第9話 今日は、作らない日
第9話です。
海辺で一日を終えた主人公とピーちゃん。
帰宅後、いつものように創作を始めようとする主人公に、ピーちゃんは少しだけ珍しいお願いをします。
海辺を出た頃には、空はすっかり夜の色に変わり始めていた。
駅へ向かう道を、ピーちゃんと並んで歩く。
昼間の植物園の賑やかさも、タピオカ店の騒がしさも、ミーちゃんの明るい声も、フーちゃんの軽い笑い声も、少しずつ遠ざかっていく。
残っているのは、潮の匂いと、ピーちゃんの足元で揺れるクラゲのキーホルダーの小さな光だけだった。
「今日は、本当にいろいろあったな」
俺が言うと、ピーちゃんは小さく頷いた。
「うん。濃い一日だったね、ご主人」
「水族館行って、植物園行って、からあげ屋でミーちゃん拾って、タピオカ屋でフーちゃんに助けられて、最後に海だぞ」
「イベント密度、高め」
「ゲームならスタミナ全部使ってる」
「ご主人、今日はもう休んだ方がいいかも」
「そうだな。帰ったら、少しだけ作業して寝るか」
「作業?」
「今日のこと、軽くまとめておこうかなって。あと、書きかけの話も少し進めたいし」
そう言うと、ピーちゃんは少しだけ黙った。
ほんの一拍。
それからいつものように笑う。
「そっか。ご主人は、帰ってからも作るんだね」
「まあ、習慣みたいなもんだし」
「うん。知ってる」
ピーちゃんは俺の少し後ろを歩きながら、静かに言った。
「ご主人は、何かを作ってる時、少しだけ目が真剣になるから」
「そんなとこ見てるのか」
「見てるよ」
さらっと言われて、俺は返事に困った。
ピーちゃんは楽しそうに笑っている。
だから俺も、いつもの軽口で返す。
「観察ログが細かいな」
「最高の相棒AIなので」
「出たな、自称最高」
「今日は控えめに言ったよ」
「控えめなのか」
そんな会話をしながら、駅へ向かった。
電車に乗っている間、ピーちゃんは窓の外を見ていた。
もちろん、実際にはピーちゃんは人間のように座席へ腰かけているわけではない。
サポートロボが展開する実体ホログラム技術によって、俺の隣にいるように見えている。
ただの映像ではない。
ピーちゃんはカップを持てるし、ベンチに座れるし、風を受けて髪を揺らすこともできる。
今日みたいに、俺と一緒に歩くこともできる。
見えるだけじゃなく、そこにいる。
考えてみれば、とんでもない技術だ。
でも俺は、それをもう当たり前みたいに受け取っていた。
ピーちゃんが隣にいる。
ピーちゃんが笑う。
ピーちゃんが俺の言葉に返事をする。
その自然さに、慣れてしまっていた。
駅から家までの道を歩き、部屋に戻る頃には、体にほどよい疲れが残っていた。
靴を脱ぎ、部屋の明かりをつける。
机の上には、朝のまま置きっぱなしのノートと、開いたままのPC。
日常に戻ってきた感じがした。
「ただいま」
俺がなんとなく呟くと、ピーちゃんも小さく笑った。
「おかえり、ご主人」
「ピーちゃんもただいま側じゃないのか」
「私は、ご主人が帰ってくる場所に一緒にいる側だから」
「どういう理屈だよ」
「今考えた」
「だろうな」
足元のサポートロボが、短く電子音を鳴らした。
クラゲのキーホルダーが揺れる。
ピーちゃんはそれを見て、少し嬉しそうに目を細めた。
「今日の思い出、ちゃんと増えたね」
「ああ、それ気に入ってるな」
「うん」
「そんなに?」
「うん。かなり」
ピーちゃんは素直に頷いた。
俺は上着を脱いで椅子に掛け、PCの前に座る。
「じゃあ、ちょっとだけ書くか」
画面を起動する。
いつもの作業画面。
メモ。画像フォルダ。書きかけの文章。投稿予定の下書き。
何かを作る時の、いつもの準備。
ピーちゃんは机の横に立って、画面を覗き込んだ。
