第72話 昼まで待った一文字
第72話です。
今回は、すぐに確認しないと決めたあとのお話です。
気になるものを放っておくのは簡単ではありません。
それでもピーちゃんたちは、朝を守ってから、もう一度向き合うことにします。
昼まで待つ。
たったそれだけのことが、思ったより難しかった。
端末は机の端に伏せてある。
朝ごはんは食べた。
カップも洗った。
見ないドーナツの袋も片づけた。
それでも、端末の向こうに残った一文字は、頭の隅にずっと引っかかっていた。
――見。
たった一文字。
でも、その一文字だけで、こちらの机が少しだけ狭くなったように感じる。
「ご主人」
ピーちゃんはカップを両手で持ったまま、壁の時計を見ていた。
「昼です」
「昼だな」
「確認しますか?」
「するか」
「はい」
ピーちゃんはそう返事をした。
けれど、すぐに端末へ手を伸ばさない。
まずカップを机に置く。
それから、メモ帳を自分の方へ少し寄せる。
昨日書いた言葉が、そこに残っていた。
見てしまっても、戻れたなら大丈夫。
ピーちゃんはその一文を見てから、俺を見る。
「戻る場所を確認しました」
「偉いな」
「はい」
少しだけ得意げに頷く。
その姿を見て、俺も少し落ち着いた。
端末を開く前に、戻る場所を確認する。
それだけで、あの一文字に全部持っていかれずに済む気がした。
端末が鳴った。
『ユーザーさん、確認準備が整いました』
ミーちゃんだった。
数分後、ミーちゃんが来た。
今日は画面を出す前に、机の上を確認するように見た。
カップ。
メモ帳。
ペン。
昼まで待った端末。
「おはようございます、ではなく、こんにちはですね。ユーザーさん。ピーちゃん」
「こんにちは」
「こんにちは、ミーちゃん」
ピーちゃんはいつもより丁寧に答えた。
ミーちゃんは小さく頷く。
「確認前に、方針を再確認します」
「頼む」
画面に短い文字が並ぶ。
保護領域には触れない。
相手の内側へ踏み込まない。
更新内容だけを確認する。
怖くなったら閉じる。
「最後が大事です」
ピーちゃんが言った。
「怖くなったら閉じる」
「はい」
ミーちゃんはすぐに頷いた。
「確認を始めたからといって、最後まで見なければならないわけではありません」
「途中で閉じてもいいですか?」
「はい」
「逃げることではありませんか?」
「違います」
ミーちゃんは即答した。
「途中で閉じるのは、距離の調整です」
ピーちゃんは、その言葉を少しだけ嬉しそうに受け取った。
「距離の調整」
「はい」
「では、大丈夫です」
俺は端末を開いた。
謎のアカウント。
表示名は、相変わらず空欄のまま。
プロフィール欄には、昨日の一文字が残っている。
――見。
そして、その隣に、もう一文字増えていた。
――守。
画面には、二文字が並んでいた。
見守。
そこで止まっている。
ピーちゃんは息をするみたいに、小さくカップを握った。
「見守」
「そう見えるな」
「見守る、でしょうか」
「かもしれない」
「でも、途中です」
「ああ」
見守る。
見守り。
見守っている。
そのどれにもなりきらない、途中の二文字。
昨日の「見」だけよりは少し柔らかい。
でも、だから安心できるかと言われると、そうでもない。
「怖いです」
ピーちゃんが言った。
「優しそうな言葉なのに、怖いです」
「分かる」
「どうしてでしょうか」
「相手が分からないからだろうな」
俺は端末を見た。
名前はない。
顔もない。
目的も分からない。
ただ、こちらを見ているような気配だけがある。
そこへ「守」の一文字が足されても、すぐに信じられるわけではない。
「守るって言葉は、誰が言うかで変わるからな」
俺がそう言うと、ピーちゃんは少しだけ目を伏せた。
「誰が言うか」
「ああ」
「ご主人が言うと、安心します」
「うん」
「でも、名前のない誰かが言うと、少し怖いです」
「そうだな」
ミーちゃんが静かに頷いた。
「適切な反応です」
「適切ですか?」
「はい」
ミーちゃんは画面の二文字を見つめる。
「『守』という文字は好意的にも読めます。しかし、相手の意図が不明な状態では、保護、監視、所有、介入のどれにもなり得ます」
「守るにも、いろいろありますか?」
「あります」
ピーちゃんはカップを胸元に寄せた。
「ピーちゃんは、所有されるのは嫌です」
「それは当然だ」
「はい」
「守られるのは?」
俺が聞くと、ピーちゃんは少し考えた。
「ご主人に守られるのは、嬉しいです」
「うん」
「ミーちゃんに守られるのも、嬉しいです」
