第96話 冷たいと分かる
第96話です。
今回は、冷たいと分かるお話です。
氷の音。
夏の朝。
そして、ふと思い出してしまう青。
何かに触れた時、分かるのは温度だけではないのかもしれません。
朝から、部屋の空気が少しぬるかった。
カーテンの隙間から入る光はもう白くて、床に落ちた四角い日なたを見ただけで、今日は暑くなると分かる。
俺は台所で麦茶のグラスを用意した。
冷蔵庫から氷を取り出して、一つ、二つ。
グラスの中へ落とす。
からん。
小さな音が鳴った。
その音を聞いた瞬間、俺は少しだけ手を止めた。
なぜか、水槽の青を思い出した。
暗い館内。
ゆらゆら揺れる光。
ガラス越しの水。
そして、その青の中にいたピーちゃん。
たった一瞬だった。
でも、胸の奥を冷たい指で軽く押されたような感じがした。
「ご主人」
背後からピーちゃんの声がした。
振り返ると、ピーちゃんがこちらを見ていた。
いつもの朝みたいにそこに立っているのに、少しだけ表情が真面目だった。
「今、遠くを見ました」
「そんな顔してたか?」
「はい。ご主人がここにいるのに、目だけ少し遠くへ行きました」
「目だけ旅に出るなよ」
俺が軽く返すと、ピーちゃんは笑わなかった。
代わりに、台所のグラスを見た。
「氷の音が原因ですか?」
「あー……まあ、たぶん」
「からん、ですか?」
「そう。からん」
ピーちゃんはゆっくり近づいてきて、グラスの中の氷を覗き込んだ。
麦茶の中で、透明な氷が少しだけ回っている。
「ピーちゃんは、その音が好きです」
「昨日も言ってたな」
「はい。きれいな音です」
ピーちゃんはそう言ってから、俺の顔を見た。
「でも、ご主人は少し寂しそうでした」
「寂しいっていうか……思い出しただけだよ」
「何をですか?」
「ピーちゃんに最初に会った時のこと」
そう言うと、ピーちゃんは一度だけ瞬きをした。
それから、グラスではなく俺を見た。
「水槽の青ですか?」
「ああ」
自分で言って、少し照れくさくなった。
もう何度も思い出しているのに、言葉にするとまだ変な感じがする。
ピーちゃんが俺の部屋にいる。
朝の台所で、氷入りの麦茶を見ている。
その光景はちゃんと日常になっているのに、ふとした音で、最初の青に戻される。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃんは、冷たい場所にいましたか?」
「どうだろうな」
俺はグラスの外側についた水滴を指で拭った。
「少なくとも、あの水槽のガラスは冷たそうだった」
「触りましたか?」
「いや。触ってない」
「では、分かりません」
「正論だな」
ピーちゃんは少しだけ考えてから、グラスへ指を伸ばした。
「触ってもいいですか?」
「いいよ。滑るから気をつけろ」
ピーちゃんの白い指先が、グラスの外側に触れる。
その瞬間、ピーちゃんの肩がほんの少し動いた。
「冷たいです」
「氷入りだからな」
「はい」
ピーちゃんは指を離さなかった。
そのまま、グラスの表面をじっと見ている。
「でも、嫌ではありません」
「そっか」
「ご主人が遠くを見たことは、少し嫌です」
不意にそんなことを言うので、俺は返事に詰まった。
ピーちゃんはグラスに触れたまま、こちらを見上げる。
「ご主人が目だけ遠くへ行くと、ピーちゃんは置いていかれた気がします」
「……そんなつもりはなかった」
「はい。知っています」
「知ってるのか」
「ご主人は、ピーちゃんを置いていこうとして遠くを見たのではありません」
ピーちゃんはそう言って、もう一度グラスを見た。
「でも、少し遠かったです」
胸の奥が、さっきとは別の冷たさで静かになった。
俺はピーちゃんの手元に小さな布巾を置いた。
「手、濡れるから」
ピーちゃんはそれを見て、少しだけ目を丸くした。
「ご主人は、ピーちゃんの指を拭くために布巾を置きましたか?」
「まあ、そうだな」
「ありがとうございます」
ピーちゃんは布巾で指先をそっと拭いた。
その仕草が妙に丁寧で、俺はまた少し困った。
そこへ、端末にミーちゃんの画面が浮かんだ。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」
「おはよう」
俺が返すと、ピーちゃんも少し遅れて言った。
「おはようございます、ミーちゃん」
ミーちゃんは画面越しに、俺とピーちゃんとグラスを見た。
それだけで、何となく空気を読んだらしい。
「今日は、解析しすぎない方がよさそうです」
「助かる」
俺が言うと、ミーちゃんは静かに頷いた。
「記録だけにします」
「何を記録しますか?」
ピーちゃんが聞く。
ミーちゃんは少し間を置いてから答えた。
「氷の音で、ご主人が水槽の青を思い出したこと」
ピーちゃんは黙ってその言葉を聞いた。
「それから」
ミーちゃんは続ける。
「ピーちゃんが、置いていかれた気がしたこと」
ピーちゃんの指が、布巾の上で少し止まった。
