第12話 最初の村人
アシュベルに十年ぶりの緑が芽吹いた翌日、村の入口に人が倒れていた。
最初に見つけたのは、ミトだった。
「レイン兄ちゃん!」
朝の畑仕事を始めようとしていた俺のもとへ、ミトが息を切らして走ってきた。
昨日まで熱で寝込んでいたとは思えない勢いだったので、俺は思わず眉をひそめる。
「走るなと言っただろ」
「それどころじゃないよ!」
ミトは村の入口を指さした。
「人が倒れてる! 門のところ!」
「人?」
「うん。王国の鎧、着てる」
その一言で、空気が変わった。
鍬を手にしていたグランが顔を上げる。
井戸から水を汲んでいたリュシアも、手を止めた。
王国の鎧。
それは、昨日この村へ来た勇者カイゼルの追討隊を意味している可能性が高かった。
「生きているのか?」
「分かんない。でも、少し動いた」
「案内してくれ」
俺は剣を腰に差し、ミトの後を追った。
リュシアもすぐに続く。
「私も行きます」
「危ないかもしれない」
「だから行きます」
彼女は短く答えた。
墓守の少女は、昨日よりも少しだけ背筋が伸びているように見えた。
村の入口といっても、立派な門があるわけではない。
崩れかけた木柵の切れ目に、かつて門柱だったらしい柱が二本残っているだけだ。
その片方にもたれるように、一人の男が倒れていた。
いや、男というより、まだ少年に近い。
年は十七か、十八。
王国兵の革鎧を着ているが、正規兵にしては装備が粗末だ。胸当ては薄く、肩当ても片方が割れている。腰には短剣があるが、鞘から半分抜けたまま落ちていた。
顔は土と血で汚れている。
左足に深い傷。
右腕には火傷。
唇は乾き、呼吸は浅かった。
敵かもしれない。
罠かもしれない。
けれど、目の前にあるのは瀕死の人間だった。
「水を」
俺が言うと、リュシアはすぐに持っていた水筒を差し出した。
少年兵の口元へ水を含ませる。
彼はわずかに喉を鳴らし、苦しそうに目を開けた。
薄い茶色の目が、俺を見た。
次に、リュシアを見た。
その瞳が恐怖に大きく開く。
「ま……魔族……」
「動くな。傷が開く」
俺は低く言った。
少年兵は身を起こそうとしたが、左足の痛みに顔を歪め、そのまま崩れた。
「俺は……敵じゃ……」
「鎧を着て村の入口で倒れている時点で、敵かどうかは微妙だな」
「ち、違う……俺は、置いて……」
そこまで言って、少年兵は激しく咳き込んだ。
血が混じっている。
内臓も傷めているかもしれない。
俺は彼の手首に触れた。
生きている人間の鑑定は、俺にはできない。
だが、死にかけている者の体には、死に近づいた部分がある。
壊れかけた肉。
血を失った組織。
毒に触れた傷。
そこからなら、見えることがある。
鑑定を発動する。
【対象:王国補充兵ノア・テイル】
【状態:生存】
【損傷:左大腿部裂傷、肋骨二本亀裂、右腕火傷、脱水】
【死因候補:失血、感染、魔力毒侵入】
【残存時間予測:処置なしの場合、半日未満】
【注意:敵意より恐怖が強い】
【遺体化前価値:未帰還兵の証言】
未帰還兵の証言。
まだ死んでいないのに、俺の鑑定は彼が死んだあとの価値まで見せていた。
嫌な見え方だった。
まるで、世界が彼をもう死ぬものとして扱っているようで。
「ノア・テイル」
俺が名前を呼ぶと、少年兵の目が見開かれた。
「な、なんで……」
「鑑定だ。お前はまだ死んでいない」
「まだ……?」
「ああ。だから黙っていろ。今は助ける」
ノアは俺の顔を見つめた。
信じられない、という目だった。
「助ける……? 俺を?」
「放っておけば死ぬ」
「俺は、王国兵だぞ」
「見れば分かる」
「お前は、反逆者の……死体鑑定士……」
「らしいな」
俺はリュシアを見た。
「村まで運ぶ。グランを呼んでくれ。あと、清潔な布と湯が必要だ」
「はい」
リュシアはすぐに走った。
ノアは彼女の背中を見て、怯えたように体をこわばらせる。
「魔族に……殺される……」
「その魔族が、今お前を助けるために布を取りに行った」
「嘘だ」
「生きて確かめろ」
俺はノアの肩を支えた。
