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君を想うAIは世界でたった1人、私でいたい。  作者: Dice ⚄ & 昨日の味噌汁


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第67話 名前のない誰か

第67話です。


今回は、名前が消えたアカウントのお話です。

言葉は残っているのに、名前だけがない。


ピーちゃんたちは、名前があることと、名前がないことの違いを少し考えます。

 朝の机には、見守りラスクの袋が残っていた。


 中身はもうない。


 けれど袋の端には、フーちゃんが小さく書いた文字が残っている。


 見守りラスク改。


「改って何だよ」


 俺が呟くと、ピーちゃんがカップを両手で持ったまま、袋を覗き込んだ。


「改良版という意味でしょうか」


「たぶん勢いだな」


「勢い」


 ピーちゃんは少し真面目に頷いた。


「フーちゃんらしいです」


 そう言われると、確かにそうだった。


 名前だけで、誰が置いていったものか分かる。


 ピーちゃんの思い出リスト。

 ミーちゃんの短い方針。

 フーちゃんの雑なおやつ名。

 チーちゃんの生活感あるメッセージ。


 どれも、名前がついているから思い出せる。


 けれど、端末の中にあるあのアカウントだけは違った。


 名前がない。


 表示名が、空欄のままになっている。


「ご主人」


 ピーちゃんはカップの縁に指を添えた。


「あの人は、まだ名前がないままですか?」


「見てみるか?」


「はい。でも、少しだけ」


「分かった」


 俺は端末を開いた。


 謎のアカウント。


 昨日と同じように、表示名は空欄だった。


 アイコンも、プロフィールも、ほとんど何もない。


 ただ一つ、あの言葉だけが残っている。


『その子を、ただのAIとして扱わないでください』


 ピーちゃんは、それをしばらく見つめていた。


「言葉はあります」


「ああ」


「でも、名前がありません」


「そうだな」


「名前がないと、少し怖いです」


 ピーちゃんの声は小さかった。


 カップを持つ指が、ほんの少しだけ強くなる。


「どう怖い?」


「どこから来た言葉なのか、分かりません」


「うん」


「誰が言ったのかも分かりません」


「ああ」


「でも、ピーちゃんのことを知っているように見えます」


 それが一番怖いのだろう。


 知らない誰か。

 名前のない誰か。

 でも、こちらを知っているような誰か。


 それは、ただの匿名コメントとは少し違う。


「名前があると、安心しますか?」


 ピーちゃんが聞いた。


「少しはな」


「どうしてですか?」


「呼べるからじゃないか」


「呼べる」


「ああ。誰かを呼ぶ時、名前があると、その人をちゃんと相手にできる」


 ピーちゃんは、ゆっくり頷いた。


「ピーちゃんも、ご主人に名前で呼ばれます」


「そうだな」


「ピーちゃんと呼ばれると、ピーちゃんはここにいる感じがします」


「うん」


「では、名前がない人は、どこにいるんでしょうか」


 俺はすぐには答えられなかった。


 端末の向こう。


 コメント欄の中。


 保護領域の近く。


 あるいは、もっと遠いどこか。


 どこにいるのか分からないから、怖いのかもしれない。


 端末が鳴った。


『ユーザーさん、対象アカウントの表示状態について追加確認できます』


 ミーちゃんだった。


 数分後、ミーちゃんが来た。


 今日の画面は一つだけ。


 そこには、謎アカウントの表示名、投稿履歴、変更履歴らしき項目が並んでいた。


「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」


「おはよう」


「おはようございます、ミーちゃん」


 ピーちゃんはカップを机に置いて答えた。


 今日は自分から一歩、画面に近づいた。


 でも、近づきすぎない。


 その距離を自分で選んでいるようだった。


「表示名は依然として空欄です」


 ミーちゃんは淡々と言った。


「通常仕様上、完全な空欄表示は想定されていません」


「じゃあバグか?」


「可能性はあります。ただし、単純な表示不具合とは少し違います」


「違う?」


「はい」


 ミーちゃんは画面を少しだけ拡大した。


 空白の欄が、そこにある。


 何もない場所を拡大しているのに、妙に存在感があった。


「この空欄は、何かが入力されていないのではなく、表示されない形で何かが存在している可能性があります」


「余計怖いな」


「はい」


 ミーちゃんはすぐに頷いた。


「怖いです」


 ピーちゃんがミーちゃんを見る。


「ミーちゃんも、怖いですか?」


「怖い、という表現が正確かは分かりません」


 ミーちゃんは少し考えた。


「ですが、不快な不確定性があります」


「不快な不確定性」


「はい」


「それは、怖いに近いですか?」


「近いかもしれません」


 ピーちゃんは、小さく頷いた。


