第11話 死体鑑定士の畑仕事
魔王を埋めた翌朝、俺は畑に立っていた。
勇者パーティーにいたころ、朝はだいたい剣の音か、魔物の咆哮か、カイゼルの命令で始まった。
だがアシュベルの朝は違う。
井戸の水を汲む音。
枯れかけた木戸が風に鳴る音。
鍛冶屋のグランが古い鍬を叩く音。
そして、黒い花が風に揺れる、かすかな葉擦れの音。
昨日まで死んでいた村とは思えないほど、静かに、けれど確かに何かが動き始めていた。
共同畑の中央には、魔王ゼルグレイスの墓がある。
墓標はまだない。
代わりに、黒曜花が円を描くように咲いていた。
夜の間に数は増えていた。昨日は畑の中心だけだった黒い花が、今朝には畝の端にまで広がっている。
花びらは黒く、縁だけが銀色に光る。
不気味と言えば不気味だ。
だが、近くに立つと分かる。
この花は、死の匂いではなく、土の匂いをしていた。
「……畑仕事なんて、久しぶりだな」
俺は足元の土を手に取った。
昨日まで粉のように乾いていた土は、指先で軽く握ると、かすかにまとまる程度の湿り気を持っていた。
まだ豊かな土とは言えない。
けれど、完全に死んではいない。
俺は鑑定を発動する。
【対象:アシュベル共同畑の土】
【状態:魔力毒残留、乾燥、微弱な再生反応】
【改善要素:黒曜花による浄化進行中】
【不足要素:腐葉土、有機質、水分、耕起】
【推奨作業:浅く耕し、黒曜花の根を傷つけずに畝を作る】
土の鑑定。
正確には、これは普通の鑑定ではない。
俺に見えているのは、土そのものの価値ではなく、土の中に残っている死んだ根や虫、魔力毒にやられた微生物の痕跡だ。
死んだものが含まれているから、俺には見える。
つくづく、便利なのか不便なのか分からない力だった。
「畑まで死体扱いか」
思わず苦笑する。
背後で、くすりと小さな笑い声がした。
振り返ると、リュシアが立っていた。
黒い外套を脱ぎ、動きやすい服に着替えている。銀色の髪は後ろで結ばれ、小さな角が朝日に淡く光っていた。
手には木桶を持っている。
「おはようございます、レインさん」
「ああ。おはよう」
「畑も鑑定できるのですね」
「畑というより、土の中に残っている死んだものを見ている感じだ」
「死んだものを……」
リュシアは少し考え込んだあと、共同畑を見渡した。
「なら、この畑にはたくさんの記憶があるのですね」
「記憶?」
「はい。昔ここで育った麦や豆や芋。土の中で死んだ虫。枯れた草。村の人たちが耕した跡。そういうものも、残っているのでしょう?」
俺は少し驚いた。
死体しか見えないと言うと、大抵の人間は顔をしかめる。
だがリュシアは、その言葉を嫌がらなかった。
むしろ、そこに意味を見つけようとしている。
「たぶん、残っている」
俺は土を手のひらの上で崩した。
「俺には、まだ弱い反応しか見えない。でも、この畑は完全には終わっていない」
「よかった」
リュシアは胸に手を当てた。
「父を埋めた場所が、死んだままではなかったのですね」
「死んだ場所だったからこそ、魔王の遺体が根を張れたのかもしれない」
「根……」
リュシアは黒曜花を見た。
「父が、根になっているのですね」
その声には寂しさがあった。
だが、昨日のように泣き崩れる気配はなかった。
彼女の中でも、父の死が少しずつ形を変え始めているのかもしれない。
喪失ではなく、弔いへ。
弔いから、守るべきものへ。
「レインさん」
「何だ?」
「私にも、畑仕事を教えてください」
「俺も詳しくはないぞ」
「でも、鑑定で分かるのでしょう?」
「分かるのは、やってはいけないことくらいだ」
「それで十分です」
リュシアは真面目な顔で言った。
「私は、黒曜花の根を傷つけたくありません」
その言葉に、俺はうなずいた。
「じゃあ、まず水だな。ただし、花の根元に直接かけすぎない方がいい」
「なぜですか?」
「鑑定では、根が魔力毒を吸っている。急に水を入れすぎると、浄化前の毒が広がるかもしれない」
「では、少し離れた場所に?」
「ああ。畝の外側に細い溝を作って、そこへ流す」
リュシアは真剣にうなずいた。
魔王の娘が、木桶を抱えて畑の水やりを覚えている。
ほんの数日前の俺なら、そんな光景を想像もしなかっただろう。
「おーい、鑑定士殿」
村の方から、片目の鍛冶屋グランが歩いてきた。
昨日、王国軍相手に「逃げるのか」と言って、カイゼルを少しだけ怒らせた男だ。
年は四十前後だろうか。
右目は布で覆われ、左腕には古い火傷の痕がある。体格はいいが、長い飢えと病で頬はこけている。
それでも、今朝の彼には昨日より少しだけ力が戻っていた。
