第14話 魔族の子どもたち
境界鍬で村の線を刻んだ翌朝、アシュベルの畑には、薄い霧が降りていた。
井戸から戻った水気が夜の冷えに触れ、村の低いところへ白くたまっている。十年枯れていた土地に霧が出る。それだけで、バルザは朝から何度も空を見上げていた。
「霧なんぞ、何年ぶりだろうな」
老人は杖をつきながら、畑の端に立っている。
共同畑では、黒曜花が静かに揺れていた。
その周囲には、昨日刻んだ境界線がある。
ただ土に細く刻まれた線だ。城壁でも柵でもない。だが、俺の鑑定には、その線が淡く光って見えていた。
【対象:黒花の村境界】
【状態:成立】
【効果:聖油侵入阻止、魔力毒遮断】
【維持条件:村人の意思】
【注意:攻撃意思のない侵入者には反応しない】
攻撃意思のない侵入者には反応しない。
その一文が、俺は気になっていた。
奪いに来る者だけを止める線。
それは、この村らしい境界だ。
だが同時に、危うくもある。
悪意を隠して入ってくる者には、どこまで効くのか分からない。王国が本気で攻めてくれば、いずれ破られる可能性もある。
それでも、何もないよりはいい。
ここはまだ、五人の村人と、魔王の娘と、死体鑑定士と、傷ついた元王国兵だけの村なのだから。
「レイン」
家の前からノアが声をかけてきた。
片足に添え木を当て、杖をついている。歩くなと言っても、彼は少しずつ外に出るようになっていた。
「境界の西側、もう一度見た方がいい」
「どうした」
「夜の間に、王国式の探査魔法が触れた跡がある」
ノアは兵士だったころに習ったという簡易の魔力探査を使い、境界線の周囲を確認していた。
まだ完全に信用できるわけではない。
だが、聖油や王国軍の動きに関して、ノアの知識は役に立っている。
俺は西側の境界線へ向かった。
土に刻まれた溝の一部が、わずかに白く変色している。
手で触れて鑑定する。
【対象:境界線西側】
【状態:軽微な外部干渉】
【干渉種別:王国式探査魔法】
【侵入失敗】
【追跡危険:中】
【備考:術者は境界の性質を分析中】
「王国に探られている」
俺が言うと、ノアの顔がこわばった。
「やっぱり」
「分析中と出ている。今すぐ破られるわけじゃないが、長くは持たないかもしれない」
「神官兵が来る前に、何か手を打たないと」
「何か、か」
俺は畑を見た。
黒曜花。
境界鍬。
戻った井戸。
芽吹いた麦。
この村には、まだ守りに使えるものが少なすぎる。
剣で戦えない俺たちは、死者が残した価値と、壊れたものの未来価値に頼るしかない。
そのときだった。
リュシアが畑の中央で顔を上げた。
彼女は黒曜花の根の様子を見ていたが、突然、村の北側へ視線を向けた。
「誰か来ます」
声は静かだったが、緊張していた。
俺も耳を澄ます。
最初は風の音かと思った。
だが違う。
小さな足音が複数。
走っている。
しかも、ばらばらだ。
大人の兵士の足音ではない。
「子どもか?」
グランが壊れた柵の修理を止め、槌を握った。
ノアも杖を支えに立ち上がる。
「王国の囮かもしれない」
「子どもを囮にするのか」
「する部隊は、する」
ノアの声は苦かった。
たぶん、王国兵だったころに見たことがあるのだろう。
俺は剣の柄に手を置き、北側の境界へ向かった。
霧の向こうから、最初に現れたのは小さな影だった。
獣ではない。
人間でもない。
頭に短い角。
背中に破れた布の袋。
十歳にも満たない魔族の子どもだった。
その後ろに、もう二人。
一人は耳が尖り、片腕に包帯を巻いている。
もう一人は、まだ幼く、年長の子の服の裾を握っていた。
最後に現れたのは、十三歳くらいの少女だった。
細い体に、大人用の外套を無理やりまとっている。額には小さな角が二本。金色の目には、警戒と疲労が混ざっていた。
彼女は境界線の前で足を止めた。
小さな子どもたちを背に庇い、拾ったらしい短剣を構える。
「来ないで」
かすれた声だった。
「近づいたら、刺す」
俺は足を止めた。
「近づかない」
