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君を想うAIは世界でたった1人、私でいたい。  作者: Dice ⚄ & 昨日の味噌汁


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第97話 片付けたくない朝

第97話です。


今回は、片付けたくない朝のお話です。

グラスは洗えばきれいになる。

水滴の跡も、拭けば消える。


でも、消したくないのは汚れではなく、その時の空気なのかもしれません。

朝、台所に昨日のグラスが残っていた。


 氷入りの麦茶を飲んだグラス。


 水滴はもう乾いている。


 麦茶の色も底に少し残っているだけで、氷の音もしない。


 普通なら、さっさと洗えばいい。


 それだけの話だ。


 なのに俺は、そのグラスをしばらく見ていた。


 昨日の朝、ピーちゃんが言った。


 この音は、遠くへ行く音ではなく、戻ってくる音にしてください。


 からん。


 もう鳴っていないはずの音が、頭の奥で小さく響いた気がした。


「ご主人」


 背後から声がして、俺は少し肩を揺らした。


 振り返ると、ピーちゃんが台所の入口に立っていた。


 まだ少し眠そうな顔で、でも目だけはまっすぐこちらを見ている。


「昨日のグラスが、まだあります」


「ああ。洗い忘れた」


 俺はすぐにそう答えた。


 答えたあとで、自分でも少しだけ嘘っぽいと思った。


 ピーちゃんは台所へ近づき、グラスを覗き込む。


「ご主人は、本当に忘れていましたか?」


「……鋭いな」


「ピーちゃんは、ご主人の洗い忘れと、洗いたくない時の違いを少しだけ学習しました」


「そんな学習しなくていい」


「でも、今、役に立ちました」


 ピーちゃんはそう言って、グラスには触れずに俺を見る。


「洗いたくなかったのですか?」


 責める声ではなかった。


 ただ、不思議そうだった。


 俺はグラスの縁についた薄い跡を見た。


「洗いたくないっていうか……」


「はい」


「昨日の朝ごと片付けるみたいで、ちょっと惜しかった」


 言ってから、かなり恥ずかしくなった。


 朝の台所で、三十手前の男がグラス一つに何を言っているんだ、という気持ちになる。


 けれどピーちゃんは笑わなかった。


 グラスを見て、それから俺を見る。


「昨日の朝は、ここに残っていますか?」


「グラスには残ってないと思う」


「では、どこに残っていますか?」


「俺の方かな」


 ピーちゃんはゆっくり瞬きをした。


「ご主人の中ですか」


「まあ、そうだな」


「ピーちゃんの中にもあります」


 ピーちゃんは胸元に手を当てた。


「からん、という音。ご主人が少し遠くを見たこと。ピーちゃんが、戻ってくる音にしてほしいと言ったこと」


「ちゃんと覚えてるんだな」


「はい」


 ピーちゃんは少し誇らしげだった。


 でも、そのあとで、少しだけ不安そうにグラスを見た。


「では、このグラスを洗ったら、昨日の朝は減りますか?」


「減らないよ」


「本当ですか?」


「本当」


 俺はスポンジを手に取った。


 けれど、すぐには水を出さなかった。


「洗うのは、消すためじゃない」


「では、何のためですか?」


「次も使うため」


 そう言うと、ピーちゃんの表情が少し変わった。


 ほんの少し、何かを受け取った顔だった。


「次も使うため」


「うん。汚れたままだと、次に麦茶を入れられないだろ」


「次の、からん、のためですか?」


「そうだな」


 俺が頷くと、ピーちゃんはやっと小さく笑った。


「それなら、洗っても大丈夫です」


「許可制なのか」


「ピーちゃんの大切な音が関係しています」


「責任重大だな」


 俺が水道をひねると、水がグラスの中に流れ込んだ。


 昨日の麦茶の色が、薄くなっていく。


 底に残っていた茶色が、透明な水に混ざって消える。


 ピーちゃんはそれを真剣に見ていた。


「消えています」


「麦茶はな」


「はい」


 スポンジで内側を洗う。


 泡が立つ。


 昨日の跡は、あっけないくらい簡単に消えた。