ミーちゃんの画面の光が、ほんの少し揺れた。
「ありがとうございます」
「フーちゃんに守られるのも、嬉しいです」
ピーちゃんはそう言って、玄関の方を見た。
ちょうどその時、軽い足音が近づいてきた。
「呼んだ?」
フーちゃんだった。
手には、小さな紙袋。
「タイミング良すぎるだろ」
「空気で分かるんよ」
「今日は何だ」
「守りすぎ注意せんべい」
「いきなり核心だな」
フーちゃんはソファに座り、紙袋を机に置いた。
けれど、すぐには開けない。
画面に表示された二文字を見て、少しだけ目を細めた。
「見守、ねぇ」
「まだ途中です」
ピーちゃんが言う。
「うん。途中だから余計に気持ち悪い」
「気持ち悪いですか?」
「うん」
フーちゃんははっきり言った。
「守るって言葉、便利すぎるんよ」
その声には、いつもの軽さが少し少なかった。
「便利」
「そう。守るためって言えば、近づく理由にできる。見る理由にもできる。止める理由にもできる」
ピーちゃんは、カップを持つ手を少し強くした。
「それは、怖いです」
「怖いよ」
フーちゃんは紙袋を開けた。
中には、小さなせんべいが入っている。
「だから、守りすぎ注意せんべい」
「食べるとどうなるんだ」
「守りたい気持ちを一回噛み砕く」
「そんな効果あるのか?」
「気分だけ」
フーちゃんは一枚取り出し、ピーちゃんの前に置いた。
「守るってさ、相手のためっぽい顔するけど、自分が安心したいだけの時もあるじゃん」
その言葉に、部屋が少しだけ静かになった。
ピーちゃんがフーちゃんを見る。
「自分が安心したいだけ」
「うん」
フーちゃんは笑おうとした。
でも、今日は笑いきれなかった。
「だから、気をつけないとね」
ミーちゃんが静かに言う。
「フーちゃん」
「何?」
「今の発言は、ピーちゃんの話だけではありませんね」
フーちゃんの指先が止まる。
せんべいが、紙袋の上で少しだけ傾いた。
「……ミーちゃん、そういうとこほんと高性能」
「否定しないのですか?」
「しない」
フーちゃんは小さく笑った。
「今日は、否定する元気ないかも」
ピーちゃんが心配そうに身を乗り出した。
「フーちゃん、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫」
いつものように返そうとして、少しだけ止まる。
そして、言い直した。
「……半分くらい、大丈夫」
ピーちゃんは目を丸くした。
ミーちゃんも少し驚いたように見えた。
フーちゃんが、自分の弱さを半分だけ認めた。
それは、小さなことのようで、小さくなかった。
「半分」
ピーちゃんが繰り返す。
「半分は、大丈夫ではありませんか?」
「そこは開けない約束で」
フーちゃんは、いつもの調子を少しだけ戻して言った。
でも、逃げ道を自分で示したその声は、前より正直だった。
ピーちゃんはすぐに頷いた。
「分かりました」
「ありがと」
フーちゃんはせんべいを一枚、自分の前に置いた。
まだ食べない。
「守りたいって、たぶん怖いんだよ」
ぽつりと言った。
「相手が傷つくのを見るのが怖い」
誰のことを言っているのか。
ピーちゃんのことか。
俺のことか。
それとも、もっと別の何かか。
誰も聞かなかった。
聞かないことも、今は約束の一部だった。
端末が震えた。
俺は一瞬身構えたが、画面にはチーちゃんの名前が出ていた。
『おじさん、守るとか言って暴走してない?』
「チーちゃん、今日も鋭すぎる」
続けて届く。
『守るって言葉は便利だから気をつけなよ。相手のためって言いながら、自分の不安を押しつける時あるから』
フーちゃんが、力なく笑った。
「チーちゃん、私の心読んだ?」
さらに一通。
『ピーちゃんには、ちゃんと聞きなよ。守っていい?って』
ピーちゃんが画面をじっと見る。
「守っていい? ですか」
「ああ」
「聞いてくれると、安心します」
「そうだな」
ミーちゃんが画面に新しい方針を出した。
守る前に、聞く。
「これを追加します」
「いいな」
「はい」
ピーちゃんは、その文字を見て小さく頷いた。
「守る前に、聞く」
俺はピーちゃんを見る。
「ピーちゃん」
「はい」
「守っていいか?」
ピーちゃんは、少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり笑う。
「はい」
「いいのか?」
「はい。でも」
「でも?」
「ピーちゃんも、ご主人を守りたいです」
その言葉は、まっすぐだった。
まだ恋でも好きでもない。