少女の視線が俺の顔から腰の剣へ、そして隣に立つノアの王国兵の革鎧へ動いた。
その瞬間、彼女の目に明確な憎悪が浮かんだ。
「王国兵……!」
少女が短剣を握り直す。
小さな子どもたちが怯えて後ずさった。
ノアは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
今の彼が何を言っても、王国兵の鎧を着た大人にしか見えない。
いや、彼はまだ大人でもない。
だが、魔族の子どもたちにとっては十分に怖い相手なのだろう。
「ノア、少し下がれ」
「……分かった」
ノアは素直に下がった。
それでも、少女は警戒を解かなかった。
リュシアが俺の横へ進み出る。
外套のフードを外し、銀色の髪と角を見せた。
子どもたちの目が大きくなる。
「魔族……?」
小さな男の子がつぶやいた。
リュシアは膝をつき、彼らと目の高さを合わせた。
「私はリュシア。魔王城の墓守です」
「魔王城の……?」
少女の声が震えた。
「嘘。魔王城は、勇者に落とされたって」
「落とされました」
リュシアは静かに答えた。
「父も、亡くなりました」
子どもたちが息を呑む。
少女の目に、絶望に似た色が浮かんだ。
「じゃあ……魔王様は、本当に……」
「はい」
リュシアは頷いた。
「でも、父の墓はここにあります」
彼女が共同畑を指さす。
霧の向こうに、黒曜花が揺れていた。
子どもたちは、その花を見た瞬間、言葉を失った。
少女の短剣を持つ手が震える。
「黒曜花……」
小さな子どもが泣きそうな声で言った。
「お墓の花だ」
リュシアはうなずく。
「ここは、死者を弔う村です。あなたたちを傷つけるつもりはありません」
「でも、人間がいる」
少女は俺を睨んだ。
「王国兵もいる」
「俺はレイン。死体鑑定士だ」
「死体……?」
「王国からは反逆者扱いされている」
「反逆者?」
少女は疑うように目を細めた。
「人間の言うことなんか、信じない」
「それでいい」
俺は答えた。
無理に信じろと言っても、信じられるはずがない。
この子たちは、おそらく人間に追われてここまで来た。
その恐怖を、言葉だけでほどくことはできない。
「怪我人はいるか」
俺が尋ねると、少女は答えなかった。
だが、彼女の背後にいた耳の尖った少年が、包帯を巻いた腕を押さえていた。包帯には黒い血がにじんでいる。
魔力毒かもしれない。
俺はその少年の腕を見た。
「その傷、見せてくれ」
「嫌だ!」
少年が叫んだ。
「人間に触られたくない!」
俺は手を引っ込めた。
「分かった。触らない」
すると、リュシアがそっと言った。
「私が見てもいいですか」
少年は迷った。
少女が彼を庇うように立つ。
「姫様でも、駄目です」
「姫ではありません」
リュシアは首を振った。
「今は墓守です」
「墓守なら……死んだ人を見る人でしょ」
「はい」
「じゃあ、生きてる僕たちをどうするの」
少年の言葉は鋭かった。
リュシアは少しだけ目を伏せた。
それから、まっすぐ答えた。
「生きているうちに、死者にしないようにします」
少年は黙った。
その言葉が、彼に届いたのかどうかは分からない。
だが、少なくとも短剣を構えた少女は、一瞬だけ目を揺らした。
「名前は?」
俺が尋ねた。
少女は唇を結んだまま答えない。
「名乗りたくないなら、それでもいい」
「……サナ」
少女が小さく言った。
「私がサナ。この子はトト。腕を怪我してるのがリク。小さいのがミミ」
四人。
魔族の子どもたち。
年長のサナでさえ、まだ子どもだ。
なのに、彼女は三人を守るために短剣を握っている。
「どこから来た」
「東の避難小屋」
「王国軍に追われたのか」
サナは答えなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
代わりに、リクがぽつりと言う。
「大人たちは、捕まった」
サナが鋭く振り返る。
「リク」
「だって、本当だもん」
リクは泣きそうな顔で続けた。
