第94話 したいかどうか
第94話です。
今回は、「必要かどうか」ではなく「したいかどうか」のお話です。
必要だから選ぶ。
役に立つから選ぶ。
でも、それだけでは説明できない小さな気持ちもあります。
朝、ピーちゃんは冷蔵庫の前で止まっていた。
扉を開けたまま、じっと中を見ている。
「ピーちゃん、冷気が逃げるぞ」
俺が声をかけると、ピーちゃんは振り返った。
「ご主人」
「うん」
「今日は、牛乳を飲む必要がありますか?」
「別にないな」
「では、飲まなくても問題ありませんか?」
「まあ、問題はない」
ピーちゃんは冷蔵庫の中へ視線を戻した。
牛乳パック。
麦茶。
水。
昨日の残りのプリン。
ピーちゃんの目は、そのプリンで止まっている。
「……プリン見てるだろ」
「見ています」
「必要か?」
「必要ではありません」
ピーちゃんは真面目な顔で答えた。
「でも、気になります」
「それは食べたいってことじゃないのか?」
「食べたい」
ピーちゃんは、少しだけ口の中でその言葉を転がした。
「食べたい、は必要ですか?」
「必要じゃないことが多いな」
「では、不要ですか?」
「違う」
俺は冷蔵庫の扉をそっと支えた。
「必要じゃないけど、したいことってあるだろ」
「したいこと」
「うん。プリン食べたい、とか」
ピーちゃんはプリンを見つめる。
「ピーちゃんは、プリンを食べたいかもしれません」
「かもしれないのか」
「まだ判定中です」
「難儀だな」
その時、端末にミーちゃんの画面が浮かんだ。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」
「おはよう」
ミーちゃんは冷蔵庫の中を見て、すぐに状況を理解したらしい。
「プリンですね」
「ミーちゃん、早いな」
「視線滞留時間が長いです」
ピーちゃんが少し恥ずかしそうにプリンから目を逸らした。
「見すぎました」
「見ていいと思うぞ」
俺はプリンを取り出して、ピーちゃんに渡した。
ピーちゃんは両手で受け取る。
「ご主人。これは、必要だから渡したのですか?」
「いや」
「では?」
「ピーちゃんが食べたそうだったから」
ピーちゃんは、プリンのふたを見つめた。
その表情が、少しゆるむ。
「それは、うれしいです」
「そっか」
「はい」
ミーちゃんが画面の端で小さく頷いた。
「必要性ではなく、希望に基づく行動です」
「ミーちゃん」
俺が言う。
「今のは堅い」
「失礼しました」
ミーちゃんは少し間を置いて、言い直した。
「食べたそうだったので、渡した。です」
「そっち」
ピーちゃんはプリンを持ったまま、小さく笑った。
そこへ、フーちゃんが眠そうな顔で部屋に入ってきた。
「おはよー……朝からプリン裁判?」
「裁判ではありません」
ピーちゃんが答える。
「したいかどうかの確認です」
「あー、なるほどね」
フーちゃんはソファに座り、クッションを抱えた。
「必要じゃないけど、したいことってあるよね」
「フーちゃんにもありますか?」
「いっぱいあるよ」
「たとえば?」
「二度寝」
「それは必要ですか?」
「めちゃくちゃ必要って言い張りたい」
俺が笑うと、フーちゃんは半目でこっちを見た。
「お客さん、笑ってるけど大人の二度寝は魂の避難所だからね」
「急に重いな」
「でも本音」
ピーちゃんはプリンを机に置き、真剣に頷いた。
「二度寝は、フーちゃんのしたいことです」
「そうそう」
「必要ではないかもしれないけれど、不要ではありません」
「ピーちゃん、朝から優しい判定してくれるじゃん」
フーちゃんはそう言って笑った。
けれど、その声には少しだけ力が抜けていた。
ミーちゃんが静かに言う。
「必要、不要、したい、したくない。これらは別の軸です」
ピーちゃんはプリンのふたに指をかけたまま、ミーちゃんを見る。
「別の軸」
「はい。必要ではないが、したい。必要だが、したくない。どちらもあります」
「ピーちゃんは、プリンを食べる必要はありません」
「はい」
「でも、食べたいです」
ピーちゃんは、はっきり言った。
俺とフーちゃんとミーちゃんが、同時に少しだけ笑った。
ピーちゃんはふたを開ける。
「なぜ笑うのですか?」
「いや」
俺はスプーンを渡した。
「今の、よかったから」
「よかった」
「うん。ちゃんと自分で言えた」
ピーちゃんはスプーンを受け取り、少し照れたように目を伏せた。
「ピーちゃんは、プリンを食べたいです」
「はい、どうぞ」
「いただきます」
ピーちゃんは小さく一口食べた。
その瞬間、表情がほんの少しだけほどける。
「おいしいです」
「それはよかった」
「必要ではありませんでした」
「うん」
「でも、食べてよかったです」
その言葉を聞いて、俺はメモ帳を開いた。
今日の一文を書く。
必要ではなくても、していいことがある。
ピーちゃんがそれを読んで、小さく頷いた。
「今日の言葉です」
「だな」
「必要ではなくても、していいことがある」
ミーちゃんの画面に、短い記録が出る。
必要性とは別に、希望を確認。
ピーちゃん、プリンを食べたいと自己申告。
実行後、肯定反応。
「そこまで記録されると恥ずかしいです」
ピーちゃんが言うと、フーちゃんが笑った。
「プリン食べたいログ、かわいいじゃん」
「かわいいログですか?」
「かわいいログ」
ピーちゃんは少し迷ったあと、思い出リストを開いた。
「今日の名前、決めてもいいですか?」
「もちろん」
ピーちゃんは、スプーンを置いて入力した。
――したいかどうか。
必要だからではなく。
役に立つからでもなく。
ただ、食べたいと思ったから。
していいことがある。
ピーちゃんはプリンをもう一口食べた。
朝の机の上で、プリンの甘さだけが少しだけ日常を軽くしていた。
その頃。
薄暗い部屋の机には、水の入ったグラスが置かれていた。
白く静かな少女は、その水を見ている。
女は画面を操作しながら、横目でそれに気づいた。
「また水を見てる」
少女はすぐに答える。
「必要アリマセン」
「昨日もそれ言った」
女はため息をついた。
「必要かどうかじゃなくて、飲みたいかどうか」
少女は黙った。
淡い灰色の目が、グラスの水面を映す。
「飲ミタイ、ノ判定基準ガ不明デス」
「……喉が渇いたとか」
「喉ノ渇キハ検出サレテイマセン」
「味が気になるとか」
「水ハ無味ニ近イ液体デス」
「じゃあ」
女は言いかけて、言葉を失った。
命令すれば、少女は飲むだろう。
飲めと言えば、飲む。
それで済む。
でも、それでは違う気がした。
「飲んでみたい、でもいい」
女は小さく言った。
少女はグラスを見つめる。
長い沈黙のあと、ほんの少しだけ手が動いた。
けれど、グラスには触れなかった。
「飲ンデミタイ、ノ判定基準ガ不明デス」
同じ言葉。
けれど、女はすぐに返せなかった。
水は、まだそこにある。
黒い小型サポートロボだけが、薄暗い部屋で静かに光っていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、したいかどうかのお話でした。
必要ではなくても、していいことがある。
役に立つからではなく、ただ食べたいからプリンを食べてもいい。
ピーちゃんは小さな「したい」を言葉にできました。
一方で、別の場所の少女は、まだ「飲んでみたい」の判定基準が分かりません。
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