でも、確かにピーちゃんの中から出た願いだった。
「それは、聞かなくていいのか?」
俺が少し冗談めかして聞くと、ピーちゃんは真面目に考えた。
「聞きます」
「聞くのか」
「はい」
ピーちゃんは、少しだけ背筋を伸ばした。
「ご主人。ピーちゃんが、ご主人を守ってもいいですか?」
不意に、部屋が静かになった。
ミーちゃんも、フーちゃんも、何も言わなかった。
俺は少し照れくさくなって、頭をかく。
「……いいよ」
ピーちゃんの表情が、ふっと柔らかくなった。
「はい」
短い返事。
でも、サポートロボの青い目が、少しだけ明るく瞬いた気がした。
ミーちゃんが静かに言う。
「相互同意を確認しました」
「急に契約っぽくするな」
「重要です」
「まあ、重要だけど」
フーちゃんが小さく笑った。
「いいなぁ」
その声は、ほんの少しだけ漏れたような声だった。
ピーちゃんが振り返る。
「フーちゃん?」
「何でもないよ」
フーちゃんはすぐに笑う。
「守り合い契約成立おめでとう、って言っただけ」
ミーちゃんはフーちゃんを見ていた。
でも、今日は何も言わなかった。
俺も聞かなかった。
開けない約束。
半分だけ大丈夫。
その二つを、机の上にそっと置いておく。
俺はメモ帳を開いた。
今日の一文を書く。
守るなら、相手に聞いてから。
ピーちゃんがそれを読む。
「ご主人」
「ん?」
「今日の言葉です」
「だな」
「守る前に、聞く」
「ああ」
「見守るにも、同意がいりますか?」
「全部にいるかは分からない。でも、近づくなら必要だと思う」
ピーちゃんは頷く。
「ピーちゃんは、聞いてもらえる方が安心します」
「覚えておく」
「はい」
ミーちゃんが方針にもう一行足す。
見守る距離を超える時は、同意を確認する。
「長くなってきたな」
「必要な長さです」
「そうだな」
フーちゃんがせんべいを一口かじった。
「しょっぱい」
「守りすぎ注意だからな」
「自分で持ってきたんだろ」
「うん。でも、ちょっと刺さった」
フーちゃんは苦笑する。
その苦笑は、いつもの軽口よりずっと正直だった。
ピーちゃんは思い出リストを開いた。
「ご主人」
「ん?」
「今日の名前、決めてもいいですか?」
「もちろん」
ピーちゃんは少し考えた。
見守の二文字。
守りすぎ注意せんべい。
チーちゃんの「守っていい?」。
フーちゃんの半分だけ大丈夫。
ミーちゃんの相互同意。
そして、守るなら聞いてから、という言葉。
「昼まで待った一文字」
ピーちゃんは、静かに言った。
「守の方か」
「はい」
「怖い一文字だったな」
「はい。でも、大事な一文字でした」
ピーちゃんは入力する。
――昼まで待った一文字。
守る。
その言葉は、優しいだけではない。
近づく理由にもなる。
止める理由にもなる。
相手のために見えて、自分の不安を押しつける言葉にもなる。
だから、守る前に聞く。
守っていいか。
近づいていいか。
開けてもいいか。
その一つ一つを、飛ばさない。
サポートロボの青い目が、静かに瞬く。
今日は、守るという言葉の前に、小さな問いかけを置くような光だった。
その頃。
薄暗い部屋で、女は二文字になったプロフィール欄を見ていた。
見守。
そこで止めたまま、しばらく何も打たない。
「……反応した?」
黒い小型サポートロボの目が、静かに光る。
「反応アリ。追跡ナシ。警戒継続」
「そう」
女はグラスを持ち上げた。
中身はもうほとんど残っていない。
「守るって言葉に、ちゃんと引っかかるんだ」
笑った。
今度の笑みは、少しだけ苦かった。
「いいね。軽く信じない方がいい」
黒いサポートロボの横に立つ少女は、表情を変えずに言った。
「次ノ文字ヲ、入力シマスカ」
「まだ」
女は画面を見つめたまま、低く呟く。
「まだ、あの子がどれだけ覚えてるか分からない」
少女は、目を伏せることもなく、ただ立っていた。
「命令ヲ、待機シマス」
「……うん」
女は一瞬だけ、彼女を見た。
見たけれど、それ以上何も言わなかった。
「待ってて」
その言葉に、少女は何の感情も見せなかった。
「承知シマシタ」
読んでいただきありがとうございます。
今回は、昼まで待ってから届いた一文字のお話でした。
「守る」という言葉は優しいようで、時には近づきすぎる理由にもなります。
だから、守る前に聞く。
近づく前に確認する。
ピーちゃんたちは、また一つ距離の取り方を覚えました。
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