「教会の人が来た。魔王様は死んだから、魔族の子どもは保護するって言った。でも、保護じゃなかった。角を調べるって。血を調べるって」
リュシアの顔色が変わった。
ノアが小さく息を呑む。
俺は拳を握った。
王国研究院。
死者を素材にする国。
生きている魔族の子どもも、彼らにとっては研究対象なのだ。
「逃げてきたのか」
俺が尋ねると、サナは短剣を握りしめたままうなずいた。
「お母さんが、逃げろって。魔王様の黒い花が咲く方へ行けって」
「黒い花のことを知っていたのか」
「昨日の夜、黒い光が見えた」
サナは共同畑を見た。
「大人たちが言ってた。あれは墓の光だって。魔王様が、死んだあとも道を作ってくれてるって」
魔王の埋葬で生まれた黒い光は、遠くの避難小屋からも見えていたらしい。
それが、子どもたちの道しるべになった。
死者が、生き残った子どもたちをここへ導いた。
俺の視界に、鑑定結果が浮かぶ。
【対象:魔族児童サナ一行】
【状態:疲労、空腹、軽度脱水、外傷あり】
【追跡危険:高】
【残存価値:避難民の証言】
【未来価値候補:黒花の村の最初の保護対象】
最初の保護対象。
村人候補ではない。
まだ、この子たちは村人になると決めたわけではない。
だが、守るべき対象だと表示されている。
俺はゆっくりと剣から手を離した。
「サナ」
「何」
「この境界線を越えても、こちらから捕まえたりはしない。食べ物と水はある。傷を見ることもできる」
「どうして」
「村の入口に子どもがいるからだ」
ノアを拾ったときと同じ答えだった。
サナは眉を寄せる。
「それだけ?」
「ああ」
「馬鹿じゃないの」
「よく言われる」
後ろでグランが小さく笑った。
サナはまだ警戒していた。
当然だ。
昨日今日で、人間を信じられるわけがない。
そのとき、ミトとリナがエナの後ろから顔を出した。
ミトの手には、昨日焼いた固い麦粥の残りが入った小さな器がある。
「食べる?」
ミトが恐る恐る差し出した。
サナは一歩下がる。
「いらない」
だが、小さなミミのお腹が鳴った。
本人は慌てて両手で腹を押さえたが、村の皆に聞こえていた。
沈黙が落ちる。
サナの顔が赤くなる。
「ミミ、我慢して」
「でも……」
ミミは涙目で器を見つめている。
ミトは境界線の手前に器を置き、数歩下がった。
「ここ置いとく。食べてもいいし、食べなくてもいいよ」
リナも隣に小さな木杯を置いた。
「お水も」
サナは疑うように二人を見ていた。
やがて、ミミが彼女の服の裾を引いた。
「サナ姉……」
サナは唇を噛んだ。
「毒かもしれない」
「毒なら、俺が先に食べる」
そう言ってミトが器の中の粥を一口食べた。
エナが慌てる。
「ミト!」
「大丈夫だよ。毒じゃないって見せるだけ」
サナは驚いたようにミトを見ていた。
それから、恐る恐る境界線に近づく。
足が線を越えた瞬間、黒花の村境界が淡く光った。
だが、弾かなかった。
攻撃意思がないからだ。
サナは息を呑み、自分の足元を見た。
「入れた……」
「奪いに来たわけじゃないからだ」
俺は言った。
「この境界は、そういう線らしい」
サナはまだ信じられない顔をしていた。
ミミが器に駆け寄り、小さな手で粥をすくって食べ始める。
一口食べると、目を大きくした。
「おいしい」
おいしいと言っても、薄い麦粥だ。
昨日芽吹いたばかりの村に、豊かな食事などない。
それでも、空腹の子どもには十分だったのだろう。
ミミは泣きながら食べた。
トトも水を飲み、リクは包帯を押さえたまま座り込んだ。
サナだけは最後まで立っていた。
短剣を握ったまま。
「サナ」
リュシアが声をかける。
「リクの腕を見せてください。魔力毒が入っているかもしれません」
「治せるの?」
「必ずとは言えません。でも、黒曜花の葉が助けてくれるかもしれません」
黒曜花。
その言葉に、サナは畑を見た。
「魔王様の花を、使うの?」
「はい。昨日、王国兵の命も救いました」
「王国兵を?」
サナの目がノアへ向く。
ノアは気まずそうに視線を伏せた。
