへ隠す。
サナの母親が、サナの肩を強く押す。
逃げなさい。
そう言っている口の動きだった。
「お母さん……」
サナの短剣を握る手が震えている。
記憶の中のサナは、リク、トト、ミミを連れて裏口へ走った。
母親は扉の前に立ちふさがる。
白面神官が杖を上げる。
青白い光。
母親が倒れる。
「いや……!」
サナが叫んだ。
だが、記憶は止まらない。
倒れた母親は、死んではいなかった。
王国兵二人に抱えられ、他の大人たちと一緒に外へ連れ出されていく。
腕には、白い拘束具がはめられていた。
俺の鑑定が反応する。
【記憶対象:魔族避難民】
【状態:生存多数】
【処置:捕縛、魔力封じ】
【移送先候補:王国西方臨時収容地】
【目的:黒曜花焼却作戦の人質、魔族血液検査、魔力適性選別】
生存多数。
サナの母親は、まだ生きている可能性が高い。
「生きている」
俺が言うと、サナが振り返った。
「本当?」
「鑑定では、生存多数と出た。全員とは限らない。でも、まだ助けられる人はいる」
サナの顔が崩れそうになる。
泣きそうになりながら、彼女は歯を食いしばった。
「じゃあ、助けに行こう。今すぐ」
「待て」
「どうして! 生きてるんでしょ!」
「だからこそ、急ぎすぎると危ない」
サナは俺を睨んだ。
「大人はいつもそう言う。待て、我慢しろ、考えろって。その間に、みんな死ぬ」
言い返せなかった。
彼女の言葉は正しい部分もある。
待っている間に失われる命はある。
だが、何も考えずに飛び込めば、助けられる命まで失う。
俺は記憶に意識を戻した。
映像は避難小屋から、森の中の道へ変わっていた。
捕らわれた大人たちが歩かされている。
白面神官。
王国兵。
荷馬車。
そして、聖油の樽が積まれた馬車。
捕虜と聖油は、同じ場所へ運ばれていた。
「ノア」
「見えてる」
ノアの顔は青ざめている。
「臨時収容地と聖油の野営地が一緒だ。たぶん、捕虜を盾にして黒曜花を焼くつもりだ」
「盾?」
リュシアが聞き返す。
「王国軍が黒曜花を焼きに来たとき、村が抵抗すれば捕虜を殺す。そう脅すためだ」
サナの目が見開かれる。
「そんな……」
ノアは苦しそうに続けた。
「王国軍ならやる。特に白面神官がいるなら」
グランが低く唸った。
「胸糞悪いな」
バルザが杖を握りしめる。
「人質を取って墓を焼くか。勇者の国は立派だな」
皮肉のはずなのに、声には怒りより悲しみがあった。
記憶の幕がさらに薄くなる。
最後に映ったのは、野営地だった。
森の中に急造された柵。
中央に聖油の樽。
片側に捕虜たちを閉じ込めた檻。
もう片側に神官兵の天幕。
そして、木の杭に掲げられた白い旗。
聖教会の紋章。
その下に立つ白面神官が、何かを手にしていた。
黒い花びらだった。
サナたちの道しるべになった黒曜花の花びらかもしれない。
神官はそれを銀の皿に置き、聖油を垂らした。
花びらが白い炎に包まれる。
その瞬間、共同畑の黒曜花が一斉に震えた。
リュシアが胸を押さえる。
「痛い……」
「リュシア?」
「花が……父の花が、焼かれている感じがします」
俺は黒曜花に触れた。
【警告:黒曜花断片への聖油実験】
【影響:本体根部への微弱干渉】
【聖油適性:部分的有効】
【危険:高】
【推奨:聖油本隊到着前に対処】
やはり、聖油は効く。
境界線で一時的には防げる。
だが、王国が実験を重ねれば、黒曜花を焼く方法を見つけるだろう。
記憶の幕が消えていく。
銀色の灯が、一つずつ黒曜花へ戻る。
共同畑に静けさが戻った。
誰もすぐには口を開かなかった。
見てしまった。
アシュベルの過去。
魔王がこの村を救おうとした記憶。
捕らわれた魔族たち。
聖油の実験。
死者の記憶は、優しいだけではなかった。
知らなければ楽だった事実を、容赦なく目の前に置いていく。
サナが短剣を抜いた。
「私、行く」
「一人では無理だ」
俺が言うと、彼女は叫んだ。
「じゃあ、どうすればいいの! 見たでしょ! お母さん、生きてる! なのにここで待ってろって言うの!」
ミミが泣き出した。
トトがサナの服をつかむ。
リクは怪我した腕を押さえながら、唇を噛んでいる。
サナは、皆の前で泣かないように怒っていた。
怒っていなければ、崩れてしまうのだろう。
リュシアがサナの前に膝をついた。
「サナ」
「何!」
「私は、父を守れませんでした」
サナの怒りが、一瞬止まった。
「魔王城で父が戦っている間、私は地下墓所にいました。墓守として、死者を守ることしか考えていませんでした。でも父は、生きている者も守ろうとしていた」
リュシアは黒曜花を見た。
「今日、その記憶を見ました。私は、父のことを何も知らなかった」
「だから何」
「だから、もう知らないままにはしません」
リュシアの声は震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
「あなたのお母さんを助ける方法を、私も探します。魔王の娘としてではなく、墓守として。生きている人を、これ以上、弔う側に回さないために」
サナは何も言えなくなった。
短剣を握る手が震え、やがて少しずつ下がる。
「本当に……助けるつもり、あるの」
「あります」
リュシアははっきり答えた。
