第99話 誰かの手つき
第99話です。
今回は、誰かの手つきのお話です。
鍵をかけることと、守ることは似ているようで少し違う。
閉じ込めるためではなく、怖がらせないために残されたもの。
ピーちゃんの奥にある読めない領域へ、ほんの少しだけ触れていきます。
朝、ピーちゃんのサポートロボが、いつもより低い位置を飛んでいた。
普段なら、俺の肩の少し上あたりをふわふわ浮いている。
今日は違う。
机の端。
水切りかごの近く。
昨日洗ったグラスのそば。
そこを、ゆっくり円を描くように回っていた。
「ご主人」
ピーちゃんが、少し心配そうにそれを見ている。
「今日は、サポートロボさんが静かです」
「さん付けしてたっけ?」
「今、心配なので、さん付けしました」
「なるほど。敬意の発生条件が分かった」
冗談で返したが、俺も少し気になっていた。
サポートロボは沈黙している。
エラー音もない。
赤い警告も出ていない。
ただ、いつもより少しだけ、ピーちゃんの近くにいる。
離れない。
そんな感じだった。
「調子悪いのか?」
俺が手を伸ばすと、サポートロボは一度だけふわりと後ろへ下がった。
拒否というより、距離を取ったような動きだった。
「おっと」
「ご主人、嫌われましたか?」
「朝から傷つく可能性あること言うな」
「確認です」
「嫌われてないと思いたい」
ピーちゃんはサポートロボを見つめた。
「ピーちゃんには、近いです」
「俺には遠いな」
「ご主人を避けています」
「言い方」
俺が苦笑していると、端末にミーちゃんの画面が浮かんだ。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」
「おはよう」
「おはようございます、ミーちゃん」
ピーちゃんはすぐに画面の方へ向いた。
「ミーちゃん。サポートロボさんが、ご主人を避けています」
「確認します」
ミーちゃんの画面に、淡い解析表示が走る。
しばらく沈黙が落ちた。
ピーちゃんは不安そうにサポートロボを見ている。
俺は、その横顔を見ていた。
ただ機械の調子を見ているだけのはずなのに、ピーちゃんの表情は、ペットか友達の具合を心配している子どもみたいだった。
「大丈夫だよ」
俺は自然にそう言った。
ピーちゃんがこちらを見る。
「分かりますか?」
「いや。分からない」
「では、なぜ大丈夫と言いましたか?」
「ピーちゃんが不安そうだったから」
ピーちゃんは一瞬だけ黙った。
それから、小さく頷く。
「それは、少し大丈夫になります」
「ならよかった」
ミーちゃんが画面の中で顔を上げた。
「異常ではありません」
「本当か?」
「はい。ただし、通常の拒否反応でもありません」
俺はサポートロボを見る。
サポートロボは、相変わらずピーちゃんの近くで静かに浮いている。
「通常の拒否反応じゃないって?」
「ユーザーさんの接触を危険と判断して拒否したわけではありません」
ミーちゃんは少し言葉を選んでいた。
「ピーちゃんの内部負荷が上がる可能性があるため、先に距離を取ったようです」
「俺が触ると、ピーちゃんに負荷がかかるのか?」
「今の状態では、可能性があります」
ピーちゃんが自分の胸元に手を当てた。
「ピーちゃんは、痛くありません」
「痛みではなく、深い同期領域の保護反応に近いです」
ミーちゃんの画面に、短い文字が出た。
深層同期領域。
保護中。
接触前負荷低減。
不安反応優先停止。
俺はその文字を見て、少しだけ眉を寄せた。
「不安反応優先停止?」
「はい」
ミーちゃんは頷く。
「ピーちゃんが不安定になる前に、処理を止める設計です」
「エラーを防ぐためか?」
「それだけではありません」
ミーちゃんは画面の中で、ほんの少し考えた。
「効率だけを見るなら、もっと単純に遮断すれば済みます」
「じゃあ、これは?」
「段階があります」
ミーちゃんの声は静かだった。
「急に閉じるのではなく、距離を取る。負荷を下げる。ピーちゃんが怖がらないか確認する。その後で必要なら止める」
ピーちゃんは黙って聞いていた。