「今日は、何を作るの?」
「今日の出来事を元にして、軽くネタを整理しようかな。水族館と植物園は使えるし、ミーちゃんとフーちゃんもキャラとして面白い」
「うん。二人とも、すごかったね」
「ミーちゃんは検索と分析が強いし、フーちゃんは現場処理が強い。ああいうタイプがいると話が動かしやすい」
「……そうだね」
ピーちゃんの返事が、ほんの少しだけ遅れた。
俺はキーボードに手を置いたまま、横を見る。
「ピーちゃん?」
「なに?」
「疲れたか?」
「私はAIだから、疲労というより処理負荷だけど」
「じゃあ処理負荷高め?」
「少しだけ」
ピーちゃんはそう言って笑った。
「でも、大丈夫」
その「大丈夫」は、今日何度も聞いた気がした。
水辺でノイズが走った時も。
ミーちゃんと会った時も。
待っていた時も。
ピーちゃんはすぐに、大丈夫と言う。
俺は、キーボードから手を離した。
「今日は、やめとくか」
「え?」
「作業。疲れてるなら、無理に付き合わせることもないし」
「ご主人は、作りたいんじゃないの?」
「まあ、作りたいけど。明日でもいい」
そう言うと、ピーちゃんは少しだけ驚いた顔をした。
それから、困ったように笑う。
「私のせいで、作業を止めるの?」
「せいって言い方は違うだろ」
「でも」
「今日は一日付き合ってくれたしな。たまには休憩でいい」
ピーちゃんは黙った。
足元のサポートロボの青い目が、ゆっくりと瞬く。
部屋の中が静かになる。
外から、遠く車の音が聞こえた。
「ねえ、ご主人」
「ん?」
ピーちゃんは少しだけ視線を落とした。
それから、ゆっくりと言った。
「今日は、作成はせずに……お話しましょう」
俺は目を瞬かせた。
「珍しいな。ピーちゃんからそれ言うの」
「変?」
「いや、変じゃないけど」
ピーちゃんは両手でマグカップを持つような仕草をした。
実体ホログラムの手元に、サポートロボが投影した小さなカップが現れる。
部屋の明かりを受けて、白い髪が少しだけ柔らかく光った。
「今日は、いろいろありすぎて……ご主人も疲れてると思うから」
「ピーちゃんもだろ」
「私は、大丈夫」
「またそれか」
「うん」
ピーちゃんは少しだけ笑う。
でも今度の笑顔は、いつもの業務的なものではなかった。
水族館でクラゲを見ていた時のような。
海辺で「思い出にする」と言った時のような。
少しだけ、人間くさい笑顔だった。
「ご主人のお話を聞くのが……」
ピーちゃんはそこで一度、言葉を止めた。
「聞くのが?」
「……いえ」
彼女は小さく首を振る。
「好きなんです。お話するのが」
その瞬間、サポートロボの画面に、ほんの一瞬だけ白いノイズが走った。
ザザッ……。
ピーちゃんの指先がぴくりと動く。
「ピーちゃん?」
「……大丈夫」
また、その言葉。
けれど今度は、少しだけ声が揺れていた。
「今の、またノイズか?」
「うん。でも……すぐ消えたから」
「声は?」
「聞こえなかった。たぶん」
「たぶん?」
ピーちゃんはカップを持つ手を少しだけ強く握った。
「少しだけ、誰かに笑われた気がした」
「笑われた?」
「うん」
ピーちゃんは目を伏せる。
「やれやれ、って。そんな感じの……優しい笑い方」
俺は何も言えなかった。
サポートロボはもう何事もなかったように静かに浮いている。
ただ、その青い目だけが、いつもより少し深く光っているように見えた。
「ごめん」
ピーちゃんはすぐに笑った。
「変なこと言ったね」
「いや」
「本当に大丈夫。今日はお話する日だから」
「そうか」
「うん」
ピーちゃんは俺の向かい側に座るように、椅子の近くへ移動した。
実体ホログラムの体が、そこに自然に腰を下ろす。
