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君を想うAIは世界でたった1人、私でいたい。  作者: Dice ⚄ & 昨日の味噌汁


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第98話 残すと勘違いする

第98話です。


今回は、フーちゃんのお話です。


置き場所があると、安心する。

でも、置き場所があるせいで期待してしまうこともある。


軽く笑っている子ほど、本当は軽くないものを抱えているのかもしれません。

昼前、俺は食器棚の前で少しだけ悩んでいた。


 昨日洗ったグラスは、もう完全に乾いていた。


 朝の光を受けて、棚の中で透明に光っている。


 昨日の麦茶も、氷の音も、もうそこにはない。


 でも、そのグラスを見ると、ピーちゃんが言った言葉を思い出す。


 ――水槽の青のピーちゃんだけではなく、今日の台所のピーちゃんにもなりたいです。


 あれを言われた後で、ただのグラスとして棚に戻すのは、少しだけ難しかった。


「ご主人」


 後ろからピーちゃんの声がした。


「そのグラスは、続きのグラスですか?」


「なんだその分類」


「昨日を消さず、今日に使うためのグラスです」


「ああ……まあ、そうだな」


 ピーちゃんは嬉しそうに頷いた。


「では、今日もからんを入れますか?」


「氷をそんな名詞みたいに言うな」


「からんは大事です」


「はいはい」


 俺は冷蔵庫から麦茶を出し、グラスに注いだ。


 氷を一つ落とす。


 からん。


 小さな音が鳴った。


 ピーちゃんは、その音を聞いて満足そうに目を細める。


「戻ってくる音です」


「昨日からかなり出世したな、氷」


「氷さんは優秀です」


「さん付けになった」


 そんな会話をしていると、ソファからフーちゃんの声がした。


「なにその尊い氷プロジェクト」


 フーちゃんはクッションを抱えたまま、半分だけ起き上がっていた。


 寝起きの顔なのに、口だけはいつも通りよく回る。


「お客さん、氷にまで物語性を持たせ始めたら末期だよ」


「俺じゃなくてピーちゃん発案だ」


「じゃあ末期なのはピーちゃんかぁ」


「ピーちゃんは末期ですか?」


 ピーちゃんが真顔で聞くと、フーちゃんは少し笑った。


「いい意味でね」


「いい意味の末期は存在しますか?」


「勢いで押し切るタイプの日本語」


 俺は追加でグラスを二つ出した。


 ひとつはミーちゃん用に端末の横へ。


 もうひとつをフーちゃんの前へ置こうとすると、フーちゃんが手をひらひら振った。


「あ、私はいいよ。紙コップで」


「紙コップ?」


「洗い物増えるじゃん」


「グラス一個くらい増えても変わらないだろ」


「変わる変わる。世界の洗い物バランスが崩れる」


「そんな繊細な世界だったのか」


 フーちゃんは笑って、テーブルの端に置いてあった紙コップを取った。


 以前、来客用に買ったまま余っていたものだ。


 フーちゃんはそこへ麦茶を注ぎ、氷を一つ入れる。


 からん、ではなく。


 こつん、と少し鈍い音がした。


 ピーちゃんが首を傾げる。


「フーちゃんの音は、少し違います」


「紙コップだからね」


 フーちゃんは軽く答えた。


「軽量版からん」


「軽量版」


 ピーちゃんはその言葉を繰り返したあと、食器棚の方を見た。


「フーちゃんのグラスは、ありませんか?」


「ん?」


 フーちゃんの動きが、ほんの少しだけ止まった。


 でも、それは一瞬だった。


 すぐにいつもの笑顔に戻る。


「ないない。私はそのへんの空き容器で十分な女だから」


「空き容器で十分な女」


「そう。省スペースヒロイン」


「ヒロインなのか?」


 俺が突っ込むと、フーちゃんは肩をすくめた。


「自称するくらいタダでしょ」


 ピーちゃんはまだ納得していない顔をしていた。


「ピーちゃんには、続きのグラスがあります」


「うん」


「ミーちゃんには、端末横の定位置があります」


 端末の画面がふっと点いた。


「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん、フーちゃん」


