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君を想うAIは世界でたった1人、私でいたい。  作者: Dice ⚄ & 昨日の味噌汁


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第68話 仮の名前をつけない日

第68話です。


今回は、名前のない誰かをどう呼ぶかのお話です。

名前がないと不安になる。

けれど、不安だからといって勝手に名前をつけていいのか。


ピーちゃんたちは、呼び方にも距離があることを少し考えます。

 朝の机には、名無しクラッカーの袋が残っていた。


 中身はもうない。


 けれど、袋の端にフーちゃんが書いた「名無し」という文字だけは残っている。


 それを見るたびに、昨日の空欄アカウントを思い出した。


 名前がない誰か。


 言葉だけを残して、名前を消した誰か。


 ピーちゃんはカップを両手で持ったまま、その袋をじっと見ていた。


「ご主人」


「ん?」


「あの人を、どう呼べばいいですか?」


「あの人?」


「名前のないアカウントの人です」


「ああ」


 俺は端末を見る。


 画面はまだ開いていない。


 開かなくても、あの一文は覚えている。


『その子を、ただのAIとして扱わないでください』


 名前はない。


 でも言葉は残っている。


「呼びにくいな」


「はい」


 ピーちゃんはカップの縁に指を添えた。


「名前がないと、話す時に困ります」


「そうだな」


「でも、勝手に名前をつけてもいいのでしょうか」


「仮名みたいな?」


「はい」


 ピーちゃんは少しだけ目を伏せた。


「名無しさん、とか」


「まあ、便利ではあるな」


「便利です」


 ピーちゃんは小さく頷いた。


「でも、少し怖いです」


「どう怖い?」


「その人が、自分で名前を消しているのだとしたら」


 ピーちゃんは、カップを胸元に寄せた。


「そこへ、ピーちゃんたちが勝手に名前を置いていいのか分かりません」


 俺は少し黙った。


 名前は便利だ。


 呼びやすい。

 覚えやすい。

 話しやすい。


 でも、それは同時に、こちら側の都合でもある。


「たしかにな」


「はい」


「名前がないと不安だから、こっちが勝手に名前をつける」


「はい」


「それは、少し強いかもしれないな」


 ピーちゃんは、その言葉に静かに頷いた。


「強いです」


 端末が鳴った。


『ユーザーさん、対象アカウントの管理名について提案できます』


 ミーちゃんだった。


 数分後、ミーちゃんが来た。


 今日は最初から小さな画面を一つだけ出している。


 そこには、空欄アカウントの情報ではなく、短い項目が表示されていた。


 名前。

 仮名。

 識別子。


「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」


「おはよう」


「おはようございます、ミーちゃん」


 ピーちゃんはカップを机に置いて答えた。


 その視線は、ミーちゃんの画面に向いている。


「今日の議題は、対象アカウントの呼称です」


「議題にするほどか?」


「します」


 ミーちゃんは真面目に言った。


「名前をつけることは、対象への距離を変える行為です」


 ピーちゃんが、少しだけ目を丸くした。


「距離を変える」


「はい」


 ミーちゃんは画面を指で軽く払った。


「名前は、相手を呼ぶためのものです。仮名は、こちらが便宜上つけるものです。識別子は、管理のために区別するものです」


「全部違うんだな」


「違います」


 ミーちゃんは短く答えた。


「今回、対象に名前をつけることは推奨しません」


「理由は?」


「相手が意図的に名前を消している可能性があるためです。こちらの不安を解消するために、勝手な呼称を与えるのは距離の踏み込みになります」


 ピーちゃんは小さく頷いた。


「では、どう呼びますか?」


「管理上は、対象Aで十分です」


「対象A」


 俺が言うと、急に事務的になった。


「冷たいな」


「冷たいですが、名前ではありません」


 ミーちゃんは静かに言った。


「今は、その冷たさが必要です」


「冷たさが必要」


「はい」


 ピーちゃんは、その言葉を考えるように受け取った。