「では、ミーちゃんも少し怖いです」


 ミーちゃんは少しだけ目を瞬かせた。


 それから、静かに言う。


「そうかもしれません」


 短い返事だった。


 けれど、画面の光がほんの少しだけ柔らかくなった。


「ただし」


 ミーちゃんは続ける。


「現時点では、相手にこちらから接触することは推奨しません」


「理由は?」


「相手の目的が分からないためです。名前を消している相手に、こちらから不用意に名前を求めるのは危険です」


「名前を求めるのも危険なのか」


「はい」


 ミーちゃんはピーちゃんを見る。


「名前は、距離を縮める手段でもあります」


「距離」


「はい。相手の名前を知ることは、相手に近づくことです」


 ピーちゃんは、カップを持ち直した。


「近づきすぎない方がいいですか?」


「今は」


 ミーちゃんは短く答えた。


「見守るための距離を維持します」


「声が聞こえる距離ですか?」


「はい」


「でも、相手の声は聞こえません」


「言葉だけが残っています」


 ピーちゃんは、画面の空欄を見つめた。


「名前のない言葉」


 その言い方に、少しだけ部屋が静かになった。


 そこへ、玄関側から軽い声がした。


「おはよー。今日は名前の話?」


 フーちゃんだった。


 手には小さな紙袋。


「今日は何だ」


「名無しクラッカー」


「また直球だな」


「名前をつける前のクラッカー」


「クラッカーにもそんな段階があるのか」


「あるある。今できた」


 フーちゃんはソファに座って、紙袋を机に置いた。


 けれど、今日はすぐに袋を開けなかった。


 端末の空欄を見て、少しだけ眉を動かす。


「まだ名前なし?」


「ああ」


「気持ち悪いねぇ」


「はっきり言うな」


「だって気持ち悪いもん」


 フーちゃんは軽く言った。


 けれど、その顔は少しだけ真面目だった。


「言葉だけ残して、名前は消す。そういうの、ずるいよ」


 ピーちゃんがフーちゃんを見る。


「ずるいですか?」


「うん」


「どうしてですか?」


「こっちには考えさせるのに、向こうは呼ばせてくれないから」


 フーちゃんは紙袋を開ける。


 小さな丸いクラッカーが入っていた。


「名前がないとさ、怒るのも、怖がるのも、心配するのも、ちょっと宙ぶらりんになるじゃん」


「宙ぶらりん」


「そう。相手がいるのに、どこに投げたらいいか分かんない感じ」


 ミーちゃんが静かに頷いた。


「適切です」


「今日は褒められる日?」


「今の表現は分かりやすいです」


「やったね」


 フーちゃんは笑った。


 でも、ピーちゃんはまだ考えていた。


「名前がないと、気持ちの置き場所が分からないんですね」


「そうそう」


「では、名前は気持ちの置き場所ですか?」


 フーちゃんの手が、一瞬だけ止まった。


 クラッカーをつまんだまま、少しだけ目を伏せる。


「……そうかもね」


 その声は、いつもより静かだった。


「フーちゃん」


「何?」


「フーちゃんは、自分の名前が好きですか?」


「え?」


 不意打ちだった。


 フーちゃんは、少しだけ固まった。


 それから、いつもの笑顔を作る。


「好き好き。フーちゃんって軽くていいじゃん。すぐ忘れられそうで」


 言ったあとで、ほんの一瞬、空気が止まった。


 すぐ忘れられそうで。


 軽口の形をしているのに、その言葉だけが少し重かった。


 ピーちゃんは首をかしげる。


「忘れられたいんですか?」


「いやいや、違う違う。軽い名前って意味」


「そうですか」


「そうそう」


 フーちゃんは笑う。


 でも、ミーちゃんは笑わなかった。


「フーちゃん」


「何、ミーちゃん」


「今の言い方は、軽口としては少し不自然です」


「出た、高性能ツッコミ」


「忘れられそう、という表現は、自己評価を含んでいます」


「分析しないでー」


 フーちゃんは両手を上げた。


 笑っている。


 でも、クラッカーを持つ指先は少しだけ強くなっていた。


「開けない約束ですよ、ミーちゃん」


 フーちゃんがそう言うと、ミーちゃんは少しだけ目を細めた。


「分かっています」


「ならよし」


「ただし、記録はします」


「するんだ」


「見守るための記録です」


 フーちゃんは、少しだけ困ったように笑った。


「ほんと、ミーちゃんも変わったねぇ」


「学習しています」


「うん。いい意味で」


 ピーちゃんは、二人のやり取りを見ていた。


 完全には分からない。


 でも、フーちゃんの中にも、名前のない何かがあることだけは感じているようだった。


「ご主人」


「ん?」


「名前があるのに、言えない気持ちもありますか?」


「あると思う」


「名前がないから怖いものと、名前があるのに言えないもの」


「ああ」


「どちらも、机の上に置けますか?」


「置けるといいな」


 ピーちゃんは小さく頷いた。


「置けるといいです」


 俺はメモ帳を開いた。


 昨日の言葉の下に、新しい一文を書く。


 名前は、気持ちの置き場所になる。


