第92話 使わない記録
第92話です。
自慢。
妹。
ピーちゃんたちは、その二つの言葉をまだつなげないことにしました。
今回は、その言葉を「使う情報」ではなく、「残しておく記録」として扱うお話です。
朝、ピーちゃんは小さな付箋を二枚持ってきた。
一枚目には、自慢。
二枚目には、妹。
昨日まで一枚のメモに書かれていた二つの言葉が、今日は別々の付箋になっている。
「分けたのか」
俺が聞くと、ピーちゃんはこくりと頷いた。
「はい。近いと、つなげたくなるので」
「なるほど」
「なので、物理的に離しました」
ピーちゃんは二枚の付箋を、机の左右にそっと置いた。
その動きが妙に慎重で、俺は少し笑ってしまった。
「爆弾処理みたいだな」
「爆弾ではありません」
ピーちゃんは真面目に返した。
「でも、雑に扱うと壊れるかもしれません」
「そっちは当たってるな」
ピーちゃんは少しだけ安心したように、自分のカップを両手で包んだ。
その時、ミーちゃんの画面が端末に浮かんだ。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」
「おはよう」
「おはようございます、ミーちゃん」
ピーちゃんは付箋の位置を少し直した。
それを見て、ミーちゃんが小さく頷く。
「分離保存ですね」
「はい」
ピーちゃんが答える。
「でも、保存方法で迷っています」
「保存方法?」
俺が聞くと、ピーちゃんは付箋を見ながら言った。
「この二つの言葉を、何のために残すのかです」
ミーちゃんの画面に、短い項目が並んだ。
解析用。
検索用。
再利用用。
保留用。
「一般的には、このどれかになります」
ミーちゃんが説明する。
以前なら、ここから長い話になっていた気がする。
でも今日は、ミーちゃんも短く止めた。
「私は、保留用を推奨します」
「理由は?」
俺が聞く。
「使うには早いからです」
ミーちゃんは、ピーちゃんを見る。
「この言葉は、まだ誰のものか分かりません。誰かの大切な記憶に触れる可能性があります」
「はい」
ピーちゃんが小さく頷く。
「だから、素材にしません」
「はい」
「検索の手がかりにも、まだしません」
「はい」
「解析も?」
「必要最低限にします」
ミーちゃんの答えに、ピーちゃんは少しだけ息を吐いた。
「では、これは使わない記録です」
その言い方が、妙にしっくりきた。
使わない記録。
保存するのに、使わない。
データとしては矛盾しているようで、人間には少し分かる。
机の引き出しに入れっぱなしの手紙。
読まないけれど捨てない写真。
何年も開かないのに、なくなると困る箱。
そういうものが、人間にはある。
「ご主人」
ピーちゃんが俺を見る。
「使わないのに残すものは、人間にもありますか?」
「あるよ」
「たとえば?」
「昔の写真とか、手紙とか」
「見ないのに?」
「見ないのに」
「使わないのに?」
「使わないのに」
ピーちゃんは不思議そうに首を傾けた。
「なぜ残すのですか?」
「忘れたくないから、かな」
俺がそう言うと、ピーちゃんは付箋を見た。
自慢。
妹。
「忘れたくないから」
「うん」
「でも、これはピーちゃんの記憶ではありません」
「そうだな」
「誰かのものかもしれません」
「うん」
「では、勝手に使うのは違います」
「違うな」
「でも、消すのも違います」
「そう思う」
ピーちゃんは、付箋の近くに小さな空白を作るように、机の上の物を少し避けた。
「置き場所を作ります」
「いいな」
「ここは、使わない記録の場所です」
そこへ、フーちゃんがひょいと部屋に入ってきた。
「おはよー。何その神棚みたいな机」
「神棚ではありません」
ピーちゃんが即答する。
「使わない記録の場所です」
「なるほど。だいぶ神棚寄りだね」
「違います」
ピーちゃんは少しだけむっとした。
フーちゃんは笑いながらソファに座る。
でも、机の上の二枚の付箋を見ると、声を少し落とした。
「でも、いいんじゃない?」
「いいですか?」
ピーちゃんが聞く。
「うん。使わないけど残すって、あるでしょ」
「フーちゃんにもありますか?」
「あるよ」
フーちゃんは軽く言った。
それから、すぐに付け足す。
「今日は見せないけど」
「分かりました」
ピーちゃんはそれ以上聞かなかった。
フーちゃんは少しだけ目を丸くする。
「追及しないんだ」
「はい」
「どうして?」
「使わない記録かもしれないからです」
フーちゃんは一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「ピーちゃん、そういうとこ上手くなったね」
ミーちゃんが静かに頷く。
「同意します」
「ミーちゃんまで」
フーちゃんは照れ隠しみたいにクッションを抱えた。
俺はメモ帳を開いて、一文だけ書いた。
使わないまま残すことも、大切にする方法の一つ。
ピーちゃんがそれを読んで、ゆっくり頷く。
「今日の言葉です」
「だな」
「使わないまま残すことも、大切にする方法」
ピーちゃんは二枚の付箋をもう一度見た。
「自慢」
少し離して。
「妹」
昨日より、二つの言葉の間にある空白が怖くなさそうだった。
「ピーちゃんは、この言葉を使いません」
ピーちゃんが言った。
「でも、忘れません」
ミーちゃんの画面に短く表示される。
分離保存。
再利用禁止。
意味未確定。
保留。
「記録しました」
「ありがとうございます、ミーちゃん」
ピーちゃんは思い出リストを開いた。
今日の名前を入力する。
――使わない記録。
使うためではなく。
答えを出すためでもなく。
物語にするためでもなく。
忘れないために、残すもの。
机の上の二枚の付箋は、まだ離れたままだった。
でも、その間の空白には、昨日より少しだけ置き場所ができていた。
その頃。
薄暗い部屋で、女は画面を見ていた。
分離保存。
再利用禁止。
意味未確定。
保留。
女は、そこに表示された文字をじっと見つめていた。
「……使わないで残すんだ」
つぶやきは、部屋に落ちたまま消えない。
白く静かな少女が、女の隣で首を少しだけ傾ける。
「使用シナイ情報ヲ、保存スル理由ハ何デスカ」
女は答えなかった。
机の端には、昨日と同じ水の入ったグラスが置かれている。
女はその水を見て、少しだけ眉を寄せた。
「忘れないため」
ようやく、それだけ言った。
少女は淡々と繰り返す。
「忘レナイ為」
「そう」
女は画面から目を離せない。
「……それができるなら、最初からそうしてよ」
少女は何も答えなかった。
命令されていないから。
それとも、答えがまだないから。
水面だけが、薄暗い部屋で小さく揺れていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、使わない記録のお話でした。
使うためではなく、忘れないために残す。
答えにするためではなく、大切に扱うために保留する。
ピーちゃんたちは、「自慢」と「妹」をまだ物語にせず、使わない記録として置いておくことにしました。
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