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死体鑑定士、追放されたので魔王の遺体を育てます 〜勇者が殺した魔王を埋めたら、滅びた村に黒い花が咲きました〜  作者: swingout777
第2章 黒花の村

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第14話 魔族の子どもたち

 境界鍬で村の線を刻んだ翌朝、アシュベルの畑には、薄い霧が降りていた。


 井戸から戻った水気が夜の冷えに触れ、村の低いところへ白くたまっている。十年枯れていた土地に霧が出る。それだけで、バルザは朝から何度も空を見上げていた。


「霧なんぞ、何年ぶりだろうな」


 老人は杖をつきながら、畑の端に立っている。


 共同畑では、黒曜花が静かに揺れていた。


 その周囲には、昨日刻んだ境界線がある。


 ただ土に細く刻まれた線だ。城壁でも柵でもない。だが、俺の鑑定には、その線が淡く光って見えていた。


【対象:黒花の村境界】


【状態:成立】


【効果:聖油侵入阻止、魔力毒遮断】


【維持条件:村人の意思】


【注意:攻撃意思のない侵入者には反応しない】


 攻撃意思のない侵入者には反応しない。


 その一文が、俺は気になっていた。


 奪いに来る者だけを止める線。


 それは、この村らしい境界だ。


 だが同時に、危うくもある。


 悪意を隠して入ってくる者には、どこまで効くのか分からない。王国が本気で攻めてくれば、いずれ破られる可能性もある。


 それでも、何もないよりはいい。


 ここはまだ、五人の村人と、魔王の娘と、死体鑑定士と、傷ついた元王国兵だけの村なのだから。


「レイン」


 家の前からノアが声をかけてきた。


 片足に添え木を当て、杖をついている。歩くなと言っても、彼は少しずつ外に出るようになっていた。


「境界の西側、もう一度見た方がいい」


「どうした」


「夜の間に、王国式の探査魔法が触れた跡がある」


 ノアは兵士だったころに習ったという簡易の魔力探査を使い、境界線の周囲を確認していた。


 まだ完全に信用できるわけではない。


 だが、聖油や王国軍の動きに関して、ノアの知識は役に立っている。


 俺は西側の境界線へ向かった。


 土に刻まれた溝の一部が、わずかに白く変色している。


 手で触れて鑑定する。


【対象:境界線西側】


【状態:軽微な外部干渉】


【干渉種別:王国式探査魔法】


【侵入失敗】


【追跡危険:中】


【備考:術者は境界の性質を分析中】


「王国に探られている」


 俺が言うと、ノアの顔がこわばった。


「やっぱり」


「分析中と出ている。今すぐ破られるわけじゃないが、長くは持たないかもしれない」


「神官兵が来る前に、何か手を打たないと」


「何か、か」


 俺は畑を見た。


 黒曜花。


 境界鍬。


 戻った井戸。


 芽吹いた麦。


 この村には、まだ守りに使えるものが少なすぎる。


 剣で戦えない俺たちは、死者が残した価値と、壊れたものの未来価値に頼るしかない。


 そのときだった。


 リュシアが畑の中央で顔を上げた。


 彼女は黒曜花の根の様子を見ていたが、突然、村の北側へ視線を向けた。


「誰か来ます」


 声は静かだったが、緊張していた。


 俺も耳を澄ます。


 最初は風の音かと思った。


 だが違う。


 小さな足音が複数。


 走っている。


 しかも、ばらばらだ。


 大人の兵士の足音ではない。


「子どもか?」


 グランが壊れた柵の修理を止め、槌を握った。


 ノアも杖を支えに立ち上がる。


「王国の囮かもしれない」


「子どもを囮にするのか」


「する部隊は、する」


 ノアの声は苦かった。


 たぶん、王国兵だったころに見たことがあるのだろう。


 俺は剣の柄に手を置き、北側の境界へ向かった。


 霧の向こうから、最初に現れたのは小さな影だった。


 獣ではない。


 人間でもない。


 頭に短い角。


 背中に破れた布の袋。


 十歳にも満たない魔族の子どもだった。


 その後ろに、もう二人。


 一人は耳が尖り、片腕に包帯を巻いている。


 もう一人は、まだ幼く、年長の子の服の裾を握っていた。