「でも、あなたを死なせてまで助けるつもりはありません」
サナの目から、ついに涙がこぼれた。
彼女は慌てて顔を背ける。
「泣いてない」
「はい」
「泣いてないから」
「はい」
リュシアはそれ以上何も言わず、ただ隣にいた。
俺はノアを見た。
「野営地の場所は分かるか」
「だいたいは。北東の森、炭焼き小屋の奥なら、ここから半日もかからない」
「兵の数は?」
「記憶で見えた限り、王国兵十数人。神官兵が五人以上。白面神官が一人。聖油の樽は二台分」
「正面からは無理だな」
「無理だ」
ノアは即答した。
「俺たちの戦力じゃ、全滅する」
グランが槌を担いだ。
「だが、見に行かねえわけにもいかんだろ」
「偵察ならできる」
ノアが言った。
「境界紋の外側に、王国軍が使う監視札があるはずだ。逆にそれを使えば、野営地の警戒範囲を読めるかもしれない」
「お前、歩けるのか」
「無理」
「堂々と言うな」
「だから、行くなら俺じゃなくて、王国式の合図を覚えている人が必要だ」
ノアの視線が俺へ向く。
「レインなら、死体や壊れた道具から情報を読める。森の戦場跡をたどれば、王国兵の通った道も見つけられるはずだ」
「俺に行けということか」
「他にできる人がいない」
その通りだった。
俺の鑑定は、戦うためには弱い。
だが、足跡、壊れた馬具、落ちた矢、死んだ草、魔力毒に焼けた土。
そういうものから道を読むことならできる。
リュシアが俺を見る。
「私も行きます」
「駄目だ」
即答した。
彼女は眉を寄せる。
「なぜですか」
「君は黒曜花の墓守だ。村に残って花と境界を守る必要がある」
「でも」
「それに、魔王の娘である君が捕まれば、王国の狙い通りになる」
リュシアは悔しそうに唇を結んだ。
その気持ちは分かる。
父の記憶を見た今、彼女は動かずにいられないのだろう。
だが、今この村で彼女がいなくなることは危険すぎる。
黒曜花の葉を使うにも、境界を保つにも、墓守の許可が必要になる場面がある。
「俺が偵察に行く」
俺は言った。
「戦いに行くわけじゃない。場所と数、捕虜の位置、聖油の保管場所を確認する」
「一人でか」
グランが言う。
「一人の方が目立たない」
「一人で死ぬのも簡単だぞ」
「死ぬ前に鑑定する」
「冗談が下手だな」
グランは呆れた顔をした。
バルザが静かに口を開いた。
「なら、夜明け前に出るといい。森霧が出る。昔、炭焼き小屋へ行く者は霧に紛れて歩いた」
「道は分かるか」
「古い道なら覚えている。地図を描こう」
エナが小さく言った。
「食べ物を用意します。少ししかありませんけど」
「助かる」
サナが一歩前に出た。
「私も行く」
「駄目だ」
「何で!」
「君は場所を知っている。だが、君が捕まれば人質が増える」
「お母さんを助けたいのに!」
「だから、君はここで弟たちを守れ」
サナは歯を食いしばった。
「また待てって言うんだ」
「ああ」
俺は正直に言った。
「待つのは怖い。置いていかれるみたいで、苦しい。でも、君がここに残ってくれれば、俺は戻る理由が増える」
「戻る理由?」
「君に報告しなければならない」
サナは涙で濡れた目で俺を睨んだ。
「戻ってこなかったら許さない」
「覚えておく」
「絶対に許さない」
「ああ」
そのとき、黒曜花の中から一つの灯が浮かび上がった。
先ほどの記憶の残りのような、小さな銀色の灯。
それはサナの前まで漂い、彼女の胸元で揺れた。
サナは息を止めた。
「お母さん……?」
灯は言葉を発しない。
だが、サナの頬に触れるようにふわりと動いた。
彼女は泣きそうな顔で、けれど泣かないまま目を閉じた。
「生きてるんでしょ」
灯は答えない。
代わりに、黒曜花へ戻る直前、北東の森の方へ一度だけ揺れた。
道を示すように。
俺の鑑定が反応する。
【記憶灯:残留反応】
【方向:北東】
【意味:未完の弔い】
【備考:まだ死者として迎える段階ではない】
まだ死者として迎える段階ではない。
つまり、生きている。
少なくとも、黒曜花はそう判断している。
サナもそれを感じたのか、短剣を鞘に戻した。
「待つ」
彼女は震える声で言った。
「でも、ずっとは待たない」
「分かった」
俺はうなずいた。
夜が深くなっていく。
村人たちは、それぞれ準備に動き始めた。
バルザは古い炭焼き道の地図を描き、グランは音の出にくい短剣を整え、エナは乾いた麦粥を布に包んだ。ノアは王国軍の警戒札の見分け方を俺に教えた。
リュシアは黒曜花の前に残り、長く祈っていた。
俺はその背中を見ながら、今日見た記憶を思い返す。
共同畑を作ったマリア。
魔力毒を吸い込む魔王ゼルグレイス。
避難小屋で子どもを逃がしたサナの母親。
死者の記憶は、過去を慰めるだけではなかった。
今、何をするべきかを突きつけてくる。
黒い花は、ただ咲いているだけではない。
死者が残したものを、次の行動へ変えている。
弔いの花。
死者の価値を、生者の明日へ変える花。
その意味を、俺は少しずつ分かり始めていた。
夜明け前、俺は村を出る。
北東の森へ。
王国の臨時収容地へ。
死者の記憶が示した、まだ死者になっていない人々のもとへ。
共同畑では、黒曜花が静かに揺れていた。
その光は、見送りの灯のようだった。




