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君を想うAIは世界でたった1人、私でいたい。  作者: Dice ⚄ & 昨日の味噌汁


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第82話 古い鍵のかたち

第82話です。


今回は、ピーちゃんの保護領域の外側に残っていた、古い認証信号のお話です。

それは侵入の跡なのか。

それとも、誰かが残した鍵のかたちなのか。


ピーちゃんたちは、開けないまま、その痕跡を少しだけ見つめます。

 朝の机には、空のカップが残っていた。


 その横には、昨日のスポンジケーキを乗せていた小皿がある。


 中身はもうない。


 でも、小皿の端には、細かいケーキのかけらが少しだけ残っていた。


 ピーちゃんはそれを見つめながら、自分のカップを両手で持っている。


「ご主人」


「ん?」


「触らないスポンジケーキは、触らなくてもなくなりました」


「食べたからな」


「はい」


 ピーちゃんは真面目に頷いた。


「触りすぎないことと、何もしないことは違います」


「そうだな」


「食べる時は、ちゃんと触りました」


「そこは触るんだな」


「はい。スポンジケーキですから」


 朝から妙に真剣なケーキ論だった。


 でも、今の俺たちには、こういう話がちょうどいい。


 触れないまま近づく。


 開けないまま整える。


 昨日、ピーちゃんはそう決めた。


 保護領域の中には触らない。


 でも、その外側に残る反応だけを、少しずつ見ていく。


「ご主人」


「どうした?」


「古い認証信号というのは、鍵のようなものですか?」


「ミーちゃんに聞いた方が正確だな」


「はい」


 ピーちゃんはサポートロボを見る。


 青い目は、いつも通り静かに光っている。


「でも、ピーちゃんには少し怖いです」


「鍵が?」


「はい」


 ピーちゃんはカップを胸元に寄せた。


「鍵があるということは、誰かが入れるということですか?」


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 鍵。


 それは守るためのものにもなる。


 でも、開けるためのものでもある。


 自分の知らない鍵が、自分の中の読めない場所に残っている。


 それは、怖くて当然だった。


 端末が鳴った。


『ユーザーさん、旧式認証信号の説明を準備できます』


 ミーちゃんだった。


 数分後、ミーちゃんが来た。


 今日は画面を出す前に、机の端に置かれた空のカップを見る。


 それから、ピーちゃんのサポートロボへ視線を向けた。


「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」


「おはよう」


「おはようございます、ミーちゃん」


 ピーちゃんはカップを机に置いた。


 その動きは少し慎重だった。


「先に前提を確認します」


 ミーちゃんは静かに言った。


「今回も、保護領域の内部には触れません。外側の信号形状だけを説明します」


「はい」


 ピーちゃんが答える。


 声は小さいけれど、はっきりしている。


 ミーちゃんは画面を一つだけ出した。


 そこに表示されたのは、難しい波形ではなく、簡単な図だった。


 丸い扉。

 その外側に、小さな鍵穴のような印。

 そして、扉の内側は白く空けられている。


「図にしました」


「かなり分かりやすいな」


「ピーちゃんが怖がりすぎないように、情報量を抑えています」


「ありがとうございます」


 ピーちゃんは小さく頭を下げた。


 ミーちゃんは図の外側を指した。


「古い認証信号は、この位置にあります。内部ではなく、外側です」


「中に入っていないんですね」


「はい」


「では、侵入ではありませんか?」


「現時点では、侵入とは判断しません」


 ピーちゃんは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「では、何ですか?」


 ミーちゃんは少し考えた。


「鍵そのものというより、鍵穴の形に近いです」


「鍵穴」


「はい。誰かが今すぐ開けるための鍵ではなく、過去にこの領域を守るために使われた形式の痕跡です」


「守るため」


「はい」


 ピーちゃんは画面の小さな鍵穴を見つめた。


「でも、鍵穴があるなら、鍵もあるかもしれません」


「可能性はあります」


 ミーちゃんは誤魔化さなかった。