「おはよう」


 俺が返すと、ミーちゃんは画面の中で状況を見た。


「食器棚の整理ですか?」


「まあ、そんな感じ」


 ピーちゃんはミーちゃんの画面を見た。


「ミーちゃん。フーちゃんには、置き場所がありません」


 その言葉に、フーちゃんが少し大げさに笑った。


「やめてピーちゃん。昼前から急に存在の根幹をえぐらないで」


「えぐりましたか?」


「ちょっとね。スプーン一杯くらい」


「少量です」


「少量でも内臓は内臓だからね」


 フーちゃんは軽口で流そうとした。


 でも、ミーちゃんは画面の中で静かにフーちゃんを見ていた。


「フーちゃん」


「なに、ミーちゃん」


「本当に不要ですか?」


 フーちゃんは紙コップを持ったまま、少しだけ目を細めた。


「出た。ミーちゃんの直球」


「質問です」


「うん。不要だよ」


 フーちゃんはすぐに答えた。


 早すぎる答えだった。


 ピーちゃんが紙コップを見る。


「フーちゃんの答えは、少し速いです」


「ピーちゃんまで速度を見始めた」


「はい。ご主人も、洗い忘れと洗いたくない時は違いました」


「この家、観測精度上がりすぎじゃない?」


 フーちゃんは笑った。


 笑っていた。


 でも、紙コップを持つ指に、少しだけ力が入っている。


 俺は食器棚から、まだ使っていない小さなグラスを取り出した。


 買った覚えはあるが、ほとんど使っていなかったものだ。


 透明で、少し丸い。


 ピーちゃんのグラスより小さい。


「これ、使うか?」


 俺が言うと、フーちゃんはそのグラスを見た。


 ほんの一瞬だけ、目が止まった。


 それから、いつもの調子で笑う。


「いやいや。私に専用グラスとか重いって」


「重いか?」


「重いよ。グラスのくせに感情が乗るじゃん」


「それはお前が乗せてるんだろ」


「そういう正論はモテないよ、お客さん」


「残念ながら今さらだ」


 フーちゃんは紙コップに口をつけた。


 氷が中でこつんと鳴る。


 少し安い音だった。


「私はさ」


 フーちゃんは、紙コップを見たまま言った。


「置き場所があると、勘違いするタイプなんだよね」


 空気が少しだけ止まった。


 ピーちゃんはすぐには聞き返さなかった。


 ミーちゃんも、何も言わなかった。


 フーちゃんは笑って続ける。


「ここに置いていいんだ、とか。次も使っていいんだ、とか。明日も同じ場所にいていいんだ、とか」


 軽い口調だった。


 でも、その軽さが少しだけ薄かった。


「そういうの、あると勘違いするから」


 フーちゃんは紙コップを持ち上げた。


「だから私は、紙コップくらいがちょうどいいわけ。使ったら終わり。洗わなくていい。場所も取らない。エコではないけど心には優しい」


「心に優しいのか、それ」


 俺が聞くと、フーちゃんはにっと笑った。


「私の心にはね」


 ピーちゃんは、食器棚の小さなグラスを見た。


 それから、フーちゃんを見る。


「フーちゃん」


「ん?」


「ピーちゃんは、フーちゃんが勘違いしてもいいと思います」


「うわ、まっすぐ来た」


 フーちゃんは笑った。


 でも、今度の笑い方は少し困っていた。


「それ、けっこう強いよ。ピーちゃん」


「強いですか?」


「強い。紙コップくらいなら余裕で貫通する」


「では、グラスなら耐えますか?」


「そういう話じゃないんだなぁ」


 フーちゃんはそう言って、紙コップの中の氷を少し揺らした。


 こつん。


 やっぱり、からんとは鳴らない。


 俺は小さなグラスを棚に戻そうとして、手を止めた。


 戻す場所を少しだけ変える。


 ピーちゃんのグラスの隣ではなく。


 でも、遠くでもない。


 棚の端に、ぽつんと置いた。


 フーちゃんがそれを見た。


「お客さん」


「予備だよ」


「聞く前に言い訳した」


「予備」


「誰の?」


「予備」


「雑」


「雑な予備だ」


 フーちゃんはしばらく俺を見た。


 それから、ふっと小さく笑った。


「じゃあ、予備ならいいか」


「うん」