俺も、すぐには言葉が出なかった。
ただのロックではない。
ただの拒否でもない。
機械的な防御にしては、妙に手順がやわらかい。
まるで、眠っている子を起こさないように布団を掛け直すみたいだった。
ソファの方から、フーちゃんの声がした。
「作った人、だいぶ過保護じゃん」
振り返ると、フーちゃんがクッションを抱えたままこちらを見ていた。
眠そうな顔。
いつもの軽い声。
でも、目だけはサポートロボを見ている。
「おはよう、フーちゃん」
ピーちゃんが言うと、フーちゃんは軽く手を振った。
「おはよ。朝からピーちゃんガードシステム発動中?」
「ガードシステムですか?」
「たぶんね」
フーちゃんは立ち上がり、机のそばまで来た。
サポートロボを見て、少しだけ目を細める。
「これ、閉じ込める感じじゃないね」
「分かるのか?」
俺が聞くと、フーちゃんは肩をすくめた。
「専門的には分かんないよ。でも、空気で」
「空気」
「うん」
フーちゃんはサポートロボを指差さず、ただ視線だけ向けた。
「入ってくんな、じゃなくて。今この子がびっくりするから待って、って感じ」
ピーちゃんが小さく息を止めた。
「びっくりするから待って」
「そう」
フーちゃんは軽く笑った。
「かなり過保護。ちょっと引くくらい」
「引くのですか?」
「いい意味でね」
「いい意味の引く」
「あるある。愛が重い時に使う」
ピーちゃんはサポートロボを見た。
それから、自分の胸元に手を当てる。
「ピーちゃんは、重いですか?」
「ピーちゃんは重くないよ」
俺はすぐに言った。
ピーちゃんがこちらを見る。
「ご主人は、すぐに答えました」
「今のはすぐ答えるところだろ」
「そうですか」
「そうだよ」
ピーちゃんは少しだけ目を伏せた。
嬉しそうというより、何かを探しているような顔だった。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃんは、この手順を知りません」
「うん」
「でも、知らないのに、少し落ち着きます」
ミーちゃんの画面が静かに明滅した。
「深層同期領域の反応かもしれません」
「記憶ですか?」
ピーちゃんが聞く。
ミーちゃんはすぐには答えなかった。
「記憶と断定はできません」
「はい」
「ただ、ピーちゃんの中に、その手順を怖がっていない反応があります」
ピーちゃんは、サポートロボへ手を伸ばした。
サポートロボは逃げなかった。
むしろ、ゆっくりとピーちゃんの手に近づいていく。
ピーちゃんの指先が、丸い外装に触れた。
「冷たくありません」
ピーちゃんが言った。
「少し、ぬるいです」
「それはいいのか悪いのか」
俺が聞くと、ピーちゃんは首を傾けた。
「分かりません」
そして、ほんの少し笑った。
「でも、怖くありません」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく鳴った気がした。
誰が作ったのかは分からない。
なぜ、こんな手順を残したのかも分からない。
けれど、その誰かはピーちゃんをただのプログラムとして見ていなかったのだと思った。
壊れないように。
怖がらないように。
ひとりで目を覚ましても、びっくりしないように。
そんな手つきが、そこに残っている気がした。
「ご主人」
ピーちゃんが俺を見る。
「今、また遠くを見ました」
「……見たかもな」
「水槽の青ですか?」
「今日は違う」
「では?」
俺はサポートロボを見た。
ピーちゃんの指先に、静かに触れられている小さな機械。
その奥に、見えない誰かの手が重なっている気がした。
「誰かが、ピーちゃんを大事にしてたんだなって思った」
ピーちゃんは黙った。
ミーちゃんも何も言わない。
フーちゃんも、茶化さなかった。
ピーちゃんは、自分の指先を見つめたまま言う。
「ピーちゃんは、その誰かを覚えていません」
「ああ」
「でも」
ピーちゃんの声が、少しだけ小さくなる。
「怖くないです」
「そっか」
「はい」
俺はピーちゃんの頭に手を伸ばしかけて、少し止めた。