肩には、修理された鍬が二本担がれている。
「使えそうな道具をかき集めてきた。だが、どれも半分死んでる」
「半分死んでるなら、俺の出番だな」
「言うと思ったぜ」
グランは鍬を地面に置いた。
柄はひび割れ、刃は錆びている。
俺はそのうち一本に触れ、鑑定を発動した。
【対象:古い鍬】
【状態:刃こぼれ、柄に亀裂】
【由来:アシュベル共同畑で二十七年使用】
【残存価値:土の癖を覚えた農具】
【修復推奨:刃を研ぎ直し、柄を半分だけ交換】
【注意:柄を全交換すると、畑との馴染みが低下】
「柄は全部替えない方がいい」
俺が言うと、グランは眉を上げた。
「普通は全部替えるぞ。ここまで割れてるんだからな」
「でも、この鍬はこの畑で二十七年使われている。土の癖を覚えているらしい」
「土の癖?」
「そう出てる」
グランは鍬をまじまじと見た。
「農具が土の癖を覚えるのか」
「俺も初めて見た」
「死体鑑定士ってのは、農具の人生まで見えるのかよ」
「死んだような農具ならな」
グランは一瞬ぽかんとしたあと、大声で笑った。
「そいつは便利だ! この村は死にかけのもんだらけだからな!」
リュシアが驚いたようにグランを見る。
笑い声が、村に響いた。
それはたぶん、アシュベルで久しぶりに聞こえた大きな笑い声だった。
家の戸口から、バルザが顔を出す。
「朝から騒がしいぞ、グラン」
「じいさん、聞いたか。この鑑定士殿は死にかけの鍬まで見てくれるらしい」
「なら、わしも鑑定してもらうか。そろそろ死にかけだ」
「じいさんはまだ口が達者だから無理だ」
グランがそう返すと、バルザは鼻を鳴らした。
リュシアが小さく笑う。
俺も、つられて少し笑った。
追放されてから初めて、胸が軽くなった気がした。
勇者パーティーでは、俺の能力が笑われることはあった。
だがそれは、馬鹿にする笑いだった。
ここでの笑いは違う。
死にかけのものを見られるなら、使い道がある。
そう言われているようだった。
「よし」
グランは鍬を拾い上げた。
「柄を半分だけ替えて、刃を研ぐ。昼までには使えるようにしてやる」
「頼む」
「その代わり、あとで壊れた井戸の滑車も見てくれ。あれも半分死んでる」
「俺の仕事が増えるな」
「畑仕事ってのは、そういうもんだ」
グランは笑いながら戻っていった。
リュシアは木桶を置き、袖をまくる。
「私は溝を作ります」
「無理するなよ」
「墓守は、土を掘るのに慣れています」
「それはそうかもしれないけど、畑の溝と墓穴は違うだろ」
「どちらも、土に何かを受け入れてもらうために掘るものです」
俺は返す言葉に詰まった。
リュシアは真顔だった。
魔族の墓守は、ときどき妙に深いことを言う。
俺たちは畑の外側に細い溝を掘り始めた。
硬かった土は、昨日よりずっと柔らかくなっている。鍬が入るたび、乾いた粉ではなく、湿った土が裏返った。
その下から、小さな白い根のようなものが見えた。
黒曜花の根ではない。
もっと細く、弱い。
俺は手を止め、鑑定する。
【対象:休眠種子】
【状態:発芽準備中】
【種別:アシュベル麦】
【休眠期間:九年】
【発芽条件:水分、魔力毒濃度低下】
「種が残ってる」
俺が言うと、リュシアが目を見開いた。
「種?」
「ああ。九年前の麦の種だ。まだ死んでいない」
近くで聞いていたバルザが、杖を落としそうになった。
「アシュベル麦だと?」
「知っているのか?」
「この村で育てていた麦だ。痩せた土地でも育つ。だが、井戸が枯れてからは一粒も芽を出さなくなった」
「まだ眠っているらしい」
俺は土を戻した。
「水を入れれば、芽が出るかもしれない。ただし、魔力毒が下がってからだ」
バルザは目を赤くしていた。
「まだ……残っていたのか」
その声は、誰かの生存を知ったときのようだった。
ただの麦の種。
けれど、この村にとっては違う。
失われたと思っていた暮らしの記憶だ。
「死んでいないものも見えるのですね」
リュシアが言った。
「死にかけだからな」
「でも、生きています」
「ああ」
俺は土を見つめた。
「生きてる」
その言葉は、不思議と胸に残った。
俺の力は死体しか見えない。
そう思っていた。
だが、死にかけているものを見るということは、まだ助けられるものを見つけることでもあるのかもしれない。
壊れた鍬。
枯れた畑。
眠った種。
死にかけた村。
どれも、完全には終わっていなかった。
「レインさん!」
村の方から声がした。
振り返ると、昨日まで熱を出していた少年が走ってきた。
名前はミト。
妹のリナを連れている。
