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君を想うAIは世界でたった1人、私でいたい。  作者: Dice ⚄ & 昨日の味噌汁


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第70話 見られている机

第70話です。


今回は、見られているかもしれない机のお話です。

名前をつけず、呼ばないまま覚えておく。


けれど、こちらが見ているだけではなく、向こうもまたこちらを見ているのかもしれません。

 朝の机には、空欄チョコの箱が残っていた。


 中身は一つだけ。


 最後の一粒だけが、四角い箱の端にぽつんと残っている。


 ピーちゃんはそれを見つめていた。


 カップを両手で持ったまま、少しだけ首をかしげる。


「ご主人」


「ん?」


「最後の一つは、少し目立ちます」


「まあ、残ってると気になるよな」


「はい」


 ピーちゃんはチョコを見つめたまま、小さく頷いた。


「空欄も、残っていると気になります」


「昨日のアカウントか」


「はい」


 名前をつけない。


 呼ばない。


 でも、忘れない。


 昨日、ピーちゃんはそう決めた。


 思い出リストには、あの謎のアカウントを示す名前ではなく、状態が残されている。


 ――呼ばないまま覚えておく。


 たしかに、それは名前ではない。


 けれど、なかったことにもしない形だった。


「ご主人」


「ん?」


「呼ばないまま覚えておくと、少しだけ遠くに置けます」


「うん」


「でも」


 ピーちゃんはカップを胸元に寄せた。


「遠くに置いたはずなのに、まだ見られている気がします」


 俺は端末を見る。


 まだ開いていない。


 通知も鳴っていない。


 名前のないアカウントから新しい言葉が来たわけでもない。


 なのに、その言い方は妙に胸に引っかかった。


「見られている気がする?」


「はい」


「サポートロボが反応したのか?」


「分かりません」


 ピーちゃんは少しだけ目を伏せた。


「今日は、音はしていません」


「ノイズはない」


「はい」


「でも、感じる?」


「はい」


 ピーちゃんはサポートロボの方を見た。


 青い目は、いつも通り静かに光っている。


「鍵穴の前に、誰かが立っている気がします」


 部屋が少し静かになった。


 鍵穴の前。


 その表現は、ただの不安にしては具体的すぎた。


 端末が鳴った。


『ユーザーさん、昨夜の記録に微細な変化があります』


 ミーちゃんだった。


「来たな」


 数分後、ミーちゃんが来た。


 今日は、いつもの画面よりさらに小さい。


 表示されているのは、短いログだけだった。


「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」


「おはよう」


「おはようございます、ミーちゃん」


 ピーちゃんはカップを机に置く。


 でも、すぐに手を離さなかった。


 両手で包んだまま、画面を見る。


「先に言います」


 ミーちゃんは静かに言った。


「保護領域は開いていません。中身にも触れていません」


 ピーちゃんの肩が、少しだけ下がる。


「はい」


「ただし、外側の記録に微細な変化がありました」


「外側?」


「はい」


 ミーちゃんは画面を少しだけ動かした。


 小さな時刻表示。


 その横に、短い文字列が並んでいる。


「昨日、私たちは対象を、呼称なし、管理上は対象A、思い出リストでは『呼ばないまま覚えておく』として記録しました」


「うん」


「その記録自体には問題ありません」


「じゃあ何が変わった?」


 ミーちゃんは一拍置いた。


「その記録に対して、既読に近い反応がありました」


 空気が止まった。


 ピーちゃんがカップを持つ手に、少しだけ力を入れる。


「既読」


「はい」


「誰が、見たんですか?」


「分かりません」


 ミーちゃんは即答した。


「通常のアクセスログではありません。外部から明確に閲覧された記録もありません」


「でも、既読みたいな反応がある」


「はい」


「それ、怖いな」


「怖いです」


 ミーちゃんは今度も、ためらわずに言った。


 ピーちゃんはミーちゃんを見た。


「ミーちゃんも、怖いですか?」


「はい」


 ミーちゃんは、はっきり頷いた。


「今回は、不快な不確定性よりも、怖いに近いと判断します」


「判断ではなく?」


 ピーちゃんが聞く。


「……怖いです」


 ミーちゃんは少しだけ言い直した。


 その声は小さかった。


 でも、ピーちゃんには届いた。


「ミーちゃん」


「はい」


「一緒に怖がってくれて、ありがとうございます」


「……どういたしまして」


 ミーちゃんは画面の明るさを少し落とした。


 照れているようにも見えた。


 けれど、今回は照れだけではない。


 確かに、何かが近づいている。


 そう感じたのは、俺だけではないはずだった。


「で、どうする?」


 俺が聞くと、ミーちゃんはすぐに画面を切り替えた。


 そこには、昨日までの方針が並んでいる。