 最後に現れたのは、十三歳くらいの少女だった。


 細い体に、大人用の外套を無理やりまとっている。額には小さな角が二本。金色の目には、警戒と疲労が混ざっていた。


 彼女は境界線の前で足を止めた。


 小さな子どもたちを背に庇い、拾ったらしい短剣を構える。


「来ないで」


 かすれた声だった。


「近づいたら、刺す」


 俺は足を止めた。


「近づかない」


 少女の視線が俺の顔から腰の剣へ、そして隣に立つノアの王国兵の革鎧へ動いた。


 その瞬間、彼女の目に明確な憎悪が浮かんだ。


「王国兵……!」


 少女が短剣を握り直す。


 小さな子どもたちが怯えて後ずさった。


 ノアは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。


 今の彼が何を言っても、王国兵の鎧を着た大人にしか見えない。


 いや、彼はまだ大人でもない。


 だが、魔族の子どもたちにとっては十分に怖い相手なのだろう。


「ノア、少し下がれ」


「……分かった」


 ノアは素直に下がった。


 それでも、少女は警戒を解かなかった。


 リュシアが俺の横へ進み出る。


 外套のフードを外し、銀色の髪と角を見せた。


 子どもたちの目が大きくなる。


「魔族……?」


 小さな男の子がつぶやいた。


 リュシアは膝をつき、彼らと目の高さを合わせた。


「私はリュシア。魔王城の墓守です」


「魔王城の……?」


 少女の声が震えた。


「嘘。魔王城は、勇者に落とされたって」


「落とされました」


 リュシアは静かに答えた。


「父も、亡くなりました」


 子どもたちが息を呑む。


 少女の目に、絶望に似た色が浮かんだ。


「じゃあ……魔王様は、本当に……」


「はい」


 リュシアは頷いた。


「でも、父の墓はここにあります」


 彼女が共同畑を指さす。


 霧の向こうに、黒曜花が揺れていた。


 子どもたちは、その花を見た瞬間、言葉を失った。


 少女の短剣を持つ手が震える。


「黒曜花……」


 小さな子どもが泣きそうな声で言った。


「お墓の花だ」


 リュシアはうなずく。


「ここは、死者を弔う村です。あなたたちを傷つけるつもりはありません」


「でも、人間がいる」


 少女は俺を睨んだ。


「王国兵もいる」


「俺はレイン。死体鑑定士だ」


「死体……?」


「王国からは反逆者扱いされている」


「反逆者?」


 少女は疑うように目を細めた。


「人間の言うことなんか、信じない」


「それでいい」


 俺は答えた。


 無理に信じろと言っても、信じられるはずがない。


 この子たちは、おそらく人間に追われてここまで来た。


 その恐怖を、言葉だけでほどくことはできない。


「怪我人はいるか」


 俺が尋ねると、少女は答えなかった。


 だが、彼女の背後にいた耳の尖った少年が、包帯を巻いた腕を押さえていた。包帯には黒い血がにじんでいる。


 魔力毒かもしれない。


 俺はその少年の腕を見た。


「その傷、見せてくれ」


「嫌だ!」


 少年が叫んだ。


「人間に触られたくない!」


 俺は手を引っ込めた。


「分かった。触らない」


 すると、リュシアがそっと言った。


「私が見てもいいですか」


 少年は迷った。


 少女が彼を庇うように立つ。


「姫様でも、駄目です」


「姫ではありません」


 リュシアは首を振った。


「今は墓守です」


「墓守なら……死んだ人を見る人でしょ」


「はい」


「じゃあ、生きてる僕たちをどうするの」


 少年の言葉は鋭かった。


 リュシアは少しだけ目を伏せた。


 それから、まっすぐ答えた。


「生きているうちに、死者にしないようにします」


 少年は黙った。


 その言葉が、彼に届いたのかどうかは分からない。


 だが、少なくとも短剣を構えた少女は、一瞬だけ目を揺らした。


「名前は?」


 俺が尋ねた。


 少女は唇を結んだまま答えない。


「名乗りたくないなら、それでもいい」


「……サナ」


 少女が小さく言った。


「私がサナ。この子はトト。腕を怪我してるのがリク。小さいのがミミ」


 四人。


 魔族の子どもたち。


 年長のサナでさえ、まだ子どもだ。


 なのに、彼女は三人を守るために短剣を握っている。