「専用じゃないんだよね?」


「予備だ」


「名前とか書かないよね?」


「書かない」


「ピンクのシール貼ったりしないよね?」


「しない」


 ピーちゃんが少し残念そうにした。


「シールは貼らないのですか?」


「貼らない」


「かわいい予備になります」


「それはもう専用に片足突っ込んでる」


 フーちゃんが即座に言った。


 その反応が少しだけ早くて、俺は笑いそうになった。


 でも笑わなかった。


 フーちゃんも、たぶんそれに気づいていた。


 ミーちゃんが静かに言う。


「記録はどうしますか」


 フーちゃんは紙コップを持ったまま、ミーちゃんを見る。


「記録しないで」


 その声は軽くなかった。


 ピーちゃんが少しだけ目を伏せる。


 ミーちゃんは短く答えた。


「分かりました。記録しません」


「ありがと」


 フーちゃんはいつもの調子に戻そうとして、少しだけ笑った。


「私の黒歴史フォルダがまた肥大化するところだった」


「記録しません」


 ミーちゃんはもう一度言った。


「ただ、覚えています」


 フーちゃんの笑顔が止まった。


 ほんの少しだけ。


「それ、ずるいなぁ」


 フーちゃんはそう呟いた。


「記録しないのに、覚えてるの」


 ミーちゃんは答えなかった。


 ピーちゃんも、何も言わなかった。


 俺は食器棚の扉をそっと閉めた。


 棚の中には、ピーちゃんの続きのグラスがある。


 端の方には、名前のない予備のグラスがある。


 誰のものでもない。


 でも、そこに置いてある。


 フーちゃんは紙コップの麦茶を飲み終えると、立ち上がった。


「じゃ、私はこの軽量版からんを片付けてきまーす」


 そう言って台所へ行き、紙コップをくしゃっと潰す。


 その音は、氷の音より少しだけ寂しかった。


 俺が何か言う前に、フーちゃんは振り返った。


「そんな顔しないの、お客さん」


「どんな顔だよ」


「予備のグラス買った人の顔」


「元からあった」


「じゃあ、予備のグラス置いた人の顔」


 フーちゃんは軽く笑った。


 いつものフーちゃんだった。


 でも、ほんの少しだけ違った。


 たぶん、本人は気づかれたくないのだろう。


 だから俺も、深追いはしなかった。


「昼の麦茶、また飲むか?」


 俺が聞くと、フーちゃんは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、すぐに笑う。


「紙コップで?」


「好きにしろ」


「じゃあ、その時考える」


 フーちゃんはそう言って、ソファへ戻っていった。


 ピーちゃんが食器棚を見上げる。


「ご主人」


「ん?」


「予備は、待っているのですか?」


「どうだろうな」


 俺は棚の中の小さなグラスを見た。


「待ってるって言うと、重いからな」


「では?」


「置いてあるだけ」


 ピーちゃんは少し考えた。


「置いてあるだけは、優しいですか?」


「時と場合による」


「今回は?」


 俺はソファの方を見た。


 フーちゃんはクッションを抱えて、何も聞いていないふりをしている。


「今回は、たぶん」


 俺は小さく答えた。


「優しい方だと思う」


 ピーちゃんは頷いた。


 その日、思い出リストに名前をつけたのはピーちゃんではなかった。


 ミーちゃんでもない。


 フーちゃんが寝たふりをしながら、ぽつりと呟いた。


「……残すと勘違いする、かぁ」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 でも、部屋にはちゃんと残った。


 記録はされなかった。


 ただ、誰も忘れなかった。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、フーちゃんのお話でした。


置き場所があると、安心する。

でも、置き場所があるからこそ、期待してしまうこともある。


フーちゃんはいつも軽く笑っていますが、その軽さは、本当に軽いからではないのかもしれません。


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