「俺のことだ」
「王国兵を助けたの?」
「元、かもしれない」
「意味分かんない」
「俺もまだ分かってない」
サナは混乱したように眉を寄せた。
王国兵。
魔族の墓守。
人間の死体鑑定士。
廃村の人間たち。
魔王の墓に咲く花。
この村は、子どもに説明するには複雑すぎる。
だが、複雑でいいのかもしれない。
世界は本来、勇者と魔王だけで分けられるほど単純ではなかったのだから。
リクはしばらく迷ったあと、腕を差し出した。
「痛くしない?」
「なるべく」
リュシアが包帯を外す。
傷口は黒ずみ、周囲の皮膚が熱を持っていた。
俺は少し離れた場所から鑑定する。
【対象:魔族児童リクの右腕損傷部位】
【状態:切創、魔力毒侵入】
【原因:王国式捕縛具による裂傷】
【進行:感染前段階】
【推奨処置:浄化水洗浄、黒曜花葉の短時間接触】
【注意:過剰浄化で魔族体質に負荷】
「捕縛具の傷だ」
俺が言うと、リクがびくりとした。
「何で分かるの」
「鑑定だ」
「僕、死んでないよ」
「死にかけている部分だけ見える」
「変なの」
「よく言われる」
少しだけ、リクの警戒が薄れた気がした。
リュシアは畑へ行き、黒曜花の葉を一枚もらって戻ってきた。
彼女は必ず、花に許可を求める。
それを見て、サナの表情が少し変わった。
「葉っぱを取るだけなのに、どうして謝るの」
「これは父の墓に咲いた花だからです」
「でも、薬に使うんでしょ」
「だからこそ、勝手には使いません」
サナは黙った。
死者を素材にする国では、きっとそんなことはしない。
価値があるなら切り取る。
利用できるなら使う。
そこに許可も祈りもない。
けれど、この村では違う。
黒曜花の葉一枚にも、弔いがある。
リュシアはリクの傷を洗い、黒曜花の葉をほんの短い時間だけ当てた。
葉が淡く光り、傷の黒ずみが少しずつ薄くなる。
リクは痛みに耐えながらも、泣かなかった。
「偉いな」
俺が言うと、リクは顔を背ける。
「子ども扱いするな」
「子どもだろ」
「サナ姉が、もう子どもじゃいられないって言った」
サナの肩がわずかに震えた。
俺は何も言わなかった。
戦争は、子どもから子どもでいる時間を奪う。
ノアもそうだった。
この魔族の子どもたちもそうだ。
そして、俺自身もいつの間にか、死者の前でだけ大人の顔をするようになっていた。
治療が終わると、リクの熱は少し下がった。
トトとミミはエナに連れられ、休める家へ向かった。
サナだけが、共同畑の前に残った。
彼女は黒曜花を見つめている。
「魔王様は、本当にここにいるの」
サナが尋ねた。
リュシアはうなずいた。
「ここに眠っています」
「私たちを守ってくれる?」
その問いは、子どもらしい願いだった。
同時に、残酷な問いでもあった。
魔王はもう死んでいる。
死者に守れと願うのは、生きている者の都合だ。
リュシアは少しだけ考えた。
「父は、もう剣を取ることはできません」
彼女は正直に言った。
「でも、父の残した花は、この村を守ろうとしています」
「じゃあ、魔王様はまだ役に立つんだ」
サナの言葉に、リュシアの表情がかすかに曇った。
俺は口を挟んだ。
「役に立つから守るんじゃない」
サナが俺を見る。
「じゃあ、何で守るの」
「死者だからだ」
「死者は役に立たないと、忘れられる」
「この村では、そうしない」
「そんなの、信じられない」
「今すぐ信じなくていい」
俺は黒曜花を見た。
「ただ、ここでは死者を素材にはしない。子どもを研究材料にも渡さない。それだけは決めている」
サナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「大人たちも、ここに来られるかな」
「避難小屋に残っているのか」
「捕まった。何人かはまだ生きてると思う」
「場所は分かるか」
サナは迷った。
俺たちを信じていいのか、まだ決めきれないのだろう。
だが、リクの腕を見て、ミミが粥を食べている家を見て、最後に黒曜花を見て、彼女は小さくうなずいた。