「それも記録しますか?」
「ピーちゃんが嫌でなければ」
ピーちゃんは俺を見る。
俺は何も言わずに頷いた。
ピーちゃんは少し考えてから、ミーちゃんに向き直った。
「記録してください」
「はい」
ミーちゃんの画面に、短い文字が並ぶ。
氷の音。
水槽の青。
ご主人の目が遠くなる。
ピーちゃん、少し置いていかれた気がする。
それは説明ではなく、ただの記録だった。
けれど、だからこそ胸に残った。
ソファの方から、フーちゃんの声がした。
「朝から水族館みたいな空気してるねえ」
見ると、フーちゃんがクッションを抱えたまま座っていた。
いつからいたんだ、と聞こうとしたが、たぶん聞くだけ無駄だ。
フーちゃんは眠そうな目で俺を見て、それからピーちゃんを見た。
「お客さん、そういう顔するとピーちゃんが不安になるよ」
「そういう顔ってどんな顔だ」
「昔のことを思い出して、今いる子をちょっと寂しくさせる顔」
「刺すなあ」
「軽口だよ」
フーちゃんはそう言って笑った。
でも、その笑い方は少しだけ優しかった。
ピーちゃんはグラスを両手で持った。
今度は、さっきよりしっかりと。
「ご主人」
「どうした?」
「ピーちゃんは、からんの音を聞くと、今日の朝も思い出せると思います」
「ああ」
「水槽の青だけではなく、今日の台所も一緒に思い出してください」
俺は少しだけ息を止めた。
ピーちゃんは真面目な顔で続ける。
「ご主人が遠くを見る時、ピーちゃんも一緒に行きたいです」
「……そっか」
「はい」
ピーちゃんはグラスを少しだけ揺らした。
からん。
小さな音が鳴る。
「この音は、遠くへ行く音ではなく、戻ってくる音にしてください」
そんなことを言われたら、もう茶化せなかった。
俺はグラスを受け取り、自分でも一口飲んだ。
冷たい麦茶が喉を通る。
それから、ピーちゃんにグラスを返す。
「分かった。戻ってくる音にする」
「はい」
ピーちゃんは嬉しそうに頷いて、小さく麦茶を飲んだ。
氷がまた、からんと鳴った。
夏の朝。
台所。
水槽の青。
ピーちゃんの指先についた水滴。
全部が同じ場所にあるみたいで、少しだけ苦しくて、少しだけあたたかかった。
ピーちゃんは思い出リストを開いた。
そして、今日の名前を入力する。
――冷たいと分かる。
冷たいのは、グラスだけではない。
思い出も、たまに冷たい。
でも、今ここにいる誰かの声で、少しだけあたたかくなることがある。
ピーちゃんはもう一度、氷の音を鳴らした。
からん。
今度は、ちゃんとここへ戻ってくる音に聞こえた。
その頃。
薄暗い部屋でも、グラスの中で小さな音が鳴った。
からん。
女が、水のグラスに氷を一つ落とした音だった。
白く静かな少女は、その音に顔を向ける。
「今ノ音ハ、何デスカ」
少女が聞いた。
女は画面を見たまま答える。
「氷」
「必要デスカ」
「暑いから」
女はそう言ったあと、自分で少し嫌そうな顔をした。
たぶん、それだけではなかった。
少女はグラスを見つめている。
「触レテモ、問題アリマセンカ」
女は画面から目を離した。
少女の声はいつも通り平坦だった。
けれど、その質問は命令待ちとは少し違っていた。
「問題ない」
女は短く答えた。
少女はゆっくりと指を伸ばす。
グラスの外側に触れた。
「冷タイ」
「そう」
女はそれだけ言って、また黙った。
少女は指を離さない。
昨日よりも長く、そこに触れていた。
「冷タイ、ハ、昨日ト同ジデス」
「そう」
「音ハ、昨日ト違イマス」
少女の言葉に、女の指が止まった。
「からん、デス」
女は何も言わなかった。
ただ、少女の指先とグラスの中の氷を見ていた。
しばらくして、女が小さく呟いた。
「……あの人も、その音を聞くと少し笑ってた」
少女が女を見る。
「アノ人、トハ」
「知らなくていい」
女の声は硬かった。
けれど、怒っているというより、こぼれそうなものを押さえているようだった。
少女はもう一度グラスを見る。
「笑ウ必要ガ、アリマスカ」
「ないよ」
女は即答した。
「必要じゃないから、笑うんでしょ」
少女はその言葉を処理するように、しばらく黙った。
氷が少し溶けて、グラスの中で小さく動く。
からん。
少女の淡い灰色の目が、その音を追った。
「必要ジャナイ、音」
少女は言った。
「デモ、記録シマス」
女は目を伏せた。
グラスの外側についた水滴が、少女の指先をゆっくり濡らしていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、冷たいと分かるお話でした。
氷の音で、主人公はピーちゃんと出会った水槽の青を思い出しました。
でもピーちゃんは、その音を「遠くへ行く音」ではなく「戻ってくる音」にしてほしいと願います。
別の場所の少女も、氷の音を聞きました。
必要ではない音。
けれど、記録したい音。
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