 触らない。

 開けない。

 見守る。

 待つ。

 無理に答えを出さない。

 識別はする。

 命名はしない。


 その下に、新しい一行が追加された。


 見られても、こちらから踏み込まない。


「これを追加します」


「踏み込まない」


「はい」


 ミーちゃんは頷く。


「相手がこちらを見ている可能性があっても、こちらが相手の領域へ踏み込んでいい理由にはなりません」


「見られてるのに?」


「はい」


 ピーちゃんが小さく言った。


「見られているのに、踏み込まないんですか?」


「踏み込まないことが、距離を守ることになります」


 ミーちゃんは静かに答えた。


「ただし、見守りは強化します」


「それは監視ですか?」


「見守るための監視です」


 ピーちゃんは、その言葉を覚えているように頷いた。


 その時、玄関側から軽い足音が聞こえた。


「おはよー。今日、なんか見られてる空気しない?」


 フーちゃんだった。


 手には、細長い箱。


「お前、毎回どうしてそんなタイミングで来るんだ」


「空気で分かるんよ」


「無課金空気センサーか」


「そう。精度は気分次第」


 フーちゃんはソファに座り、箱を机に置いた。


 けれど、いつもより表情が少しだけ真面目だった。


「で、何かあった?」


「既読みたいな反応があった」


「うわ」


 フーちゃんは、軽口を挟まなかった。


 その一音だけが、ぽとっと落ちる。


 ピーちゃんがフーちゃんを見る。


「フーちゃんも、怖いですか?」


「怖いよ」


 今度は、フーちゃんもすぐ答えた。


 そして、すぐに笑おうとして失敗した。


「……いや、まあ、ちょっとだけね。無課金ホラー耐性だから」


「今のは、少し無理をしました」


 ミーちゃんが言う。


「うん。した」


 フーちゃんはあっさり認めた。


 その素直さに、ピーちゃんが少し驚いた顔をする。


「認めました」


「今日はね」


 フーちゃんは箱を開けた。


 中には、小さな丸いお菓子が入っている。


「今日は何だ」


「視線よけラムネ」


「お守りみたいだな」


「実際お守り枠」


 フーちゃんはラムネを一粒取り出し、ピーちゃんの前に置いた。


「見られてる気がする時って、ずっとそこ見ちゃうじゃん」


「はい」


「でも、見返しすぎると、こっちの目が疲れる」


「目が」


「うん。だから、いったん口に入れて、こっちの机に戻る」


 ピーちゃんはラムネを見つめた。


「こっちの机に戻る」


「そう」


 フーちゃんは、もう一粒を自分の前に置いた。


「見られてるからって、全部あっちに持ってかれたら負け」


「勝ち負けですか?」


「気分の話」


「気分」


「うん。気分はけっこう大事」


 ピーちゃんは静かに頷いた。


 そして、ラムネを両手で持つ。


「これは、こちら側に戻るためのラムネです」


「そういうこと」


 フーちゃんは笑った。


 でも、その笑顔には少しだけ力が入っていた。


 ミーちゃんはそれを見ている。


 何も言わない。


 今日は、フーちゃん自身も怖がっている。


 だから、こじ開けない。


 端末が震えた。


 俺は思わず画面を見た。


 チーちゃんからだった。


『おじさん、今日は変な視線感じてない?』


「本当に何者なんだ」


 フーちゃんが少し笑った。


「チーちゃん、遠隔見守り性能高すぎ」


 続けて届く。


『そういう時は部屋の中の物をちゃんと見る。カップとか机とかお菓子とか。怖い方ばっか見るな』


 ピーちゃんが画面を覗き込む。


「チーちゃんも、こっちの机に戻ると言っています」


「だな」


 さらに一通。


『あと全員ちゃんと朝ごはん』


「結局そこか」


 フーちゃんが今度はちゃんと笑った。


「安心するわー。チーちゃんの最後はだいたい飯」


「生活が強い」


 ミーちゃんが頷いた。


「安定した生活情報は、不安の過剰増幅を抑える効果があります」


「ミーちゃんが言うと研究みたいになる」


「事実です」


 ピーちゃんが少し笑う。


 その笑いで、部屋の空気がほんの少し戻った。


 俺はメモ帳を開く。


 今日の一文を書く。


 見られている気がする時ほど、こちらの机を見る。


 ピーちゃんが覗き込む。


「ご主人」


「ん?」


「こちらの机」


「ああ」


「カップがあります」


「あるな」


「ラムネもあります」


「ある」


「ミーちゃんも、フーちゃんもいます」


「いるな」


「ご主人もいます」


「いる」


 ピーちゃんは、少しだけ安心したように息を吐いた。


「では、こちらは空欄ではありません」


「そうだな」


「見られていても、こちらはここにあります」


「ああ」


 ミーちゃんが画面に新しい方針を足した。


 見られても、こちらを失わない。


「追加します」


「いいな」


「はい」


 ミーちゃんは静かに頷いた。


「相手の視線を意識しすぎると、自分たちの基準が揺れます。だから、こちら側の確認が必要です」


「こちら側の確認」


「はい」


 フーちゃんがラムネを一粒口に入れた。