「どこから来た」


「東の避難小屋」


「王国軍に追われたのか」


 サナは答えなかった。


 だが、その沈黙が答えだった。


 代わりに、リクがぽつりと言う。


「大人たちは、捕まった」


 サナが鋭く振り返る。


「リク」


「だって、本当だもん」


 リクは泣きそうな顔で続けた。


「教会の人が来た。魔王様は死んだから、魔族の子どもは保護するって言った。でも、保護じゃなかった。角を調べるって。血を調べるって」


 リュシアの顔色が変わった。


 ノアが小さく息を呑む。


 俺は拳を握った。


 王国研究院。


 死者を素材にする国。


 生きている魔族の子どもも、彼らにとっては研究対象なのだ。


「逃げてきたのか」


 俺が尋ねると、サナは短剣を握りしめたままうなずいた。


「お母さんが、逃げろって。魔王様の黒い花が咲く方へ行けって」


「黒い花のことを知っていたのか」


「昨日の夜、黒い光が見えた」


 サナは共同畑を見た。


「大人たちが言ってた。あれは墓の光だって。魔王様が、死んだあとも道を作ってくれてるって」


 魔王の埋葬で生まれた黒い光は、遠くの避難小屋からも見えていたらしい。


 それが、子どもたちの道しるべになった。


 死者が、生き残った子どもたちをここへ導いた。


 俺の視界に、鑑定結果が浮かぶ。


【対象:魔族児童サナ一行】


【状態:疲労、空腹、軽度脱水、外傷あり】


【追跡危険:高】


【残存価値:避難民の証言】


【未来価値候補:黒花の村の最初の保護対象】


 最初の保護対象。


 村人候補ではない。


 まだ、この子たちは村人になると決めたわけではない。


 だが、守るべき対象だと表示されている。


 俺はゆっくりと剣から手を離した。


「サナ」


「何」


「この境界線を越えても、こちらから捕まえたりはしない。食べ物と水はある。傷を見ることもできる」


「どうして」


「村の入口に子どもがいるからだ」


 ノアを拾ったときと同じ答えだった。


 サナは眉を寄せる。


「それだけ?」


「ああ」


「馬鹿じゃないの」


「よく言われる」


 後ろでグランが小さく笑った。


 サナはまだ警戒していた。


 当然だ。


 昨日今日で、人間を信じられるわけがない。


 そのとき、ミトとリナがエナの後ろから顔を出した。


 ミトの手には、昨日焼いた固い麦粥の残りが入った小さな器がある。


「食べる?」


 ミトが恐る恐る差し出した。


 サナは一歩下がる。


「いらない」


 だが、小さなミミのお腹が鳴った。


 本人は慌てて両手で腹を押さえたが、村の皆に聞こえていた。


 沈黙が落ちる。


 サナの顔が赤くなる。


「ミミ、我慢して」


「でも……」


 ミミは涙目で器を見つめている。


 ミトは境界線の手前に器を置き、数歩下がった。


「ここ置いとく。食べてもいいし、食べなくてもいいよ」


 リナも隣に小さな木杯を置いた。


「お水も」


 サナは疑うように二人を見ていた。


 やがて、ミミが彼女の服の裾を引いた。


「サナ姉……」


 サナは唇を噛んだ。


「毒かもしれない」


「毒なら、俺が先に食べる」


 そう言ってミトが器の中の粥を一口食べた。


 エナが慌てる。


「ミト!」


「大丈夫だよ。毒じゃないって見せるだけ」


 サナは驚いたようにミトを見ていた。


 それから、恐る恐る境界線に近づく。


 足が線を越えた瞬間、黒花の村境界が淡く光った。


 だが、弾かなかった。


 攻撃意思がないからだ。


 サナは息を呑み、自分の足元を見た。


「入れた……」


「奪いに来たわけじゃないからだ」


 俺は言った。


「この境界は、そういう線らしい」


 サナはまだ信じられない顔をしていた。


 ミミが器に駆け寄り、小さな手で粥をすくって食べ始める。


 一口食べると、目を大きくした。


「おいしい」


 おいしいと言っても、薄い麦粥だ。


 昨日芽吹いたばかりの村に、豊かな食事などない。


 それでも、空腹の子どもには十分だったのだろう。


 ミミは泣きながら食べた。


 トトも水を飲み、リクは包帯を押さえたまま座り込んだ。


 サナだけは最後まで立っていた。


 短剣を握ったまま。