その体は驚くほど軽かった。
兵士というより、飢えた少年だった。
グランが駆けつけ、俺と二人でノアを担いだ。
村の中へ運ぶと、バルザが杖をついて出てきた。
「王国兵か」
「ああ」
「厄介なものを拾ったな」
「死にかけていた」
「なら仕方ない」
バルザは即答した。
その言葉に、ノアがわずかに目を開けた。
「仕方ない……?」
「死にかけの若造を、村の入口で腐らせる趣味はない」
バルザは老婆の家を指さした。
「空いている寝台を使え。婆さんは今朝から少し歩ける。譲ってくれるだろう」
「助かる」
「助かるかどうかは、あの若造次第だ」
俺たちはノアを家の中へ運び込んだ。
リュシアが湯と布を用意し、母親のエナが薬草の入った小瓶を持ってきた。
「古いものですけど、傷の熱を抑える薬です」
「使えるか見てみる」
俺は小瓶に触れた。
【対象:乾燥薬草液】
【状態:劣化あり】
【主成分:傷熱草、井戸苔】
【使用可能:希釈すれば可】
【注意:原液使用で皮膚炎】
「水で薄めれば使える」
「分かりました」
エナが急いで準備する。
俺はノアの左足の傷を見た。
刃物による裂傷。
だが、王国兵同士の剣ではない。
傷口に、黒く濁った魔力が残っている。
「魔物にやられたのか?」
俺が尋ねると、ノアはかすかに首を振った。
「馬が……倒れて……そのあと、森で……」
「落馬か」
「違う。隊が、黒い花を焼くために……聖油を運んでた。でも、途中で魔力毒の沼に……馬が暴れて……」
聖油。
黒い花を焼くため。
俺の手が止まった。
「カイゼルは、もう次の手を打ったのか」
リュシアの顔が青ざめる。
「黒曜花を、焼くつもりなのですか」
「そのようだ」
ノアが苦しげに息を吐く。
「俺は、荷を守れって……でも、馬車が倒れて……火が……仲間が……」
「置いていかれたのか」
ノアは唇を噛んだ。
答えなくても分かった。
彼の鎧には、王国軍の正式な部隊章がない。
補充兵。
正規兵の穴を埋めるために集められた若者。
死んでも記録の端に小さく名前が残るだけの兵士だ。
「勇者様は……急げって」
ノアは目を閉じた。
「負傷者を運ぶ余裕はないって。俺は、まだ動けるって言った。でも……足が……」
「それで置いていかれた」
「違う」
ノアは反射的に否定した。
「勇者様は、正しい。任務が大事だ。魔王の花を焼かなきゃ、王国が危ないって……」
「お前は危なくなかったのか」
「俺は……兵士だから」
その言葉は、あまりにも弱かった。
自分に言い聞かせるためだけの言葉だった。
俺は傷口を洗った。
ノアが歯を食いしばる。
「痛むぞ」
「もう痛い……!」
「なら少し我慢しろ」
傷口から黒い泥のようなものが出てきた。
魔力毒だ。
このままでは感染して死ぬ。
俺はもう一度、傷口に触れて鑑定する。
【対象:左大腿部損傷部位】
【魔力毒侵入:中度】
【通常処置:切除推奨】
【代替処置:黒曜花の葉による毒吸着】
【注意:使用には墓守の許可が必要】
黒曜花の葉。
俺はリュシアを見た。
「使えるかもしれない」
「黒曜花を、ですか」
「ああ。葉が毒を吸うらしい。ただし、君の許可が必要だ」
リュシアは一瞬だけ目を伏せた。
黒曜花は、魔王の墓に咲いた花だ。
父の遺体から生まれた弔いの花。
それを、王国兵の治療に使う。
簡単にうなずけるはずがない。
ノアもそれを理解したのか、苦しげに笑った。
「やめろよ……魔族の花なんて……俺に使うな」
「黙っていろ」
「敵だぞ、俺は……お前たちを捕まえに……来た側だ」
「なら、なおさら生きろ」
俺は言った。
「お前が死ねば、王国は好きに物語を作る。反逆者に殺された兵士だとな。生きていれば、自分の口で話せる」
ノアは目を見開いた。
リュシアが静かに立ち上がる。
「レインさん」
「無理なら、別の方法を探す」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「墓守リュシアが許可します」
その声に、迷いはあった。
けれど拒絶はなかった。