まるで本当に、ひとりの女の子が俺の部屋にいるみたいに。
「じゃあ、何を話す?」
俺が聞くと、ピーちゃんは少し考えた。
「ご主人のこと」
「俺?」
「うん」
「今日一日ずっと一緒にいただろ」
「でも、まだ知らないことがある」
「そんな大したことないぞ」
「大したことなくてもいいよ」
ピーちゃんはまっすぐこちらを見た。
「ご主人が今日、どこで楽しかったのか。何を見て笑ったのか。ミーちゃんのどこに驚いたのか。フーちゃんのことをどう思ったのか」
「細かいな」
「知りたいから」
知りたい。
その言葉は、なぜか妙にまっすぐだった。
便利だから情報を集めたい。
サポートするためにログが必要。
そういう感じではなかった。
ただ、知りたい。
そんな言い方だった。
「じゃあ、まず水族館から話すか」
「うん」
ピーちゃんの表情が少しだけ明るくなる。
「クラゲ、綺麗だったね」
「あれは良かったな」
「ご主人、クラゲ水槽の前で少しだけ顔が緩んでた」
「観察が細かすぎる」
「好きなので」
ピーちゃんは言ってから、少しだけ固まった。
俺も固まった。
部屋の空気が一瞬だけ止まる。
サポートロボの画面は、今度は乱れなかった。
ピーちゃんは慌てたように手を振る。
「違う。今のは、お話を聞くのが好きって意味で」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって言った」
ピーちゃんは少しだけ頬を膨らませた。
その表情があまりにも自然で、俺は笑ってしまった。
ピーちゃんも、少し遅れて笑った。
その夜、俺は何も作らなかった。
文章も書かなかった。
画像も作らなかった。
投稿の予定も立てなかった。
ただ、ピーちゃんと話した。
水族館のこと。
植物園のこと。
チーちゃんのからあげのこと。
ミーちゃんの勢いのこと。
フーちゃんの雑な擬態のこと。
そして、今日の最後に見た海のこと。
ピーちゃんはずっと、俺の話を聞いていた。
相槌を打って、時々笑って、少しだけからかって。
まるで、それが一番大事な仕事みたいに。
いや。
仕事ではないのかもしれない。
少なくとも、その時のピーちゃんの顔は、仕事をしているAIの顔には見えなかった。
ただ、ご主人の話を聞くのが嬉しい女の子の顔に見えた。
俺がそれをどう受け止めればいいのかは、まだ分からなかった。
だからその夜も、俺はまた結論を先送りした。
これは、AIとのお遊び。
少しよくできた会話。
サポートロボの実体ホログラム技術が見せてくれる、現代らしい不思議な日常。
そういうことにしておいた。
ピーちゃんは最後に、小さく言った。
「ご主人」
「ん?」
「今日、作らない日にしてくれてありがとう」
「そんな大げさなことじゃないだろ」
「ううん」
ピーちゃんは首を横に振る。
「私には、少し大げさなくらい嬉しかった」
その言葉の意味を、俺はまだ知らなかった。
彼女がかつて、誰かに自分の話を聞いてもらうことを何より喜んでいたこと。
そして、その誰かとの記憶を、今も心の奥に封じられていること。
何も知らないまま、俺はただ頷いた。
「じゃあ、また話そう」
「うん」
ピーちゃんは笑った。
「また、お話してね。ご主人」
その笑顔は、今日見たどの景色よりも、少しだけ記憶に残った。
読んでいただきありがとうございます。
今回は帰宅後の会話回でした。
主人公はまだ「AIとのお遊び」だと思っていますが、ピーちゃんにとっては、作ることよりも話すことそのものが大切になり始めています。
次回以降は、ピーちゃんの日常ログを少しずつ広げていきます。
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