「北東の森。古い炭焼き小屋の近く」
ノアが顔を上げた。
「王国軍の一時収容地が作られる場所だ」
「知っているのか」
「ああ。地形が隠れやすい。逃げた魔族や混血者を集めるなら、たぶんそこだ」
グランが唸る。
「助けに行くのか?」
すぐには答えられなかった。
この村はまだ弱い。
聖油を持った王国軍が明日の夜に来る。
境界線の維持だけでも精一杯だ。
そこへ捕らわれた大人たちを助けに行く余裕など、本来ない。
だが、目の前には魔族の子どもたちがいる。
大人たちを置いて逃げてきた罪悪感で、サナは短剣を離せずにいる。
俺は死者の価値を見る。
だが、生きている者がこれから死者になるのを、ただ待つための力ではないはずだ。
「すぐに助けに行くとは言えない」
俺は言った。
サナの顔が硬くなる。
「やっぱり」
「でも、見捨てるとも言わない」
「同じじゃないの」
「違う」
俺はノアを見た。
「まず場所と兵の数を調べる。聖油の件とも関係しているかもしれない」
ノアはうなずいた。
「収容地と聖油の野営地が近いなら、両方の情報が取れる」
「危険だ」
リュシアが言う。
「ああ。だから、今すぐ突っ込むのは無理だ」
サナは唇を噛んだ。
泣きそうだった。
でも泣かなかった。
泣いている暇などないと、自分に言い聞かせている顔だった。
「サナ」
俺は彼女の前に膝をついた。
「約束は簡単にしない。助けられなかったとき、その約束は君をもっと傷つける」
「じゃあ、何を信じればいいの」
「今日、この村で眠れ」
サナが目を見開く。
「眠る?」
「眠って、食べて、リクの傷を治す。明日、話を聞かせてくれ。逃げてきた道、捕まった人たち、王国兵の数。そこから考える」
「その間に、大人たちが死んだら?」
鋭い問いだった。
俺は答えに詰まった。
そのとき、リュシアが静かに言った。
「死なせないために、急がず考えます」
サナが彼女を見る。
「私も父を急いで守ろうとして、何もできませんでした。だから今は、守るために考えます」
その言葉は、リュシア自身にも向けられているようだった。
サナは短剣を握ったまま、長いあいだ黙っていた。
やがて、短剣を地面に置いた。
手放した、というより、少しだけ置いてみたという感じだった。
「一晩だけ」
彼女は言った。
「一晩だけ、ここにいる」
「ああ」
「でも、変なことしたら刺す」
「分かった」
「王国兵が近づいたら刺す」
ノアが遠くから弱々しく手を上げた。
「俺、もうかなり近くにいるんだけど」
サナはぎろりと彼を睨んだ。
「動けないから後回し」
「後回しなんだ……」
グランが笑い、ミトもつられて笑った。
緊張が少しだけほどける。
サナは笑わなかった。
けれど、短剣を再び拾おうとはしなかった。
その日の午後、魔族の子どもたちはエナの家で休むことになった。
ミミは食べながら眠ってしまい、トトは井戸の水を何度も不思議そうに見ていた。
リクは治療を終えると、疲れたのかすぐ眠った。
サナだけは、家の入口に座り、外を見張っていた。
俺は共同畑へ戻り、黒曜花を鑑定した。
【対象:黒曜花群】
【状態:安定】
【反応:魔族児童受け入れにより微弱拡大】
【効果範囲:住居区一部へ拡張】
【備考:守るべきものが増えるほど、根は広がる】
守るべきものが増えるほど、根は広がる。
その表示を見て、俺は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
魔王の遺体は、ただ土地を再生しているだけではない。
村が誰かを受け入れるたびに、黒曜花の根は広がっている。
敵だったノアを救った。
魔族の子どもたちを受け入れた。
そのたびに、この村は少しずつ村になっていく。
リュシアが隣に立った。
「子どもたち、眠りました」
「サナは?」
「入口で起きています。見張ると言って聞きません」
「無理に寝かせても眠れないだろうな」
「はい」
彼女は黒曜花を見つめた。
「レインさん。私は、あの子たちを見るのが怖いです」