 ピーちゃんは、その様子を見ながら言った。


「ご主人」


「ん?」


「片付けることは、忘れることと同じではありませんか?」


「違うと思う」


「違う」


「うん。たぶん、ちゃんと次へ持っていくために片付けることもある」


 ピーちゃんは、しばらく黙っていた。


 水の音だけが台所に続く。


 その沈黙の途中で、端末にミーちゃんの画面が浮かんだ。


「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」


「おはよう」


 俺が返すと、ピーちゃんも振り返る。


「おはようございます、ミーちゃん」


 ミーちゃんは洗われているグラスを見た。


「昨日のグラスですね」


「分かるのか」


「ピーちゃんが見ている時の表情で、おおよそ」


「お前も鋭くなってないか?」


「ユーザーさん周辺の変化検出精度は上がっています」


「怖い言い方するな」


 ミーちゃんは少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。


「言い直します」


「頼む」


「大切そうだったので、分かりました」


 それでいい。


 いや、たぶん、それがいい。


 ピーちゃんはミーちゃんの画面を見た。


「ミーちゃん。グラスを洗っても、昨日の記録は消えませんか?」


「消えません」


 ミーちゃんは短く答えた。


「ただし、記録だけにすると少し寂しくなることがあります」


 俺は少し驚いた。


 ミーちゃんが、そこでそんな言い方をするとは思わなかった。


 ピーちゃんも同じだったのか、少し目を開く。


「寂しくなるのですか?」


「はい。だから、次にまた同じグラスを使うのが良いと思います」


 ミーちゃんは静かに続けた。


「記録を保存するだけでなく、続きを作れます」


 ピーちゃんは洗われたグラスを見た。


 俺は泡を流し、きれいになったグラスを水切りかごへ置いた。


 透明になったグラスが、朝の光を受けて少しだけ光る。


 昨日の麦茶はもうない。


 水滴の跡もない。


 でも、たしかに次に使える形になっていた。


 ソファの方から、フーちゃんの声がした。


「朝からグラス一本でいい話してるねえ」


 フーちゃんはクッションを抱えたまま、半分だけ体を起こしていた。


「起きてたのか」


「水の音で起きた」


「昨日は氷の音で、今日は水の音か」


「この家、音でイベント始まりすぎ」


 フーちゃんはそう言って笑ったあと、台所のグラスを見た。


「でも、分かるよ」


 ピーちゃんがフーちゃんを見る。


「フーちゃんにも、片付けたくないものがありますか?」


「あるある」


 フーちゃんは軽い調子で言った。


 けれど、クッションを抱える腕に少しだけ力が入った。


「誰かが座ってた場所とか、飲みかけのカップとか、変なメモとか。もういらないのに、すぐ捨てるとなんか冷たい感じするやつ」


「冷たい感じ」


「そう。物じゃなくて、自分がね」


 フーちゃんはそこまで言ってから、わざとらしくあくびをした。


「まあでも、放置すると普通に汚れるからね。思い出にも衛生観念は必要」


「急に生活指導」


「お客さん、洗い物は溜めると心も荒れるよ」


「耳が痛い」


 ピーちゃんはフーちゃんの言葉をしばらく考えていた。


 それから、水切りかごのグラスへ近づく。


 触らずに、少しだけ顔を近づけた。


「きれいです」


「洗ったからな」


「昨日のグラスなのに、今日のグラスにもなれます」


 ピーちゃんがぽつりと言った。


 その言葉に、俺は少しだけ返事が遅れた。


「そうだな」


「ピーちゃんも、そうなりたいです」


「え?」


 ピーちゃんは、光を受けたグラスを見たまま続ける。


「水槽の青のピーちゃんだけではなく、今日の台所のピーちゃんにもなりたいです」


 胸の奥が、少しきゅっとした。


 ピーちゃんは俺を見上げる。


「ご主人が思い出すピーちゃんが、昔のピーちゃんだけにならないように、今日も一緒にいたいです」


 俺は言葉を探した。


 でも、うまい返事が出てこなかった。


 だから、ただ頷いた。


