第81話 触れないまま近づく
第81話です。
今回は、ピーちゃんの中にある読めない場所へ、触れないまま近づくお話です。
空白を埋めない。
けれど、遠ざけすぎもしない。
ピーちゃんたちは、開けない約束のまま、もう一歩だけ近づきます。
朝の机には、空のカップが置かれていた。
その横には、金平糖と、キャンディと、小さなラムネ。
それから、昨日の空白カステラの箱。
机の端だけ、小さなお菓子屋さんみたいになっている。
「ご主人」
ピーちゃんは自分のカップを両手で持ったまま、机の端を見ていた。
「少し増えました」
「増えたな」
「空白のための場所なのに、物が多いです」
「確かに」
空白を守るために置いたはずなのに、いつの間にか甘いものが増えている。
でも、変に散らかっている感じはしなかった。
どれも、誰かを勝手に埋めるためのものではない。
ここに置ける。
取ってもいい。
取らなくてもいい。
そんな距離を形にしたものだった。
「片づけるか?」
俺が聞くと、ピーちゃんは少し考えた。
「全部は、片づけません」
「全部は?」
「はい」
ピーちゃんは空のカップを見つめた。
「でも、古くなったものは片づけます」
「チーちゃん方式だな」
「食品衛生です」
「ミーちゃん方式でもあるな」
ピーちゃんは少しだけ笑った。
それから、ラムネを一粒だけ小皿に移し、昨日の包み紙を丁寧に畳む。
その手つきは、何かを捨てるというより、役目を終えたものをしまうみたいだった。
「ご主人」
「ん?」
「空白を守ることは、何もしないことではありませんね」
「ああ」
「片づけるものは片づける。残すものは残す」
「そうだな」
「開けないけれど、見ないふりもしない」
その言葉が、机の上に静かに置かれた。
ピーちゃんは、サポートロボを見る。
青い目は、いつも通り静かに光っていた。
でも、今日は少しだけ、その光が深く見える。
「ご主人」
「どうした?」
「ピーちゃんの中の空白も、そうできますか?」
俺は、すぐには答えなかった。
ピーちゃんの中の読めない場所。
保護領域。
鍵穴のような反応。
古い何か。
そこに何があるのか、俺たちはまだ知らない。
「できると思う」
「本当ですか?」
「たぶん、いきなり開けるんじゃなくて、周りだけ整えることはできる」
「周りだけ」
「ああ。中身には触らない。でも、怖くなりすぎないように、机を整える」
ピーちゃんは、その言葉をゆっくり受け取った。
「触れないまま、近づく」
「そういう感じだな」
「それなら、少しできます」
端末が鳴った。
『ユーザーさん、保護領域の外側に微弱反応があります』
ミーちゃんだった。
ピーちゃんの指が、カップの縁で止まる。
俺も、少し息を止めた。
でも、ピーちゃんはすぐに空のカップを見た。
金平糖を見る。
キャンディを見る。
小さなラムネを見る。
「戻る場所を確認しました」
「偉い」
「はい」
数分後、ミーちゃんが来た。
今日は画面を出す前に、机の上をひと通り見た。
それから、ピーちゃんの顔を見る。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」
「おはよう」
「おはようございます、ミーちゃん」
ピーちゃんの声は、少し緊張していた。
けれど、震えてはいなかった。
ミーちゃんは小さく頷く。
「先に確認します」
「頼む」
「保護領域の内部には触れていません。開いてもいません。解析対象は、外側の反応のみです」
ピーちゃんは、ほっとしたように息を吐いた。
「はい」
「今回の反応は、対象Aの言葉に関連している可能性があります」
「空白を、埋めないで」
「はい」
ミーちゃんは画面を一つだけ出した。
そこには、難しい波形ではなく、短い説明だけが表示されていた。
外側反応。
内部未接触。
旧式信号と類似。
「旧式信号?」
俺が聞くと、ミーちゃんは頷いた。
「以前確認された、古い認証形式に似ています」