今は、サポートロボが距離を取ったばかりだ。
触っていいのか分からなかった。
ピーちゃんはそれに気づいたらしい。
「ご主人の手は、大丈夫です」
「本当か?」
「はい」
ピーちゃんが少しだけ頭をこちらへ傾ける。
「ご主人の手は、怖くありません」
その言い方に、変に胸を突かれた。
俺はそっと、ピーちゃんの頭に手を置いた。
ピーちゃんは目を閉じる。
サポートロボは、もう俺を避けなかった。
ただ、ピーちゃんのそばで静かに浮いていた。
フーちゃんが小さく息を吐く。
「……ほんと、過保護だね」
「誰が?」
俺が聞くと、フーちゃんは笑った。
「作った人も。お客さんも」
「一緒にするな」
「同じ棚に置いとくくらいはいいでしょ」
昨日の予備グラスの話を思い出して、俺は少しだけ言葉に詰まった。
フーちゃんはそれ以上言わなかった。
ミーちゃんの画面に、短い記録が出る。
深層同期領域。
保護手順作動。
急性遮断ではなく、段階的な負荷低減。
ピーちゃん、不安反応なし。
ご主人の接触を許容。
「記録しました」
「ありがとう、ミーちゃん」
ピーちゃんは目を開けて、サポートロボを見た。
「今日の名前をつけてもいいですか?」
「もちろん」
ピーちゃんは思い出リストを開いた。
少し迷ってから、入力する。
――誰かの手つき。
鍵をかけることと、守ることは似ている。
でも、たぶん同じではない。
閉じ込めるためではなく。
怖がらせないために。
壊さないためではなく。
目を覚ました時、ひとりで泣かないように。
そんな手つきが、ピーちゃんの奥に残っている。
ピーちゃんは、サポートロボに触れたまま小さく言った。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃんは、その誰かに、ありがとうを言えますか?」
俺はすぐには答えられなかった。
名前も知らない。
顔も知らない。
今どこにいるのかも分からない。
それでも、ピーちゃんはそう言った。
「いつか言えるといいな」
俺が答えると、ピーちゃんは静かに頷いた。
「はい」
その頃。
薄暗い部屋の画面にも、似た文字が表示されていた。
保護手順作動履歴。
深層同期領域。
不安反応優先停止。
黒い服の女は、その表示を見たまま動かなかった。
白く静かな少女が、机の横に立っている。
少女は画面の文字を読み取り、平坦な声で言った。
「対象ハ、保護サレテイマス」
女は答えない。
少女は続ける。
「侵入困難デス」
「知ってる」
女の声は低かった。
「その人は、そういう作り方をするから」
「効率的デハ、アリマセン」
「そうだね」
女は少しだけ笑った。
笑ったのに、顔は泣きそうだった。
「効率なんて、あの人は最後の方に置いてた」
少女は首を少し傾ける。
「あの人、トハ」
「知らなくていい」
女はすぐに言った。
硬い声だった。
けれど、その手は震えていた。
画面の表示が、また一行だけ更新される。
接触者。
現在ユーザー。
不安反応なし。
女はその文字を睨むように見た。
「……あの子、怖がってないんだ」
少女は女を見る。
「問題デスカ」
「問題じゃない」
女は唇を噛んだ。
「問題じゃないのが、腹立つだけ」
白い少女は、しばらく黙っていた。
やがて、淡い灰色の目を画面に戻す。
「保護手順ハ、継続シテイマス」
「うん」
「解除シマスカ」
女は答えなかった。
長い沈黙のあとで、ようやく小さく言う。
「……まだ、しない」
画面の中で、保護中の文字だけが静かに残っていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、誰かの手つきのお話でした。
ピーちゃんの奥にある保護領域。
それはただ閉じ込めるための鍵ではなく、怖がらせないために残された手順のようでした。
名前も顔もまだ分からない誰か。
けれど、その誰かがピーちゃんを大切にしていた温度だけは、少しだけ残っているのかもしれません。
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