二人ともまだ顔色は悪いが、昨日より目に力が戻っていた。
「走るな」
母親が後ろから慌てて追ってくる。
ミトは俺の前で足を止め、息を切らしながら両手を差し出した。
手のひらには、小さな骨があった。
「これ、見て」
「骨?」
「畑の端で見つけた。動物の骨かなって」
俺は慎重に受け取った。
小さな骨。
鳥か、小動物のものだろうか。
鑑定する。
【対象:畑ネズミの骨】
【死因:魔力毒による衰弱】
【残存価値:土中毒濃度の指標】
【現在値:危険域から注意域へ低下】
俺は息を吐いた。
「いい知らせだ」
「いい知らせ?」
「この骨の周りの毒が、昨日より薄くなっている。畑が回復している証拠だ」
ミトの顔が明るくなる。
「じゃあ、作物が育つ?」
「すぐには無理だ。でも、準備はできる」
「僕も手伝う!」
「病み上がりだろ」
「水くみくらいならできる!」
母親が困ったように言う。
「すみません、レインさん。この子、昨日からずっと畑を手伝うと言って聞かなくて」
「無理しない範囲ならいい」
俺はミトに骨を返した。
「これは畑の隅に埋めておけ。ここが回復した証になる」
「うん!」
ミトは妹と一緒に駆けていった。
母親が深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「俺は何も」
「いいえ。昨日までは、あの子たちが走る姿をもう見られないと思っていました」
彼女は黒い花を見た。
「魔王様のおかげなのでしょうか」
「たぶん」
「人間の国では、そんなことを言ったら罰せられるのでしょうね」
「かもしれない」
「でも、私は覚えておきます」
彼女は小さく言った。
「この村の子どもたちを、魔王様の花が救ってくれたことを」
俺は何も言えなかった。
魔王が人を救う。
そんな言葉は、王国では許されない。
だが、ここではそれが事実だった。
昼近くになると、畑の周りには村人全員が集まっていた。
五人しかいない村人。
そこに、リュシアと俺を加えて七人。
たった七人の畑仕事。
それでも、昨日まで死んでいた村には大きすぎる変化だった。
グランが修理した鍬を持って戻ってきた。
バルザは古い種袋を探し出してきた。
ミトとリナは井戸の水を小さな桶で運んだ。
母親は乾かして残していた豆の種を持ってきた。
リュシアは黒曜花の根を傷つけないよう、一本一本の位置を丁寧に確認していた。
俺はその横で、土と道具と種を鑑定し続けた。
【発芽可能】
【水分過多注意】
【魔力毒残留あり】
【この畝は浅く】
【この種は死んでいる】
【この種は眠っている】
死んだものと、まだ生きているもの。
終わったものと、戻せるもの。
その境目を見分ける仕事だった。
勇者パーティーでは、俺の鑑定は戦いの後始末だった。
だがこの村では、始まりのために使われている。
それが、少しだけくすぐったかった。
「レインさん」
リュシアが隣で言った。
「畑仕事は、死者を弔うことに似ていますね」
「そうか?」
「はい。土に眠るものを傷つけず、残されたものを見つけて、次の命につなぐ」
俺は手についた土を見た。
死体鑑定士の手。
死者の傷や毒を見てきた手。
その手が今、畑の土で汚れている。
悪くない汚れだった。
「そうかもしれないな」
俺は答えた。
そのとき、畑の中央の黒曜花が一斉に揺れた。
風はない。
花びらの間から、黒い光が薄く広がる。
畑全体を撫でるように光が流れ、俺たちが作ったばかりの畝に染み込んでいった。
バルザが息を呑む。
「これは……」
俺の視界に鑑定結果が浮かぶ。
【黒曜花群:土地再生促進】
【アシュベル共同畑:初期再生段階へ移行】
【休眠種子:一部発芽準備完了】
畝の一つから、小さな緑の芽が顔を出した。
ほんの指先ほどの芽。
弱く、頼りなく、すぐに折れてしまいそうな芽。
それでも、緑だった。
アシュベルに、十年ぶりの緑が出た。
誰も声を出せなかった。
リュシアが両手で口元を押さえる。
バルザが膝をつく。
グランが空を見上げる。
子どもたちは、芽を怖がらせないようにそっと近づいた。
俺は、その小さな芽を見つめた。
死体しか見えない鑑定士。
そう呼ばれて追放された俺が、今、死にかけた畑から芽を見つけている。
死者を見てきた力が、生きるものを支え始めている。
それは、俺自身にも信じられないような光景だった。
「レインさん」
リュシアが静かに言った。
「今日は、父の墓に最初の朝が来たのですね」
「ああ」
黒い花のそばで、緑の芽が揺れていた。
死者の花と、生者の芽。
その二つが同じ畑にある。
アシュベルの畑仕事は、そこから始まった。