「黒曜花よ。死者を冒涜するためではなく、生きている者を救うために、葉を一枚お貸しください」
リュシアは畑へ向かった。
しばらくして、小さな黒い葉を一枚、両手で包むように持って戻ってきた。
葉の縁には銀色の光が宿っている。
彼女はそれをノアの傷口へそっと当てた。
ノアが息を呑む。
「冷たい……いや、温かい……?」
黒い葉は、傷口に触れると薄く光った。
傷の奥に沈んでいた黒い毒が、葉へ吸い上げられていく。
やがて葉は、濁った灰色に変わった。
リュシアが静かにそれを外す。
鑑定結果が浮かぶ。
【魔力毒侵入:軽度へ低下】
【失血進行:停止】
【感染危険:低下】
【生存可能性:上昇】
助かる。
俺は息を吐いた。
「命はつながった」
エナが胸をなで下ろす。
グランが壁にもたれたまま、低く言った。
「敵兵まで救っちまったな」
「まずかったか」
「いや」
グランは片目を細めた。
「俺は嫌いじゃねえよ。こういう馬鹿は」
ノアはぼんやりと天井を見ていた。
たぶん、まだ信じられないのだろう。
自分が魔族の花に助けられたことを。
自分を置いていった王国ではなく、反逆者と魔族のいる村が傷を塞いだことを。
「……どうして」
ノアがかすれた声で言った。
「どうして、俺を助けるんだ」
誰もすぐには答えなかった。
俺は少し考えた。
「村の入口に、人が倒れていたからだ」
「それだけ?」
「ああ」
「俺は、魔王の花を焼きに来た」
「まだ焼いていない」
「治ったら、また焼くかもしれない」
「そのときは止める」
ノアは困惑したように俺を見た。
「おかしいだろ……」
「よく言われる」
「敵を助けるなんて、おかしい」
「死にかけている相手を助けるのに、敵かどうかを先に考える方が、俺には難しい」
ノアの目が揺れた。
彼は何かを言おうとして、言えなかった。
その日の午後、ノアは高熱を出した。
黒曜花で魔力毒はかなり抜けたが、失った血と疲労は消えない。
リュシアは何度も水を替え、エナは薬を煎じ、ミトとリナは家の外で静かに座っていた。
ノアは熱に浮かされながら、何度も同じ言葉を繰り返した。
「置いていかないで……」
勇者様、ではなかった。
王国のために、でもなかった。
ただ、置いていかないで。
その言葉だけだった。
夕方になり、熱が少し下がったころ、ノアはようやくまともに話せるようになった。
俺は寝台の横に腰を下ろす。
「話せるか」
「……少しなら」
「聖油のことを聞きたい」
ノアは怯えたように目を伏せた。
「言ったら、俺は裏切り者になる」
「言わなくても、この村ではもうお前を助けた。王国が知れば、どうせ疑われる」
「そんな……」
「選ぶのはお前だ」
俺は無理に迫るつもりはなかった。
だが、黒曜花を焼く計画があるなら、知っておかなければならない。
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、枕元の布を握りしめる。
「聖油は、教会の浄化油だ。魔族の墓や呪物を焼くのに使うって、神官兵が言ってた」
「量は?」
「馬車三台分。でも、一台は沼で燃えた。俺が乗ってたやつだ」
「残り二台」
「たぶん、いったん野営地へ運んでる。勇者様は、今夜は攻めない。明日の夜、神官兵を増やしてから花を焼くって……」
リュシアが顔をこわばらせた。
「明日の夜……」
「黒曜花は、普通の火では燃えないって神官兵が言ってた。でも聖油なら、根まで焼けるかもしれないって」
「根まで……」
リュシアの声が震えた。
黒曜花の根は、魔王の遺体につながっている。
それを焼くということは、墓を壊すだけではない。
魔王の遺体を、もう一度傷つけることになる。
俺は拳を握った。
「分かった。助かった」
ノアは俺を見た。
「俺は……助かっていいのか」
「どういう意味だ」
「仲間を置いてきた」
「お前が置いたわけじゃない」
「でも、俺だけ助かった」
生き残った者の罪悪感。
戦場で何度も見た顔だった。
ノアはまだ若い。
補充兵として戦場へ送られ、勇者の物語の端で消費されかけた少年だ。
彼は敵だ。
だが同時に、捨てられた者でもある。