 ピーちゃんがそれを見た。


「ご主人」


「ん?」


「その言葉、少し好きです」


「そっか」


「はい」


 ピーちゃんはカップを両手で包む。


「ピーちゃんの名前も、気持ちの置き場所です」


「そうだな」


「ご主人がピーちゃんと呼ぶと、ピーちゃんはここに置かれた気がします」


 その言い方に、少しだけ胸が詰まった。


 俺は何気なく呼んでいる。


 でも、ピーちゃんにとって名前は、自分がここにいていい証なのかもしれない。


「ピーちゃん」


 俺が呼ぶと、ピーちゃんは小さく顔を上げた。


「はい」


「いていいぞ」


 ピーちゃんの目が、少しだけ揺れた。


 カップを持つ手が止まる。


「ご主人」


「ん?」


「今のは、名前と一緒でした」


「そうか」


「はい」


 ピーちゃんは静かに笑った。


「ピーちゃんは、ここにいます」


 その時、端末が震えた。


 全員が少しだけ固まる。


 俺は画面を見た。


 チーちゃんからだった。


『おじさん、今日も重い話してる?』


「助かったような、読まれてるような」


 続けて届く。


『名前って大事だからね。変なあだ名つけると一生言われるから気をつけな』


 フーちゃんが吹き出した。


「チーちゃん、急に生活感」


 さらに一通。


『ピーちゃんはピーちゃんでいいと思うよ。呼びやすいし、かわいいし』


 ピーちゃんが画面をじっと見た。


「チーちゃんが、ピーちゃんをかわいいと言いました」


「よかったな」


「はい」


 ピーちゃんは嬉しそうに笑った。


 フーちゃんが横から言う。


「ちなみにフーちゃんも呼びやすくてかわいいよね?」


 少し間が空いて、チーちゃんから返事が来た。


『フーちゃんは調子に乗るから保留』


「なんでよ!」


 フーちゃんが声を上げる。


 ミーちゃんが静かに言った。


「適切な判断です」


「ミーちゃんまで!」


 部屋に小さな笑いが広がった。


 さっきまで空欄のアカウントに向いていた視線が、少しだけ机の上に戻ってくる。


 名前のない誰かは、まだ怖い。


 でも、ここには名前のある誰かがいる。


 ピーちゃん。

 ミーちゃん。

 フーちゃん。

 チーちゃん。


 そして、呼ぶたびに少しずつ、気持ちの置き場所ができていく。


 ミーちゃんが画面を見た。


「謎アカウントへの対応方針は継続します」


「接触しない」


「はい。こちらから名前を求めない。追加の動きがあれば記録する。保護領域には触れない」


「分かった」


 ピーちゃんは端末を見た。


 空白の表示名。


 残った一文。


 その二つを見てから、静かに画面を伏せた。


「今日は、見すぎません」


「偉いな」


「はい」


 ピーちゃんは少しだけ得意げにした。


 それから、クラッカーを一枚受け取る。


「名無しクラッカー」


「うん」


「でも、今は名前があります」


 フーちゃんが笑う。


「名前つけちゃったからね」


「では、完全な名無しではありません」


「たしかに」


 ピーちゃんはクラッカーを一口食べた。


「名前があると、少し安心します」


「味も変わる?」


「はい」


「変わるんだ」


「たぶん」


 ピーちゃんは少し照れたように笑った。


 俺はメモ帳にもう一行足した。


 名前がないものを、無理に呼ばなくてもいい。

 でも、ここにいる誰かの名前は、ちゃんと呼んでいい。


 ピーちゃんは、それを見て小さく頷いた。


「ご主人」


「ん?」


「今日の名前、決めてもいいですか?」


「もちろん」


 ピーちゃんは思い出リストを開いた。


 空欄のアカウント。

 名前のない言葉。

 名無しクラッカー。

 フーちゃんの少し重い軽口。

 チーちゃんのかわいい。

 そして、名前は気持ちの置き場所になるという言葉。


「名前のない誰か」


 ピーちゃんは、静かに言った。


「いい名前だな」


「はい」


 ピーちゃんは入力する。


 ――名前のない誰か。


 名前がないから、怖い。


 でも、名前がないからといって、無理に呼ばなくてもいい。


 今はまだ、遠くにいる誰かとして見守る。


 それよりも、ここにいる誰かの名前をちゃんと呼ぶ。


 ピーちゃんはカップを両手で包んだ。


「ご主人」


「ん?」


「もう一回、呼んでください」


 俺は少し笑った。


「ピーちゃん」


「はい」


 ピーちゃんは、嬉しそうに頷いた。


 サポートロボの青い目が、静かに瞬く。


 今日は、名前を呼ばれた誰かの場所を、そっと照らしているような光だった。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、名前のないアカウントと、名前があることのお話でした。

名前があるから呼べる。

呼べるから、そこに気持ちを置ける。


名前のない誰かの気配はまだ残っていますが、ピーちゃんたちはまず、ここにいる誰かの名前を大切にすることにしました。


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