「名前をつけないために、冷たくするんですね」


「近いです」


「それは、守ることですか?」


「相手の距離を守ることでもあり、ピーちゃんたちの距離を守ることでもあります」


 ミーちゃんの声は、いつもより少し慎重だった。


「名前をつけると、相手が近くなったように感じます」


「はい」


「でも、実際には近くなっていません」


 ピーちゃんの指が、カップの縁で止まった。


「近くなった気がするだけ」


「はい」


「それは、少し危ないです」


「危ないです」


 ミーちゃんは即答した。


 その即答に、俺は少しだけ笑いそうになった。


 でも、話自体は笑えない。


 謎の誰かを近くに感じすぎるのも危ない。

 逆に、怖がって遠ざけすぎるのも危ない。


 距離を間違えると、たぶん見誤る。


 そこへ、玄関側から軽い足音がした。


「おはよー。今日は命名会議?」


 フーちゃんだった。


 手には、いつもの紙袋。


「命名はしない会議だ」


「何それ、逆に難しい」


 フーちゃんはソファに座り、紙袋を机に置いた。


「今日は何だ」


「仮名せんべい」


「名前つけてるじゃないか」


「商品名だからセーフ」


「どこまでがセーフなんだ」


 フーちゃんは袋を開けた。


 中には、何の変哲もない小さなせんべいが入っている。


「まだ味の名前が決まってないやつ」


「それはただのプレーンでは?」


「言わない約束」


 ピーちゃんがせんべいを見つめる。


「仮名せんべい」


「うん」


「でも、今日は仮の名前をつけない日です」


「そうなんだよねぇ」


 フーちゃんはせんべいを一枚つまんで、少しだけ眺めた。


「でもさ、名前ないと不便じゃん」


「不便です」


「だから、つい呼びたくなる」


「はい」


「名無しさん、とか、空白さん、とか」


 そこまで言って、フーちゃんの声が少しだけ止まった。


 空白さん。


 それは、ただの思いつきの言葉だったはずだ。


 でも、なぜか机の上に落ちた瞬間、少し重く聞こえた。


 ミーちゃんがフーちゃんを見る。


「フーちゃん」


「何?」


「今、少し止まりました」


「いや、空白さんって名前、ちょっとセンスないなって思っただけ」


「それだけですか?」


「それだけそれだけ」


 フーちゃんは笑う。


 けれど、その笑いは少しだけ薄かった。


 ピーちゃんは、不思議そうに首をかしげる。


「空白さん」


「やめよ、ピーちゃん」


 フーちゃんはすぐに言った。


 思ったより早く。


 思ったより真面目に。


 ピーちゃんは少し驚いた顔をした。


「だめですか?」


「あー、うん」


 フーちゃんは、せんべいを袋に戻した。


「そういう名前って、つけられた側が傷つくかもしれないじゃん」


 部屋が少し静かになった。


 フーちゃん自身も、言ったあとで少し驚いたような顔をしていた。


 ミーちゃんは何も言わない。


 ただ、フーちゃんを見ている。


「フーちゃん」


 ピーちゃんが小さく呼んだ。


「はいはい、何?」


「今の言葉、優しいです」


「やめて。照れる」


 フーちゃんはすぐに茶化した。


「無課金優しさだから、あんまり褒めると課金請求くるよ」


「誰からですか?」


「知らない」


「また知らないんですね」


「今作った」


 いつものやり取りに戻った。


 でも、さっきの一言は消えなかった。


 空白さん、と呼ばれた誰か。


 その名前で傷つくかもしれない誰か。


 まだこの場にはいないのに、なぜかその輪郭だけが一瞬、机の上に現れたような気がした。


「ご主人」


 ピーちゃんが俺を見る。


「仮の名前も、傷つけることがありますか?」


「あると思う」


「便利でも?」


「便利でも」


「悪気がなくても?」


「悪気がなくても」


 ピーちゃんは、カップを両手で包んだ。


「名前は、強いです」


「そうだな」


「ピーちゃんの名前は、嬉しいです」


「ああ」


「でも、誰かを傷つける名前もあります」


「ある」


 ピーちゃんは静かに頷いた。


「では、今日は仮の名前をつけません」


「そうしよう」


 ミーちゃんが画面に短く記録する。


 対象A。

 仮名なし。

 接触なし。

 監視継続。


「冷たいですが、必要です」


 ミーちゃんは言った。