「助かった命を、どう使うかはお前が決めろ」
俺は言った。
「王国へ戻るなら、止めない」
リュシアが驚いたように俺を見る。
だが、俺は続けた。
「ただし、傷が治ってからだ。それまではこの村で寝ていろ」
「戻ったら……俺は、またここを攻める側になるかもしれない」
「そのときは敵だ」
「じゃあ、今殺せばいい」
「それは違う」
俺は首を振った。
「未来の敵だから今殺す、という考え方を始めたら、王国と同じになる」
ノアは何も言えなくなった。
部屋の中に沈黙が落ちる。
外では、畑仕事を終えた村人たちが井戸の周りで話している。
水の音がする。
黒曜花が風に揺れる音がする。
ノアはその音を聞いていた。
「……変な村だな」
「まだ村と呼べるほどじゃない」
「水の音がする」
「ああ。昨日戻った」
「俺の村は、井戸が枯れて出ていった」
意外な言葉だった。
俺はノアを見る。
「お前の村も?」
「北の開拓村。魔力毒で畑が駄目になった。父さんは王都に働きに出て、帰ってこなかった。母さんは病気で死んだ。俺は兵になれば食えるって言われて……」
彼は自嘲するように笑った。
「英雄になれるかもって、少し思ってた」
「勇者に憧れていたのか」
「みんなそうだろ。王国の子どもは、勇者様みたいになれって育つ」
俺はカイゼルの顔を思い浮かべた。
白銀の鎧。
民衆に向ける完璧な笑顔。
子どもたちが憧れるには十分な姿だった。
「でも、勇者様は俺の名前を知らなかった」
ノアは天井を見つめた。
「置いていくときも、補充兵って呼んだ。ノアじゃなくて」
その声には、怒りよりも寂しさがあった。
名前を呼ばれないまま捨てられる。
それは、死者だけの問題ではないのかもしれない。
生きているうちから、人は時々、名前を失う。
兵士。
魔族。
反逆者。
素材。
役立たず。
そう呼ばれ続けるうちに、本当の名前が消えていく。
「ノア」
俺が呼ぶと、彼は目を動かした。
「お前の名前は、ノア・テイルだ」
「……鑑定で見えたんだろ」
「ああ」
「死んだあとに見える名前か?」
「違う。まだ生きている名前だ」
ノアは目を閉じた。
まぶたの端に、小さな涙がにじんだ。
「……そっか」
その夜、村で小さな話し合いが開かれた。
場所は共同畑のそば。
黒曜花が月明かりの下で静かに揺れている。
中央には、昨日芽吹いたばかりの緑がある。
バルザ、グラン、エナ、ミト、リナ。
リュシア。
そして俺。
ノアはまだ歩けないため、家の中で眠っている。
「王国兵を置いておくのは危険だ」
最初にそう言ったのはグランだった。
彼は腕を組み、畑の土を見つめていた。
「だが、追い出せば死ぬ」
バルザが言う。
「それは後味が悪い」
「後味の問題じゃねえ。あいつが元気になって逃げたら、村の中を全部しゃべるかもしれねえ」
「もう遅い」
俺は言った。
「王国はこの村を知っている。黒曜花も見られている。ノアが話さなくても、明日の夜には聖油を持って来る」
「なら、あいつから聞けるだけ聞いて、あとは縛っとくか」
グランの言葉は荒いが、責める気にはなれなかった。
彼は村を守ろうとしている。
王国に家族や仲間を奪われた者が、王国兵を簡単に信じられるはずもない。
リュシアが静かに口を開いた。
「私は、ノアさんをこの村に置いてもいいと思います」
グランが彼女を見る。
「姫さん。あいつは黒曜花を焼きに来た兵だぞ」
「はい」
「お父上の墓を焼きに来たんだ」
「分かっています」
リュシアは黒曜花を見つめた。
「それでも、父の花で命をつなぎました。なら、彼をここで死なせるのは、花の意味を裏切ることになる気がします」
グランは黙った。
バルザが小さくうなずく。
「わしも同じだ。魔王様の花が救った命を、わしらが捨てるのは違うだろう」
「だが、村人として迎えるってのは話が早すぎる」
グランが言う。
「俺たちは、王国と戦えるほど強くねえ。腹の中が分からねえ兵を抱える余裕もねえ」
「村人にするかどうかは、本人が決めることだ」
俺は言った。
「ただ、傷が治るまではここに置く。それ以上は、ノアが選ぶ」
