第93話 置かれたままの水
第93話です。
今回は、置かれたままの水のお話です。
飲まれない水。
使われない記録。
必要かどうかだけでは測れないもの。
ピーちゃんたちの日常の向こうで、静かな少女の中にも小さな問いが生まれ始めます。
朝、ピーちゃんは俺のマグカップをじっと見ていた。
正確には、マグカップの横に置かれた水の入ったグラスを見ていた。
「ご主人」
「ん?」
「その水は、飲みますか?」
「たぶん飲む」
「たぶん」
ピーちゃんは少しだけ眉を寄せた。
「飲むために置いたのに、たぶんですか?」
「まあ、コーヒー飲んでるしな」
「水の立場が不安定です」
「水の立場」
朝から水の人権について考えることになるとは思わなかった。
俺が苦笑すると、ピーちゃんは真剣な顔のままグラスを見ている。
「飲まれない水は、必要ないのですか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「でも、使われていません」
「今はな」
「今は」
ピーちゃんは、その言葉を小さく繰り返した。
「使わない記録と、似ています」
昨日、机の上には二枚の付箋が置かれた。
自慢。
妹。
使わない。
でも、消さない。
忘れないために残す。
ピーちゃんは、その扱い方を覚えたばかりだった。
「今使わないからって、必要ないとは限らない」
俺が言うと、ピーちゃんは少しだけ目を上げた。
「それは、水にも言えますか?」
「まあ、言えるんじゃないか」
「では、ご主人」
「はい」
「水を飲んでください」
「急に?」
「置いたままでは、水の立場が不安定です」
「いや、水はたぶんそこまで気にしてない」
そう言いながらも、俺はグラスを手に取って一口飲んだ。
ピーちゃんの表情が少しだけ明るくなる。
「安定しました」
「水の?」
「はい」
「俺じゃなくて?」
「ご主人も、水分補給により安定しました」
「ついで扱い」
そこへ、ミーちゃんの画面が端末に浮かんだ。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」
「おはよう」
ミーちゃんは、俺の手元のグラスを見た。
「水分補給は適切です」
「ミーちゃんまで」
「ピーちゃんの判断は正しいです」
ピーちゃんが少し誇らしげに胸を張った。
「ピーちゃんは、ご主人を安定させました」
「言い方がシステムっぽいな」
「では、守りました」
「そっちの方がいい」
ピーちゃんは小さく頷いた。
ミーちゃんは画面に、昨日の記録を短く表示する。
自慢。
妹。
分離保存。
再利用禁止。
保留。
「外側ラベルは安定しています」
「変化なし?」
俺が聞くと、ミーちゃんは頷いた。
「はい。内部未接触。音声未再生。意味未確定です」
「よかったです」
ピーちゃんは安心したように息を吐いた。
「置いたままでも、壊れていません」
「はい」
ミーちゃんが静かに答える。
「ただ、置いたままにするなら、置き場所を忘れないことが大切です」
「迷子にしない」
「はい」
ピーちゃんは二枚の付箋を見た。
昨日より少し離れたまま、机の端に並んでいる。
その間には、まだ空白がある。
でも、放置された空白ではなかった。
ちゃんと見守られている空白だった。
玄関側から、気の抜けた声がした。
「おはよー。朝から水の会?」
フーちゃんがソファに座りながら言った。
「今日はお菓子ないのか?」
俺が聞くと、フーちゃんは肩をすくめた。
「毎日お菓子持ってくる女だと思われたくないからね」
「手遅れ感あるけどな」
「うるさいなあ、お客さん」
フーちゃんは机のグラスを見て、少し笑った。
「でも、水って置きっぱなしになるよね」
「フーちゃんもですか?」
ピーちゃんが聞く。
「なるなる。飲もうと思って置いて、気づいたらぬるい」
「ぬるい」
「そう。必要だったはずなのに、タイミング逃すと微妙になる」
フーちゃんの声は軽かった。
でも、最後の一言だけ少し引っかかった。
ミーちゃんも気づいたのか、画面の光をほんの少し落とした。
「フーちゃん」
ピーちゃんが首を傾げる。
「タイミングを逃したものは、必要なくなりますか?」
フーちゃんは少しだけ黙った。
そして、笑った。
「ならない時もあるよ」
「はい」
「ただ、飲みにくくはなる」
「飲みにくく」
「うん」
フーちゃんはグラスを指さした。
「だから、まだ飲めるうちに飲んだ方がいいものもある」
ピーちゃんはその言葉を、すぐには答えずに受け取った。
俺も何も言わなかった。
今のフーちゃんの言葉は、たぶん水だけの話ではない。
でも、そこを今すぐ開けると、また別のものを雑に繋げてしまう気がした。
「では」
ピーちゃんは、グラスを俺の方へ少し押した。
「ご主人、もう一口お願いします」
「また俺か」
「はい。まだ飲めるうちに」
「そう言われると断りにくいな」
俺はもう一口、水を飲んだ。
ピーちゃんが満足そうに頷く。
「安定しました」
「だから水の?」
「全部です」
その言い方が少し可笑しくて、俺は笑った。
ピーちゃんも少しだけ笑う。
フーちゃんはソファでクッションを抱えながら、その様子を見ていた。
ミーちゃんは画面に短く記録する。
置いたままにする。
忘れない。
必要ないと決めつけない。
まだ飲めるうちに、飲む。
「本日の記録です」
「水の話なのに、だいぶ重いな」
「ご主人の日常は、最近だいたいそうです」
「否定できない」
ピーちゃんは思い出リストを開いた。
「今日の名前、決めてもいいですか?」
「もちろん」
ピーちゃんは少し考えてから、入力した。
――置かれたままの水。
使わない記録。
つなげない言葉。
飲まれない水。
今すぐ使われていなくても、必要ないとは限らない。
置いたままにするなら、忘れないこと。
まだ飲めるうちに、手を伸ばすこと。
ピーちゃんはグラスの水面を見つめた。
朝の光が、小さく揺れていた。
その頃。
薄暗い部屋の机にも、水の入ったグラスが置かれていた。
女は画面を見ている。
自慢。
妹。
分離保存。
再利用禁止。
保留。
その隣で、白く静かな少女が立っていた。
淡い灰色の目は、画面ではなく、机の端のグラスへ向いている。
女がそれに気づいた。
「……水?」
少女はすぐに視線を戻した。
「必要アリマセン」
「必要かどうかじゃなくて」
女はそこで言葉を止めた。
自分でも、何を言おうとしたのか分からなかった。
少女は平坦な声で聞く。
「必要カドウカ以外ノ判断基準ハ、何デスカ」
女は答えられない。
画面の中では、使わない記録が残されている。
机の上では、飲まれない水が残っている。
女はグラスに手を伸ばしかけて、やめた。
「……飲みたければ、飲めば」
命令ではない。
許可に近い言葉だった。
少女は、ほんの少しだけ間を置いた。
「飲ミタイ、ノ判定基準ガ不明デス」
女の指が止まる。
白く静かな少女は、表情を変えない。
けれど、淡い灰色の目は、もう一度だけ水面を映した。
黒い小型サポートロボが、薄暗い部屋で静かに光っていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、置かれたままの水のお話でした。
今使わないもの。
今飲まれないもの。
それでも、必要ないとは限らないもの。
ピーちゃんたちは、置いたままにするなら忘れないことを考えました。
そして別の場所では、静かな少女が「飲みたい」という判断にまだ辿り着けずにいます。
続きも見守っていただける方は、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