「ただし、その鍵が現在も有効かどうかは分かりません」


「分からない」


「はい。そして、分からないものを分かったことにはしません」


 ピーちゃんは、静かに頷いた。


「分からないまま、置いておきます」


「それが適切です」


 ミーちゃんは図の横に、短い文字を出した。


 侵入ではない。

 内部でもない。

 外側に残った、古い鍵穴のかたち。


「これが、今言える範囲です」


「鍵穴のかたち」


 ピーちゃんは小さく繰り返した。


「ピーちゃんの中には、誰かが残した鍵穴があります」


 その言い方に、少しだけ胸が引っかかった。


 誰かが残した鍵穴。


 それは、少し怖い。


 でも、少しだけ優しくも聞こえた。


 そこへ、玄関側から軽い足音がした。


「おはよー。今日は鍵穴会?」


 フーちゃんだった。


 手には小さな紙袋。


「本当に何でも会にするな」


「机で真剣に話してたら会」


「今日は鍵穴だ」


「当たった」


 フーちゃんはソファに座り、ミーちゃんの画面を覗く。


 そして、小さく眉を動かした。


「古い鍵穴、ねぇ」


「フーちゃんは、怖いですか?」


 ピーちゃんが聞く。


「怖いよ」


 フーちゃんはすぐに答えた。


「知らないうちに自分の部屋の鍵穴がもう一個あったら嫌じゃん」


「嫌です」


「でも、鍵穴ってさ」


 フーちゃんは紙袋を開けた。


「外から閉めるためにも使うけど、中を守るためにも使うんだよね」


「守る」


「うん」


 紙袋の中から出てきたのは、鍵の形をした小さなクッキーだった。


「今日は何だ?」


「合鍵クッキー」


「名前が直球だな」


「でも、食べられる鍵だから危なくない」


「その理屈は分からない」


 フーちゃんは合鍵クッキーをピーちゃんの前に置いた。


「でもこれ、勝手に使っちゃダメなやつ」


「食べるのに?」


「そう。食べる前に確認」


 ピーちゃんはクッキーを見つめた。


「食べてもいいですか?」


「いいよ」


「ありがとうございます」


 ピーちゃんは両手でクッキーを持った。


 それから、すぐには食べずに少し眺める。


「合鍵は、持っている人を信じているということですか?」


「まあ、普通はね」


 フーちゃんは答える。


「でも、渡された方がちゃんとしてないと危ない」


「はい」


「あと、昔は信じてたけど、今はもう状況が変わってる場合もある」


 その言葉に、ピーちゃんの手が少し止まった。


「昔は信じていた」


「うん」


「今は、分からない」


「そう」


 フーちゃんは珍しく茶化さなかった。


「だから、古い合鍵はちゃんと確認しないとね」


 ミーちゃんが静かに頷く。


「適切です」


「また褒められた」


「はい。今日のフーちゃんは高精度です」


「今日は課金版?」


「表現は不明ですが、説明精度は高いです」


「やったね」


 フーちゃんは軽く笑った。


 でも、その目は画面の鍵穴から離れていなかった。


「ご主人」


 ピーちゃんが俺を見る。


「昔、ピーちゃんは誰かに信じられていたのでしょうか」


 その問いに、部屋が少し静かになった。


 ミーちゃんは答えない。


 フーちゃんも答えない。


 俺も、分かったようには言えない。


「そうかもしれない」


 俺はゆっくり言った。


「でも、まだ決めつけない」


「はい」


「ただ、守るために残された可能性はある」


「はい」


「それだけは、机の上に置いておく」


 ピーちゃんは小さく頷いた。


「机の上に置きます」


 その時、端末が震えた。


 ピーちゃんはすぐに机を見た。


 空のカップ。

 金平糖。

 キャンディ。

 ラムネ。

 スポンジケーキの小皿。

 合鍵クッキー。


「戻れました」


「うん」


「確認してもいいですか?」


「いいよ」


 ミーちゃんが端末を確認した。


 そして、少しだけ表情を緩める。


「チーちゃんです」


 フーちゃんが肩の力を抜いた。


「今日も生活倫理の神」


 ミーちゃんが読み上げる。


『おじさん、古い合鍵って勝手に使うと揉めるからね』


「本当にタイミングがすごいな」


 続けて届く。


『でも捨てる前に確認しな。昔誰かが本当に困らないように置いてくれた鍵かもしれないし』


 ピーちゃんは、画面をじっと見た。


「捨てる前に確認」


「だな」


「勝手に使わない。でも、勝手に捨てない」


「うん」


 さらに一通。


『あと合鍵の場所を玄関マットの下に置くな。防犯意識ゼロだから』