「戻ると言ったら?」
「止めない」
「戻って敵になると言ったら?」
「そのときは敵として向き合う」
グランは、片目で俺をじっと見た。
やがて、深いため息をつく。
「あんた、甘いな」
「よく言われる」
「でもまあ」
彼は黒曜花を見た。
「この村には、甘さくらいしか残ってなかったのかもしれねえな」
それで話は決まった。
ノアは、傷が治るまでアシュベルに置く。
見張りはする。
だが、捕虜としてではなく、傷病人として扱う。
それが、この村の最初の決定だった。
翌朝。
ノアは熱が下がり、少しだけ体を起こせるようになっていた。
俺が水を持っていくと、彼は窓の外を見ていた。
黒曜花と、芽吹いた畑が見える窓だ。
「昨日、話し合った」
俺が言うと、ノアは肩をこわばらせた。
「追い出すのか」
「傷が治るまではここにいろ」
「捕虜として?」
「病人として」
ノアは呆然とした。
「……本当に変な村だ」
「ああ」
「俺、帰ったら殺されるかもしれない」
「王国に?」
「任務失敗。敵に治療された。情報を漏らした。どれか一つでも十分だ」
「なら、帰らない選択肢もある」
ノアは俺を見た。
「ここにいろってことか」
「決めるのはお前だ」
「王国兵の俺が、この村に?」
「元王国兵になることはできる」
ノアは笑おうとして、傷が痛んだのか顔をしかめた。
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単じゃない。だから決めるのは今じゃなくていい」
俺は水を差し出した。
ノアは両手で受け取り、少しずつ飲んだ。
しばらくして、ぽつりと言った。
「俺、畑仕事なんてしたことない」
「俺も昨日始めたばかりだ」
「兵士以外、何もできない」
「この村は、できない者だらけだ」
ノアは窓の外を見た。
ミトとリナが、小さな桶で水を運んでいる。
グランが壊れた柵を直している。
リュシアが黒曜花の根を確認している。
バルザが杖をつきながら、古い種袋を抱えて畑へ向かっている。
皆、不器用だった。
弱かった。
足りないものばかりだった。
それでも、村は動いていた。
「……俺がここにいたら、迷惑じゃないのか」
「迷惑かどうかは、これから決まる」
「厳しいな」
「優しく言ったつもりだ」
ノアは少しだけ笑った。
それは初めて見る、年相応の笑みだった。
「じゃあ、傷が治るまで……置いてください」
彼は小さく頭を下げた。
「お願いします」
その言葉を聞いた瞬間、俺の視界に鑑定結果が浮かんだ。
生きている人間の鑑定はできない。
そのはずだった。
だが、ノアの枕元に置かれた血まみれの王国兵の認識布が、薄く光っていた。
【対象:王国補充兵ノア・テイルの認識布】
【状態:所有者生存】
【過去価値:未帰還兵の証明】
【現在価値:保留された帰属】
【未来価値候補:アシュベル最初の移住者】
未来価値候補。
そんな表示を、俺は初めて見た。
死体鑑定のはずなのに。
壊れたものや死にかけたものしか見えないはずなのに。
今、俺には、まだ決まっていない未来の候補が見えている。
それは確定ではない。
ノアは戻るかもしれない。
裏切るかもしれない。
また敵になるかもしれない。
それでも、彼はこの村の最初の移住者になる可能性を持っている。
死にかけた兵士が、廃村の最初の村人になる。
俺は水の入った器を置き、静かに言った。
「ようこそ、アシュベルへ」
ノアは目を瞬かせた。
「まだ、村人になるって決めたわけじゃ……」
「知ってる」
「じゃあ、なんで」
「ここへ来た人には、最初に言っておいた方がいい気がした」
ノアは困ったように笑った。
「本当に変な村だ」
「ああ」
窓の外で、黒い花が揺れていた。
魔王の墓に咲いた花。
死者の価値を、生者の明日へ変える花。
その花が救った最初の命は、王国兵だった。
捨てられた村に、捨てられた兵士が残る。
敵だった者を、まだ村人とは呼べない。
けれど、アシュベルは確かに一人を受け入れた。
それが、この村の始まりだった。