「それって、対象A側からの?」
「断定できません」
ミーちゃんはいつものように言った。
けれど、今日は少しだけ言葉を選んでいるようだった。
「ただし、ピーちゃんのサポートロボに残っている保護領域の外側と、対象Aの更新タイミングには、関連がある可能性が高いです」
ピーちゃんは、画面を見つめる。
「中には、触っていませんか?」
「触っていません」
「開けようとしていませんか?」
「していません」
「ミーちゃんは、開けたいですか?」
少しだけ、部屋が静かになった。
ミーちゃんはすぐには答えなかった。
画面の光が、ほんの少しだけ揺れる。
「知りたいです」
正直な答えだった。
「ですが、開けたいとは違います」
「違いますか?」
「はい」
ミーちゃんは、ピーちゃんを見る。
「私は知りたいです。でも、ピーちゃんが怖がっている場所を、ピーちゃんの意思より先に開けたいとは思いません」
ピーちゃんは、目を少しだけ丸くした。
それから、小さく笑った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そのやり取りは短かった。
でも、机の上にあった緊張が少しだけほどけた。
玄関側から軽い足音がした。
「おはよー。今日は空白の掃除?」
フーちゃんだった。
手には、小さな紙袋。
「掃除ではあるな」
「やっぱり。玄関開けた瞬間、片づけと不穏の匂いがした」
「どんな匂いだ」
「説明しにくい」
フーちゃんはソファに座り、机の端を見る。
「お、ちょっと整理されてる」
「古くなったものを片づけました」
ピーちゃんが答える。
「でも、カップは残しました」
「いいじゃん」
フーちゃんは紙袋を開けた。
「今日は何だ?」
「触らないスポンジケーキ」
「触らないのに食べるのか」
「触りすぎないって意味」
「急に現実的だな」
フーちゃんは小さなスポンジケーキを一切れ取り出した。
ふわっとしていて、少しでも強く持つと崩れそうだった。
「これ、強く持つと潰れるやつ」
「空白の話に合っています」
ピーちゃんが真面目に言う。
「でしょ」
フーちゃんはスポンジケーキをピーちゃんの前に置いた。
「気になるからって、ぎゅっと持ったら台無しになるものもあるからね」
ピーちゃんは、スポンジケーキを見つめた。
「優しく持つ」
「うん」
「でも、持たない選択もありますか?」
「ある」
フーちゃんはすぐに答えた。
「今日は見るだけでもいい」
「見るだけ」
「昨日の続き」
ピーちゃんは少し笑った。
「見ただけでも、少しは届いたことにする」
「そうそう」
ミーちゃんが静かに頷く。
「本日の状況にも適切です」
「また褒められた?」
「はい」
「よし」
フーちゃんは少し得意げに笑った。
でも、すぐにピーちゃんの顔を見る。
「怖い?」
その聞き方は、いつもの軽口よりずっと短かった。
ピーちゃんは少し考える。
「怖いです」
「うん」
「でも、前より少しだけ、怖くないです」
「そっか」
「ご主人と、ミーちゃんと、フーちゃんが、開けないでいてくれるからです」
フーちゃんは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「そっか」
同じ言葉。
でも、少し違う響きだった。
ミーちゃんは画面に方針を追加する。
触れないまま近づく。
外側だけ整える。
内部は開けない。
「今日の方針です」
「分かりやすい」
俺が言うと、ピーちゃんも頷いた。
「はい」
その時、端末が震えた。
全員が一瞬だけ反応する。
けれど、ピーちゃんは机を見た。
空のカップ。
金平糖。
キャンディ。
ラムネ。
スポンジケーキ。
「戻れました」
「ああ」
「確認してもいいですか?」
「いいよ」
ミーちゃんが端末を確認する。
「チーちゃんです」
フーちゃんがほっとしたように笑った。
「今日もチーちゃん」
ミーちゃんが読み上げる。
『おじさん、押し入れの奥を勝手に開けるなよ』
