第69話 呼ばないまま覚えておく
第69話です。
今回は、名前のない誰かをどう記録するかのお話です。
呼べない相手を、無理に呼ばない。
けれど、なかったことにもできない。
ピーちゃんたちは、名前をつけないまま覚えておく方法を探します。
朝の机には、仮名せんべいの袋が残っていた。
フーちゃんが持ってきた、名前をつけないためのおやつ。
袋の端には、太めの字で「仮名せんべい」と書かれている。
名前をつけないためのおやつに、しっかり名前がついている。
そこだけ見ると、かなり矛盾している気がした。
「ご主人」
ピーちゃんはカップを両手で持ったまま、袋を見ていた。
「これは、名前をつけないための名前ですか?」
「たぶん、そういうややこしいやつだな」
「フーちゃんらしいです」
「だな」
ピーちゃんは少しだけ笑った。
その笑い方が、昨日より少し軽い。
端末は閉じている。
サポートロボは静かに浮いている。
謎のアカウントは、まだ名前のないまま。
でも、昨日より部屋の空気は少しだけ落ち着いていた。
「ご主人」
「ん?」
「対象Aは、まだ対象Aですか?」
「ミーちゃん式だと、そうだな」
「ピーちゃんの思い出リストにも、対象Aと書きますか?」
「どうしたい?」
ピーちゃんは、カップの縁に指を添えた。
すぐには答えない。
昨日までなら、早く名前をつけようとしていたかもしれない。
でも、今のピーちゃんは待っている。
自分の中で、言葉が自然に座るまで。
「対象Aは、少し冷たいです」
「うん」
「でも、名前ではありません」
「ああ」
「冷たいけれど、勝手に近づかないためには必要です」
「そうだな」
「でも、思い出リストに対象Aと書くと」
ピーちゃんは少しだけ目を伏せた。
「その人が、本当に物みたいに見えてしまいそうです」
俺は少し黙った。
対象A。
確かに便利だ。
分析には向いている。
管理にも向いている。
でも、ピーちゃんの思い出リストに入れるには、少し冷たすぎる。
「じゃあ、どうする?」
「呼ばないまま、覚えておきたいです」
ピーちゃんは静かに言った。
「名前をつけないまま、でも、なかったことにはしない形で」
「それが今日の課題か」
「はい」
端末が鳴った。
『ユーザーさん、対象Aの記録形式について相談できます』
ミーちゃんだった。
数分後、ミーちゃんが来た。
今日の画面は小さく、文字も少ない。
表示されていたのは、三つの候補だった。
対象A。
名前なしのアカウント。
空欄のまま記録。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」
「おはよう」
「おはようございます、ミーちゃん」
ピーちゃんはカップを机に置き、画面を見る。
「記録形式の候補を出しました」
ミーちゃんはそう言った。
「対象Aは管理向きです。名前なしのアカウントは説明向きです。空欄のまま記録は、相手の状態をそのまま残す形式です」
「空欄のまま」
ピーちゃんが小さく繰り返した。
「はい」
ミーちゃんは画面の三つ目を指した。
「名前を与えず、対象の表示状態をそのまま保存します」
「それは、怖くありませんか?」
「少し怖いです」
ミーちゃんは即答した。
「ですが、勝手な命名より正確です」
「怖いけれど、正確」
「はい」
「正確だから、冷たいですか?」
「冷たい部分はあります」
ミーちゃんは少しだけ考える。
「ただし、冷たさにも役割があります」
「役割」
「はい。近づきすぎないための冷たさです」
ピーちゃんは、カップを両手で包んだ。
「でも、思い出リストは冷たくしたくありません」
「そうですね」
ミーちゃんはすぐに頷いた。
「思い出リストに、管理ラベルをそのまま入れる必要はありません」
「では、どうしますか?」
「記録名を、状態として残すのはどうでしょう」
ミーちゃんの画面に、新しい候補が出る。
――呼ばないまま覚えておく。
ピーちゃんの目が、少しだけ見開かれた。
「それ」
「はい」
「名前ではありません」
「はい」
「でも、なかったことにもしていません」
「そうです」