「サナ」


 リュシアが声をかける。


「リクの腕を見せてください。魔力毒が入っているかもしれません」


「治せるの?」


「必ずとは言えません。でも、黒曜花の葉が助けてくれるかもしれません」


 黒曜花。


 その言葉に、サナは畑を見た。


「魔王様の花を、使うの?」


「はい。昨日、王国兵の命も救いました」


「王国兵を?」


 サナの目がノアへ向く。


 ノアは気まずそうに視線を伏せた。


「俺のことだ」


「王国兵を助けたの?」


「元、かもしれない」


「意味分かんない」


「俺もまだ分かってない」


 サナは混乱したように眉を寄せた。


 王国兵。


 魔族の墓守。


 人間の死体鑑定士。


 廃村の人間たち。


 魔王の墓に咲く花。


 この村は、子どもに説明するには複雑すぎる。


 だが、複雑でいいのかもしれない。


 世界は本来、勇者と魔王だけで分けられるほど単純ではなかったのだから。


 リクはしばらく迷ったあと、腕を差し出した。


「痛くしない?」


「なるべく」


 リュシアが包帯を外す。


 傷口は黒ずみ、周囲の皮膚が熱を持っていた。


 俺は少し離れた場所から鑑定する。


【対象:魔族児童リクの右腕損傷部位】


【状態:切創、魔力毒侵入】


【原因:王国式捕縛具による裂傷】


【進行:感染前段階】


【推奨処置:浄化水洗浄、黒曜花葉の短時間接触】


【注意:過剰浄化で魔族体質に負荷】


「捕縛具の傷だ」


 俺が言うと、リクがびくりとした。


「何で分かるの」


「鑑定だ」


「僕、死んでないよ」


「死にかけている部分だけ見える」


「変なの」


「よく言われる」


 少しだけ、リクの警戒が薄れた気がした。


 リュシアは畑へ行き、黒曜花の葉を一枚もらって戻ってきた。


 彼女は必ず、花に許可を求める。


 それを見て、サナの表情が少し変わった。


「葉っぱを取るだけなのに、どうして謝るの」


「これは父の墓に咲いた花だからです」


「でも、薬に使うんでしょ」


「だからこそ、勝手には使いません」


 サナは黙った。


 死者を素材にする国では、きっとそんなことはしない。


 価値があるなら切り取る。


 利用できるなら使う。


 そこに許可も祈りもない。


 けれど、この村では違う。


 黒曜花の葉一枚にも、弔いがある。


 リュシアはリクの傷を洗い、黒曜花の葉をほんの短い時間だけ当てた。


 葉が淡く光り、傷の黒ずみが少しずつ薄くなる。


 リクは痛みに耐えながらも、泣かなかった。


「偉いな」


 俺が言うと、リクは顔を背ける。


「子ども扱いするな」


「子どもだろ」


「サナ姉が、もう子どもじゃいられないって言った」


 サナの肩がわずかに震えた。


 俺は何も言わなかった。


 戦争は、子どもから子どもでいる時間を奪う。


 ノアもそうだった。


 この魔族の子どもたちもそうだ。


 そして、俺自身もいつの間にか、死者の前でだけ大人の顔をするようになっていた。


 治療が終わると、リクの熱は少し下がった。


 トトとミミはエナに連れられ、休める家へ向かった。


 サナだけが、共同畑の前に残った。


 彼女は黒曜花を見つめている。


「魔王様は、本当にここにいるの」


 サナが尋ねた。


 リュシアはうなずいた。


「ここに眠っています」


「私たちを守ってくれる?」


 その問いは、子どもらしい願いだった。


 同時に、残酷な問いでもあった。


 魔王はもう死んでいる。


 死者に守れと願うのは、生きている者の都合だ。


 リュシアは少しだけ考えた。


「父は、もう剣を取ることはできません」


 彼女は正直に言った。


「でも、父の残した花は、この村を守ろうとしています」


「じゃあ、魔王様はまだ役に立つんだ」


 サナの言葉に、リュシアの表情がかすかに曇った。


 俺は口を挟んだ。


「役に立つから守るんじゃない」


 サナが俺を見る。


「じゃあ、何で守るの」


「死者だからだ」


「死者は役に立たないと、忘れられる」


「この村では、そうしない」


「そんなの、信じられない」


「今すぐ信じなくていい」


 俺は黒曜花を見た。


「ただ、ここでは死者を素材にはしない。子どもを研究材料にも渡さない。それだけは決めている」


 サナはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく言った。


「大人たちも、ここに来られるかな」


「避難小屋に残っているのか」


「捕まった。何人かはまだ生きてると思う」


「場所は分かるか」


 サナは迷った。


 俺たちを信じていいのか、まだ決めきれないのだろう。


 だが、リクの腕を見て、ミミが粥を食べている家を見て、最後に黒曜花を見て、彼女は小さくうなずいた。


「北東の森。古い炭焼き小屋の近く」


 ノアが顔を上げた。


「王国軍の一時収容地が作られる場所だ」


「知っているのか」


「ああ。地形が隠れやすい。逃げた魔族や混血者を集めるなら、たぶんそこだ」


 グランが唸る。


「助けに行くのか?」


 すぐには答えられなかった。


 この村はまだ弱い。


 聖油を持った王国軍が明日の夜に来る。


 境界線の維持だけでも精一杯だ。


 そこへ捕らわれた大人たちを助けに行く余裕など、本来ない。


 だが、目の前には魔族の子どもたちがいる。


 大人たちを置いて逃げてきた罪悪感で、サナは短剣を離せずにいる。


 俺は死者の価値を見る。


 だが、生きている者がこれから死者になるのを、ただ待つための力ではないはずだ。


「すぐに助けに行くとは言えない」


 俺は言った。


 サナの顔が硬くなる。


「やっぱり」


「でも、見捨てるとも言わない」


「同じじゃないの」


「違う」


 俺はノアを見た。


「まず場所と兵の数を調べる。聖油の件とも関係しているかもしれない」


 ノアはうなずいた。


「収容地と聖油の野営地が近いなら、両方の情報が取れる」


「危険だ」


 リュシアが言う。


「ああ。だから、今すぐ突っ込むのは無理だ」


 サナは唇を噛んだ。


 泣きそうだった。


 でも泣かなかった。


 泣いている暇などないと、自分に言い聞かせている顔だった。


「サナ」


 俺は彼女の前に膝をついた。


「約束は簡単にしない。助けられなかったとき、その約束は君をもっと傷つける」


「じゃあ、何を信じればいいの」


「今日、この村で眠れ」


 サナが目を見開く。


「眠る?」


「眠って、食べて、リクの傷を治す。明日、話を聞かせてくれ。逃げてきた道、捕まった人たち、王国兵の数。そこから考える」


「その間に、大人たちが死んだら?」


 鋭い問いだった。


 俺は答えに詰まった。


 そのとき、リュシアが静かに言った。


「死なせないために、急がず考えます」


 サナが彼女を見る。


「私も父を急いで守ろうとして、何もできませんでした。だから今は、守るために考えます」


 その言葉は、リュシア自身にも向けられているようだった。


 サナは短剣を握ったまま、長いあいだ黙っていた。


 やがて、短剣を地面に置いた。


 手放した、というより、少しだけ置いてみたという感じだった。


「一晩だけ」


 彼女は言った。


「一晩だけ、ここにいる」


「ああ」


「でも、変なことしたら刺す」


「分かった」


「王国兵が近づいたら刺す」


 ノアが遠くから弱々しく手を上げた。


「俺、もうかなり近くにいるんだけど」


 サナはぎろりと彼を睨んだ。


「動けないから後回し」


「後回しなんだ……」


 グランが笑い、ミトもつられて笑った。


 緊張が少しだけほどける。


 サナは笑わなかった。


 けれど、短剣を再び拾おうとはしなかった。


 その日の午後、魔族の子どもたちはエナの家で休むことになった。


 ミミは食べながら眠ってしまい、トトは井戸の水を何度も不思議そうに見ていた。


 リクは治療を終えると、疲れたのかすぐ眠った。


 サナだけは、家の入口に座り、外を見張っていた。


 俺は共同畑へ戻り、黒曜花を鑑定した。


【対象:黒曜花群】


【状態:安定】


【反応:魔族児童受け入れにより微弱拡大】


【効果範囲:住居区一部へ拡張】


【備考:守るべきものが増えるほど、根は広がる】


 守るべきものが増えるほど、根は広がる。


 その表示を見て、俺は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 魔王の遺体は、ただ土地を再生しているだけではない。