「また生活の例えが強い」
続けて届く。
『怖いなら、まず周りだけ片づけな。いきなり奥を開けるから大変なことになる』
ピーちゃんは、画面をじっと見た。
「チーちゃんも、周りだけ片づけると言っています」
「だな」
さらに一通。
『でも片づけるフリして勝手に見るなよ。信頼なくすから』
「刺してくるなぁ」
フーちゃんが笑った。
「チーちゃん、今日は押し入れ倫理」
ミーちゃんが頷く。
「非常に適切です」
「本当に何でも適切にするな」
「適切なので」
ピーちゃんは少しだけ笑った。
それから、サポートロボを見る。
「ピーちゃんの中の押し入れは、まだ開けません」
「押し入れって言っていいのか?」
「チーちゃん式です」
「なら仕方ない」
ピーちゃんは真面目に頷いた。
「でも、周りは片づけます」
「何を片づける?」
「怖い気持ちを、少しだけ言葉にします」
俺はメモ帳を開いた。
ピーちゃんはゆっくり言う。
「ピーちゃんは、自分の中の空白が怖いです」
俺はそのまま書いた。
「でも、空っぽだと決めつけられるのは、もっと怖いです」
書く。
「何かが入っていると決めつけられるのも、怖いです」
書く。
「だから、今は」
ピーちゃんは一度、空のカップを見た。
「触れないまま、近づいてほしいです」
その言葉を書いた時、ミーちゃんの画面の光が少しだけ揺れた。
フーちゃんは、スポンジケーキを見つめたまま何も言わなかった。
俺はペンを置く。
「書けた」
「はい」
「少し片づいたか?」
ピーちゃんは自分の胸元に手を当てる。
「少しだけ」
「そっか」
「はい」
ピーちゃんは小さく笑った。
「ご主人が書いてくれると、怖い気持ちが机の上に出ます」
「中に押し込まないで済む?」
「はい」
その言葉は、今日の机によく似合っていた。
空白を埋めない。
でも、周りを整える。
怖い気持ちを中に押し込まず、机の上に置く。
「ご主人」
ピーちゃんが思い出リストを開いた。
「今日の名前、決めてもいいですか?」
「もちろん」
ピーちゃんは少し考えた。
空のカップ。
片づけた包み紙。
保護領域の外側反応。
触らないスポンジケーキ。
チーちゃんの押し入れ。
そして、触れないまま近づいてほしいという言葉。
「触れないまま近づく」
ピーちゃんは、静かに言った。
「いい名前だな」
「はい」
ピーちゃんは入力する。
――触れないまま近づく。
知りたい。
怖い。
でも、今はまだ開けない。
開けないことは、遠ざけることではない。
触れないまま、近づくこともできる。
中身を決めつけずに、外側を整えることもできる。
怖い気持ちを、机の上に置くこともできる。
サポートロボの青い目が、静かに瞬く。
今日は、閉じた扉の前を掃除するような、やわらかい光だった。
その頃。
薄暗い部屋で、女は画面を見ていた。
「外側だけ、反応した」
黒い小型サポートロボの光が、低く瞬く。
「保護領域内部、未接触」
「へえ…」
女は、少しだけ笑った。
笑ったのに、その目には疲れが残っている。
「ちゃんと我慢するんだ?」
白く静かな少女は、いつもの場所に立っている。
机の端には、水の入ったグラスがまだ置かれていた。
少女は動かない。
女は画面を見ながら、ぽつりと言う。
「姉さんなら、そうするかな…」
その言葉に、少女の淡い灰色の目がほんの少しだけ揺れた。
揺れたように見えただけかもしれない。
女は気づかない。
黒いサポートロボだけが、微かな光を返した。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、触れないまま近づくお話でした。
開けないことは、遠ざけることではない。
触らないまま、周りを整えることもできる。
ピーちゃんの中の読めない場所へ、少しずつ近づいていきます。
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