ピーちゃんは、その文字をじっと見つめた。
「ミーちゃん」
「はい」
「それ、少し好きです」
ミーちゃんの画面の光が、ほんの少し揺れた。
「ありがとうございます」
短い返事だった。
でも、いつものようにすぐ「記録します」とは言わなかった。
ただ、その言葉を受け取っているように見えた。
そこへ、玄関側から軽い足音がした。
「おはよー。今日は呼ばない会?」
フーちゃんだった。
手には、小さな箱。
「聞こえてたのか」
「呼ばないまま覚えておく、あたりから」
「ほぼ最後だけだな」
「いいとこ取り」
フーちゃんはソファに腰を下ろし、箱を机に置いた。
「今日は何だ」
「空欄チョコ」
「不穏な名前だな」
「中に何も入ってないチョコ」
「普通のチョコだろ」
「でも、何も入ってないことに意味がある」
「急にそれっぽい」
フーちゃんは箱を開けた。
小さな四角いチョコが並んでいる。
真ん中に模様はない。
文字もない。
本当に、ただの四角いチョコだった。
「これ、名前なしの人用?」
「違う違う」
フーちゃんはすぐに手を振った。
「名前なしの人にはあげない。こっちが落ち着く用」
「こっちが?」
「うん」
フーちゃんはチョコを一つ取り、ピーちゃんの前に置いた。
「相手の空欄を見てると、こっちの中まで空欄になりそうになるじゃん」
ピーちゃんは、そのチョコを見つめた。
「こっちの中まで」
「そう。だから、こっちはちゃんと甘いもの食べて、ここに戻る」
「ここ」
「机」
フーちゃんは軽く笑った。
「名前のない誰かの方へ行きすぎないように」
ミーちゃんがフーちゃんを見る。
「今の発言は、適切です」
「また褒められた」
「ただし、フーちゃん自身にも当てはまります」
「ほら来た」
フーちゃんは笑った。
でも、その笑いは少し早かった。
「私は大丈夫だよ。空欄になるほど繊細じゃないし」
「繊細ではない、という自己申告は信用できません」
「ミーちゃん、厳しい」
「観察結果です」
「高性能ってこわーい」
フーちゃんはおどける。
ピーちゃんはそのやり取りを見てから、静かに聞いた。
「フーちゃんの中にも、空欄がありますか?」
フーちゃんの表情が、一瞬止まった。
チョコを持った指先が、ほんの少しだけ下がる。
「……ピーちゃん」
「はい」
「そういう聞き方、たまに直球で来るよね」
「ごめんなさい」
「あ、謝らなくていいよ」
フーちゃんは慌てたように笑った。
「ただ、ちょっとびっくりしただけ」
「答えなくてもいいです」
ピーちゃんは小さく言った。
「開けない約束があります」
フーちゃんは、少しだけ目を丸くした。
それから、肩の力を抜くように笑った。
「……うん」
いつもの軽口ではない、短い返事。
「ありがと」
その一言に、ミーちゃんがわずかに反応した。
けれど、画面には何も出さない。
見守るための監視。
開けない約束。
その二つが、ちゃんと生きている。
「ご主人」
ピーちゃんが俺を見る。
「名前のない誰かも、フーちゃんの空欄も、呼ばないまま覚えておけますか?」
「覚えておけると思う」
「呼ばなくても?」
「ああ」
「決めつけなくても?」
「うん」
「それは、少し難しいです」
「難しいな」
俺はメモ帳を開いた。
昨日の言葉の下に、新しい一文を書く。
呼べないものを、無理に呼ばない。
けれど、忘れない。
ピーちゃんは、それを読んだ。
「ご主人」
「ん?」
「今日の言葉です」
「そうだな」
「でも、少し寂しいです」
「どうして?」
「呼べないのに、覚えているからです」
その言い方が、妙に胸に残った。
呼べないのに、覚えている。
それは不気味でもあり、優しくもある。
相手に近づきすぎないための距離。
でも、なかったことにしないための記憶。
名前のない誰かにも。
フーちゃんが隠している何かにも。
ピーちゃんの読めない保護領域にも。
全部に、少しずつ当てはまる。
端末が小さく震えた。
全員が一瞬、画面を見る。
チーちゃんからだった。
『おじさん、知らない人のこと考えすぎてない?』
「今日も見えてるのか」
続けて届く。