「怖い?」
「はい。父が守れなかった魔族の子どもたちです。私が地下墓所に隠れていた間、あの子たちは逃げていた。私が父の棺を守っている間にも、誰かが捕まっていた」
「君のせいじゃない」
「そう言ってもらえることに、甘えてしまいそうです」
リュシアの声は小さかった。
墓守として強くなってきた彼女にも、まだ傷はある。
父を失った傷。
守れなかったという罪悪感。
魔王の娘として背負うもの。
「リュシア」
「はい」
「守れなかったものを数え始めると、動けなくなる」
俺は自分に言い聞かせるように言った。
「俺も、勇者パーティーにいた。王国が何をしていたのか、見ようとしなかった。死体を見れば分かることがあったはずなのに、見なかったものもある」
「レインさんも?」
「ああ」
思い返せば、いくつもあった。
魔族領に近づくほど増えた魔力毒。
死んだ魔物の体内に残っていた不自然な結晶。
王国軍が回収していた遺体。
俺は見えていた。
けれど、旅を進めることを優先した。
勇者の物語を疑わなかった。
「だから、今見えているものから始めるしかない」
俺はエナの家の方を見た。
「魔族の子どもたちがここに来た。なら、今はその子たちを死者にしない。それだけだ」
リュシアは静かにうなずいた。
「はい」
夕暮れが近づくころ、サナが一人で共同畑へやって来た。
短剣は腰に差している。
完全に警戒を解いたわけではない。
だが、午前中より足取りは少しだけ落ち着いていた。
「ここ、入っていい?」
彼女は黒曜花の手前で立ち止まった。
「花を踏まなければ」
俺が答えると、サナは慎重に畑へ入った。
黒曜花の前にしゃがみ込む。
「これ、本当に魔王様のお墓の花?」
「ああ」
「じゃあ、死んだ人の声とか聞ける?」
俺とリュシアは顔を見合わせた。
「声は聞けない」
俺は答えた。
「でも、記憶の灯が現れることはある」
「記憶の灯?」
「この村で亡くなった人たちの記憶が、銀色の光になって現れた」
サナの目が揺れた。
「じゃあ……お母さんが死んだら、ここに来る?」
リュシアが息を呑む。
サナは黒曜花を見つめたまま、続けた。
「大人たちが捕まったとき、お母さんが私を押した。行きなさいって。私は走った。振り返らなかった。だから、お母さんが生きてるか死んでるか分からない」
小さな肩が震える。
「もし死んでたら、ここに来る?」
俺はすぐには答えられなかった。
優しい嘘なら言える。
きっと会える。
ここに来る。
そう言えば、サナは少し安心するかもしれない。
けれど、死者の前で嘘はつきたくなかった。
「分からない」
俺は言った。
サナの顔が強張る。
「でも、もし君のお母さんが生きているなら、死者の花に頼る前に助ける方法を探す」
「本当に?」
「約束は簡単にしないと言った」
「じゃあ、何?」
「俺たちは、探す」
サナはじっと俺を見た。
その目は、嘘を見抜こうとしていた。
やがて彼女は、黒曜花に視線を戻した。
「分かった」
小さな声だった。
「一晩だけじゃなくて、明日もいる。リクが歩けるまで」
「そうか」
「でも、村人になったわけじゃない」
「知ってる」
「人間を信じたわけでもない」
「それも知ってる」
「でも……ミミが、お粥おいしいって言ったから」
サナはぼそりと言った。
「だから、少しだけいる」
俺はうなずいた。
「ようこそ、アシュベルへ」
「だから、まだそういうのじゃない」
「一応だ」
サナは少しだけむっとした顔をした。
その表情は、初めて年相応に見えた。
黒曜花が風に揺れる。
魔族の子どもたちが、黒花の村に来た。
彼らはまだ、この村を信じていない。
俺たちも、彼らを守りきれる保証はない。
それでも、村はまた一つ、守るべきものを増やした。
その夜。
黒曜花の根は、エナの家の床下まで静かに伸びていた。
眠る魔族の子どもたちを、見えないところで包むように。
魔王の墓から生まれた花は、死者だけでなく、生きている子どもたちも守り始めていた。