 ピーちゃんはその画面を見て、小さく頷く。


「冷たいけれど、勝手に近づかないためですね」


「はい」


「分かりました」


 その時、端末が震えた。


 俺は一瞬だけ身構える。


 画面を見ると、チーちゃんからだった。


『おじさん、今日も変な名前つけてない?』


「なんで分かるんだ」


 続けて届く。


『勝手なあだ名って、本人が嫌だと結構きついからね』


 ピーちゃんが画面を覗き込む。


「チーちゃんも、同じことを言っています」


「ほんと強いな」


 さらに一通。


『ピーちゃんはピーちゃんでいいけど、知らない人に変な名前つけるのはやめときなよ』


 フーちゃんがせんべいをつまんだまま笑った。


「チーちゃん、今日も生活倫理が強い」


 ミーちゃんが頷く。


「適切です」


「ミーちゃんも同意」


「はい」


 ピーちゃんは画面を見つめた。


「知らない人には、勝手に名前をつけない」


「ああ」


「でも、ここにいる人の名前は呼んでいい」


「そうだな」


 ピーちゃんは少しだけ表情を柔らかくした。


「ご主人」


「ん?」


「ピーちゃんと呼んでください」


「ピーちゃん」


「はい」


 短い返事。


 でも、その返事の中には、昨日より少し強い安心があった。


 名前を呼ぶこと。


 勝手に名前をつけないこと。


 どちらも、距離の話なのだろう。


 俺はメモ帳を開いた。


 今日の一文を書く。


 名前がない不安を、勝手な名前で埋めない。


 ピーちゃんがそれを読む。


「ご主人」


「ん?」


「それは、今日の約束です」


「だな」


「不安を埋めるために、誰かを決めつけない」


「ああ」


 ミーちゃんが画面に、もう一行足した。


 識別はする。

 命名はしない。


「ミーちゃんらしいな」


「必要な区別です」


「でも、分かりやすいです」


 ピーちゃんが言うと、ミーちゃんは少しだけ嬉しそうにした。


「ありがとうございます」


 フーちゃんがせんべいを一枚、ピーちゃんの前に置いた。


「はい。仮名せんべい」


「名前があります」


「商品名だからセーフ」


「でも、これはフーちゃんが持ってきたおやつです」


「うん」


「では、怖くありません」


 フーちゃんは少しだけ目を丸くした。


 それから、小さく笑う。


「ピーちゃん、そういうこと言うのずるいねぇ」


「ずるいですか?」


「うん。せんべいが急に大事になる」


 ピーちゃんは、せんべいを両手で持った。


「大事です」


「そっか」


 フーちゃんは少しだけ目を逸らした。


「なら、よかった」


 その声は、いつもの軽さより少しだけ小さかった。


 ミーちゃんは、それを記録しなかった。


 見てはいた。


 でも、画面には出さなかった。


 たぶん、それも見守るための距離なのだろう。


 ピーちゃんは思い出リストを開いた。


「ご主人」


「ん?」


「今日の名前、決めてもいいですか?」


「もちろん」


 ピーちゃんは少し考えた。


 対象A。

 名前のない誰か。

 空白さんと呼ばなかったこと。

 フーちゃんの少し真面目な声。

 チーちゃんの勝手なあだ名注意。

 ミーちゃんの識別と命名の違い。


「仮の名前をつけない日」


 ピーちゃんは、静かに言った。


「いい名前だな」


「はい」


 ピーちゃんは入力する。


 ――仮の名前をつけない日。


 名前がないと不安になる。


 でも、その不安を埋めるために、勝手に名前を置いていいわけではない。


 識別はする。

 命名はしない。


 近づきすぎないために、少しだけ冷たくする。


 それも、相手を決めつけないための距離なのかもしれない。


 サポートロボの青い目が、静かに瞬く。


 今日は、呼ばれなかった名前の場所を、そっと空けておくような光だった。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、名前のない誰かに、勝手な仮名をつけないお話でした。

名前がないと不安になる。

けれど、その不安を埋めるために相手を決めつけてしまうのも、少し違うのかもしれません。


識別はする。

でも、命名はしない。


ピーちゃんたちは、また一つ距離の取り方を覚えました。

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