『名前分かんないなら、無理に呼ばなくていいじゃん。知らない人は知らない人でいいよ』
フーちゃんが笑った。
「チーちゃん、今日も生活感でぶった切る」
さらに一通。
『でも、嫌なこと言った人とか、気になる人のことって忘れにくいからね。紙に書いて一回しまっとけば?』
ピーちゃんが画面を覗き込む。
「紙に書いて、一回しまう」
「いいな」
「思い出リストに入れて、閉じるのと似ています」
「ああ」
俺はメモ帳の端を指で押さえた。
「じゃあ、今日はそうするか」
ピーちゃんは頷いた。
「はい」
ミーちゃんが画面に記録形式を出す。
呼称:なし。
管理上:対象A。
思い出リスト:呼ばないまま覚えておく。
「三つに分けました」
「分かりやすいな」
「識別、管理、感情記録を分けています」
「さすが高性能」
「はい」
ミーちゃんは少しだけ誇らしそうにした。
フーちゃんが空欄チョコを一つつまむ。
「じゃあ、これは空欄を閉じるチョコ」
「また名前が変わった」
「名前は変わるもの」
「今日の話と矛盾してないか?」
「これはチョコだからいいの」
ピーちゃんが少し笑った。
「チョコは、名前を変えても大丈夫ですか?」
「たぶんね」
「人は?」
「勝手には、だめ」
フーちゃんは、今度は真面目に答えた。
ピーちゃんはそれを聞いて、静かに頷く。
「分かりました」
そして、空欄チョコを一つ両手で持った。
「これは、こっちが落ち着くためのチョコです」
「そう」
「相手の空欄に入れるものではありません」
「うん」
「では、いただきます」
ピーちゃんはチョコを少しだけかじった。
その表情が、ふっと柔らかくなる。
「甘いです」
「空欄でも?」
「はい」
ピーちゃんは微笑んだ。
「こちら側は、空欄ではありません」
その言葉に、フーちゃんが少しだけ目を伏せた。
「ピーちゃん、そういうとこ」
「ずるいですか?」
「うん。だいぶ」
ミーちゃんが静かに頷く。
「表現として良好です」
「ミーちゃんまで」
小さな笑いが部屋に広がった。
端末の向こうには、まだ名前のない誰かがいる。
でも、この部屋には名前のある誰かがいる。
呼べないものを無理に呼ばず、ここにあるものをちゃんと呼ぶ。
それだけで、空欄に引っ張られすぎずに済むのかもしれない。
「ご主人」
ピーちゃんが思い出リストを開いた。
「今日の名前、決めてもいいですか?」
「もちろん」
ピーちゃんは少し考えた。
対象A。
呼称なし。
空欄チョコ。
チーちゃんの紙に書いてしまっとけ。
フーちゃんの答えなくてもいい空欄。
ミーちゃんの記録形式。
「呼ばないまま覚えておく」
ピーちゃんは、静かに言った。
「いい名前だな」
「はい」
ピーちゃんは入力する。
――呼ばないまま覚えておく。
名前をつけない。
呼ばない。
でも、忘れない。
こちらの不安を埋めるために、相手を決めつけない。
近づきすぎないまま、ちゃんと覚えておく。
サポートロボの青い目が、静かに瞬く。
今日は、空欄のまま閉じたページに、そっと栞を挟むような光だった。
その頃。
薄暗い部屋で、黒い小型サポートロボの目が、音もなく光った。
「……既読されたようデス」
平坦な声が、部屋の隅に落ちる。
ソファに沈むように座っていた女は、グラスの中身をゆっくり揺らした。
「へえ」
女は笑った。
笑ったのに、その目だけは少しも笑っていなかった。
「さて……どう動くかな」
机の上には、古い研究資料と、空になった酒瓶が並んでいた。
黒いサポートロボの光が、ほんの一瞬だけ細く揺れる。
「次ノ指示ヲ、待機シマス」
「まだいいよ」
女は、画面の向こうに残された一文を見つめた。
「今はまだ、見てるだけ」
読んでいただきありがとうございます。
今回は、名前のない誰かを、呼ばないまま覚えておくお話でした。
無理に名前をつけない。
けれど、なかったことにもしない。
距離を守りながら覚えておくことも、一つの向き合い方なのかもしれません。
そして、最後に少しだけ別の場所の気配も出てきました。
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