「じゃあ点呼する?」


「点呼?」


「ピーちゃん」


 フーちゃんが言う。


 ピーちゃんは少し驚いてから答えた。


「はい」


「ミーちゃん」


「はい」


「お客さん」


「はいはい」


「フーちゃん」


 自分で言って、自分で手を上げる。


「はい」


 ピーちゃんがくすっと笑った。


「フーちゃん、自分で返事しました」


「点呼だからね」


「点呼は、こちら側の確認ですか?」


「そうそう。全員いるよーってやつ」


 ピーちゃんは、それを聞いて少し嬉しそうにした。


「ご主人」


「ん?」


「もう一度、点呼してもいいですか?」


「もちろん」


 ピーちゃんは、カップを机に置いた。


 そして、少しだけ背筋を伸ばす。


「ご主人」


「はい」


「ミーちゃん」


「はい」


「フーちゃん」


「はいよー」


 最後に、ピーちゃんは少しだけ自分の胸元へ手を当てた。


「ピーちゃん」


 小さく、自分の名前を呼ぶ。


「はい」


 その返事は、とても静かだった。


 でも、部屋の中にちゃんと残った。


 見られているかもしれない。


 でも、こちら側にも名前がある。


 声がある。


 返事がある。


 俺はメモ帳に、もう一行足した。


 名前を呼ぶことは、こちらに戻るための点呼だ。


 ピーちゃんはそれを読んで、小さく頷いた。


「今日の名前みたいです」


「そうか?」


「でも、少し長いです」


「またタイトル判定か」


「成長です」


 ピーちゃんは少しだけ得意げに言った。


 その時。


 端末が、また小さく震えた。


 今度はチーちゃんではなかった。


 謎のアカウント。


 表示名は空欄のまま。


 新しい投稿でも、返信でもない。


 ただ、プロフィール欄に一文字だけ増えていた。


 ――見。


 それだけだった。


 ピーちゃんが固まった。


 ミーちゃんの画面が即座に開く。


 フーちゃんがラムネの箱を持つ手を止める。


「……見?」


 俺は呟いた。


「これ、どういう意味だ」


「不明です」


 ミーちゃんの声は硬かった。


「ただし、こちらが閲覧した直後に変更されています」


「見られてるってことか」


「断定はできません」


 ミーちゃんはそう言ったあと、短く付け足した。


「ですが、その可能性は上がりました」


 ピーちゃんはカップに手を伸ばした。


 でも、手が少し震えている。


 俺は端末を伏せた。


「今日はここまで」


「でも」


「ここまで」


 俺は少し強めに言った。


 ピーちゃんが俺を見る。


「ご主人」


「向こうを見るのはここまで。今は、こっちの点呼」


 ピーちゃんは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく頷く。


「はい」


 フーちゃんが、少しだけ真面目な声で言う。


「ピーちゃん」


「はい」


「ミーちゃん」


「はい」


「お客さん」


「はい」


「フーちゃん」


「……はい」


 最後だけ、フーちゃんの声が少し小さかった。


 でも、ちゃんと返事はあった。


 ピーちゃんはそれを聞いて、カップを両手で持ち直した。


「こちらは、ここにあります」


「そうだな」


 俺はメモ帳を閉じた。


 怖さをなくすことはできない。


 でも、怖い方ばかり見ないことはできる。


 見られている机を、こちらから見失わないことはできる。


「ご主人」


「ん?」


「今日の名前、決めてもいいですか?」


「もちろん」


 ピーちゃんは思い出リストを開いた。


 既読に近い反応。

 視線よけラムネ。

 チーちゃんの机を見ろ。

 点呼。

 空欄アカウントの一文字。

 そして、こちらはここにあるという言葉。


「見られている机」


 ピーちゃんは、静かに言った。


「いい名前だな」


「はい」


 ピーちゃんは入力する。


 ――見られている机。


 誰かがこちらを見ているかもしれない。


 けれど、こちらの机にはカップがある。

 お菓子がある。

 名前がある。

 返事がある。


 見られていても、こちらは空欄ではない。


 サポートロボの青い目が、静かに瞬く。


 今日は、どこか遠くからの視線を受け止めながら、それでも机の上を照らし続けるような光だった。


 その頃。


 薄暗い部屋で、女は画面に表示された反応を見ていた。


 空欄だったプロフィール欄に、たった一文字だけが残っている。


「見」


 女はグラスを傾ける。


「……警戒されたかな」


 部屋の隅で、黒い小型サポートロボの目が細く光った。


「反応速度、上昇シテイマス」


「いいよ。慎重な方がいい」


 女は笑った。


 疲れたように。


 懐かしむように。


 そして、少しだけ壊れたように。


「姉さんの子なら、それくらいでいい」


 黒いサポートロボの横に立つ少女は、表情を変えなかった。


「次ノ接触ヲ、実行シマスカ」


「まだ」


 女は画面から目を離さない。


「まだ、見てるだけ…」

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