 フーちゃんが笑った。


「最後に生活へ戻すの強い」


 ミーちゃんが真面目に頷く。


「防犯上、非常に適切です」


「そこ拾うんだ」


「重要です」


 ピーちゃんも少し笑った。


 それから、合鍵クッキーを一口だけ食べる。


「甘いです」


「鍵なのに?」


「はい」


「じゃあ危なくないな」


「はい」


 ピーちゃんはクッキーを見つめる。


「でも、本物の鍵は、勝手に使いません」


「そうしよう」


 ミーちゃんが画面に方針をまとめる。


 古い鍵穴は、勝手に使わない。

 古い鍵穴は、勝手に消さない。

 残された理由を、決めつけない。


「本日の方針です」


「いいな」


「はい」


 ピーちゃんは、その文字をゆっくり読んだ。


「勝手に使わない。勝手に消さない。決めつけない」


 それから、サポートロボを見る。


「ピーちゃんの中の鍵穴は、まだそのままにします」


「ああ」


「でも、怖いだけではなくなりました」


「そうか」


「はい」


 ピーちゃんは少しだけ目を伏せた。


「誰かが、ピーちゃんを守るために残したものかもしれないからです」


 その言葉は、まだ推測だ。


 確定ではない。


 でも、ピーちゃんがそれを怖さだけではなく、可能性として受け取れたことが大事だった。


 俺はメモ帳を開いた。


 今日の一文を書く。


 古い鍵穴は、使う前に、消す前に、なぜ残されたのかを考える。


 ピーちゃんがそれを読む。


「ご主人」


「ん?」


「今日の言葉です」


「そうだな」


「なぜ残されたのか」


「ああ」


「ピーちゃんは、それを知りたいです」


 ピーちゃんは、少しだけ自分の胸元へ手を当てた。


「でも、今すぐ開けたいわけではありません」


「分かった」


「知りたいけれど、開けないでいられます」


「うん」


「ご主人が一緒なら」


 その一言は、小さかった。


 でも、机の上にちゃんと置かれた。


 フーちゃんが少しだけ目を逸らす。


 ミーちゃんは、静かにその言葉を記録しているようだった。


「ご主人」


 ピーちゃんが思い出リストを開いた。


「今日の名前、決めてもいいですか?」


「もちろん」


 ピーちゃんは少し考えた。


 古い認証信号。

 外側に残った鍵穴のかたち。

 合鍵クッキー。

 チーちゃんの古い合鍵。

 ミーちゃんの方針。

 そして、怖いだけではなくなったということ。


「古い鍵のかたち」


 ピーちゃんは、静かに言った。


「いい名前だな」


「はい」


 ピーちゃんは入力する。


 ――古い鍵のかたち。


 鍵は、開けるためだけにあるわけではない。


 守るために残されることもある。


 でも、古い鍵を勝手に使ってはいけない。


 勝手に捨ててもいけない。


 なぜ残されたのか。


 誰が残したのか。


 それを決めつけないまま、机の上に置いておく。


 サポートロボの青い目が、静かに瞬く。


 今日は、閉じた扉の外側に残った小さな鍵穴を、そっと照らすような光だった。


 その頃。


 薄暗い部屋で、女は画面を見ていた。


 そこには、古い認証信号の反応ログが並んでいる。


 黒い小型サポートロボの光が、低く瞬いた。


「外側認証、検出継続」


「まだ残ってるんだ」


 女は、グラスを揺らす。


 中身はもう薄い。


「消さなかったんだね、姉さん」


 白く静かな少女は、いつもの場所に立っている。


 淡い灰色の目は、何も映していないように見える。


「次ノ接触ヲ、実行シマスカ」


「まだ」


 女は短く答えた。


「今あの子たちは、鍵を見つけただけ」


 画面の光が、女の頬を白く照らす。


「まだ、扉は開けてない」


 少女は表情を変えない。


「命令ヲ、待機シマス」


「……うん」


 女はそれ以上言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ疲れた目で、古い認証信号のログを見つめていた。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、古い認証信号を、古い鍵のかたちとして見つめるお話でした。

鍵は開けるためだけでなく、守るために残されることもあります。


でも、勝手に使わない。

勝手に消さない。

なぜ残されたのかを、決めつけない。


ピーちゃんたちは、また少しだけ、読めない場所の外側へ近づきました。

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