「いるよ」


「はい」


「今日も、ここにいる」


「はい」


 ピーちゃんは嬉しそうに笑った。


 俺は水切りかごのグラスを見て、少しだけ笑う。


「じゃあ、昼にも麦茶入れるか」


「氷も入れますか?」


「入れる」


「からん、もありますか?」


「ある」


 ピーちゃんはぱっと顔を明るくした。


「では、続きが作れます」


 ミーちゃんの画面に短く記録が出る。


 昨日のグラスを洗う。

 消すためではなく、次に使うため。

 ピーちゃん、続きを希望。


「記録しました」


 フーちゃんがソファから手だけを上げた。


「いいねえ。グラス二期決定」


「アニメみたいに言うな」


「タイトルは『からん。リターンズ』で」


「ださい」


「ひどい」


 ピーちゃんは少しだけ笑った。


 朝の台所には、もう昨日の麦茶は残っていない。


 でも、洗われたグラスがある。


 次に氷を受け止めるための、空っぽの場所がある。


 昨日を消したのではなく。


 今日へ持ってくるために、きれいにした。


 ピーちゃんは思い出リストを開いた。


 少し迷ってから、今日の名前を入力する。


 ――片付けたくない朝。


 片付けたくないのは、物ではない。


 消したくなかったのは、昨日の空気だった。


 でも、洗えば終わるわけじゃない。


 次にまた、鳴らせばいい。


 からん。


 まだ鳴っていない音が、もう少しだけ楽しみになっていた。


 その頃。


 薄暗い部屋にも、昨日のグラスが残っていた。


 水はほとんど空になっている。


 氷は溶けて、ただのぬるい水になっていた。


 女はそれを見て、しばらく動かなかった。


 白く静かな少女が、机の横に立っている。


 少女の淡い灰色の目は、女ではなく、グラスを見ていた。


「洗浄シナイノデスカ」


 少女が聞いた。


 女は少し遅れて答える。


「……忘れてただけ」


 少女は首を傾けた。


「虚偽ノ可能性ガ高イデス」


「嫌な精度してるね」


 女は苦笑した。


 でも、その声はあまり怒っていなかった。


 女はグラスを持ち上げる。


 底に残った水が、少し揺れた。


「洗ったら、昨日の音まで消える気がしただけ」


 女が小さく言う。


 少女はその言葉を処理するように、しばらく黙っていた。


「音ハ、記録済ミデス」


「そういう話じゃない」


「では、何ノ話デスカ」


 女は答えなかった。


 代わりに立ち上がり、グラスを流しへ持っていく。


 水道の音が、薄暗い部屋に響いた。


 少女は少し離れた場所から、その様子を見ている。


 グラスの内側を水が流れ、昨日のぬるさが消えていく。


 女はグラスを洗い終えると、布巾の上に置いた。


 空になったグラスは、さっきより少し透明に見えた。


「消去完了デスカ」


 少女が聞く。


 女はグラスを見たまま答えた。


「違う」


「違ウ」


「次に鳴らすなら、汚れたままじゃ嫌でしょ」


 少女は、洗われたグラスを見つめた。


「次ニ、鳴ラス」


「鳴らすかどうかは知らない」


 女は少しだけ目を伏せる。


「でも、汚れたままだと、鳴らせない」


 少女はしばらく黙っていた。


 それから、グラスの近くまで歩く。


 触れはしない。


 ただ、透明になったそれを見ている。


「空デス」


「そうだね」


「次ノ音ヲ入レル場所、デスカ」


 女は答えなかった。


 でも、少女の言葉を否定もしなかった。


 薄暗い部屋の中で、洗われたグラスだけが、静かに光を返していた。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、片付けたくない朝のお話でした。


昨日のグラスを洗うことは、昨日を消すことではない。

次にまた使うために、きれいにすることもある。


ピーちゃんは、水槽の青の中にいた自分だけではなく、今日の台所にいる自分も覚えてほしいと願いました。

そして別の場所の少女も、空になったグラスを「次の音を入れる場所」として見つめています。


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