 村が誰かを受け入れるたびに、黒曜花の根は広がっている。


 敵だったノアを救った。


 魔族の子どもたちを受け入れた。


 そのたびに、この村は少しずつ村になっていく。


 リュシアが隣に立った。


「子どもたち、眠りました」


「サナは?」


「入口で起きています。見張ると言って聞きません」


「無理に寝かせても眠れないだろうな」


「はい」


 彼女は黒曜花を見つめた。


「レインさん。私は、あの子たちを見るのが怖いです」


「怖い?」


「はい。父が守れなかった魔族の子どもたちです。私が地下墓所に隠れていた間、あの子たちは逃げていた。私が父の棺を守っている間にも、誰かが捕まっていた」


「君のせいじゃない」


「そう言ってもらえることに、甘えてしまいそうです」


 リュシアの声は小さかった。


 墓守として強くなってきた彼女にも、まだ傷はある。


 父を失った傷。


 守れなかったという罪悪感。


 魔王の娘として背負うもの。


「リュシア」


「はい」


「守れなかったものを数え始めると、動けなくなる」


 俺は自分に言い聞かせるように言った。


「俺も、勇者パーティーにいた。王国が何をしていたのか、見ようとしなかった。死体を見れば分かることがあったはずなのに、見なかったものもある」


「レインさんも?」


「ああ」


 思い返せば、いくつもあった。


 魔族領に近づくほど増えた魔力毒。


 死んだ魔物の体内に残っていた不自然な結晶。


 王国軍が回収していた遺体。


 俺は見えていた。


 けれど、旅を進めることを優先した。


 勇者の物語を疑わなかった。


「だから、今見えているものから始めるしかない」


 俺はエナの家の方を見た。


「魔族の子どもたちがここに来た。なら、今はその子たちを死者にしない。それだけだ」


 リュシアは静かにうなずいた。


「はい」


 夕暮れが近づくころ、サナが一人で共同畑へやって来た。


 短剣は腰に差している。


 完全に警戒を解いたわけではない。


 だが、午前中より足取りは少しだけ落ち着いていた。


「ここ、入っていい?」


 彼女は黒曜花の手前で立ち止まった。


「花を踏まなければ」


 俺が答えると、サナは慎重に畑へ入った。


 黒曜花の前にしゃがみ込む。


「これ、本当に魔王様のお墓の花?」


「ああ」


「じゃあ、死んだ人の声とか聞ける?」


 俺とリュシアは顔を見合わせた。


「声は聞けない」


 俺は答えた。


「でも、記憶の灯が現れることはある」


「記憶の灯?」


「この村で亡くなった人たちの記憶が、銀色の光になって現れた」


 サナの目が揺れた。


「じゃあ……お母さんが死んだら、ここに来る?」


 リュシアが息を呑む。


 サナは黒曜花を見つめたまま、続けた。


「大人たちが捕まったとき、お母さんが私を押した。行きなさいって。私は走った。振り返らなかった。だから、お母さんが生きてるか死んでるか分からない」


 小さな肩が震える。


「もし死んでたら、ここに来る?」


 俺はすぐには答えられなかった。


 優しい嘘なら言える。


 きっと会える。


 ここに来る。


 そう言えば、サナは少し安心するかもしれない。


 けれど、死者の前で嘘はつきたくなかった。


「分からない」


 俺は言った。


 サナの顔が強張る。


「でも、もし君のお母さんが生きているなら、死者の花に頼る前に助ける方法を探す」


「本当に?」


「約束は簡単にしないと言った」


「じゃあ、何?」


「俺たちは、探す」


 サナはじっと俺を見た。


 その目は、嘘を見抜こうとしていた。


 やがて彼女は、黒曜花に視線を戻した。


「分かった」


 小さな声だった。


「一晩だけじゃなくて、明日もいる。リクが歩けるまで」


「そうか」


「でも、村人になったわけじゃない」


「知ってる」


「人間を信じたわけでもない」


「それも知ってる」


「でも……ミミが、お粥おいしいって言ったから」


 サナはぼそりと言った。


「だから、少しだけいる」


 俺はうなずいた。


「ようこそ、アシュベルへ」


「だから、まだそういうのじゃない」


「一応だ」


 サナは少しだけむっとした顔をした。


 その表情は、初めて年相応に見えた。


 黒曜花が風に揺れる。


 魔族の子どもたちが、黒花の村に来た。


 彼らはまだ、この村を信じていない。


 俺たちも、彼らを守りきれる保証はない。


 それでも、村はまた一つ、守るべきものを増やした。


 その夜。


 黒曜花の根は、エナの家の床下まで静かに伸びていた。


 眠る魔族の子どもたちを、見えないところで包むように。


 魔王の墓から生まれた花は、死者だけでなく、生きている子どもたちも守り始めていた。


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