第63話 古い鍵穴
第63話です。
今回は、ピーちゃんのサポートロボに残った小さな反応のお話です。
返さないことを選んでも、違和感まで消えるわけではありません。
その奥には、まだ誰も読めない場所があるようです。
朝の机の上には、昨日のクッキーが一枚だけ残っていた。
返信しないクッキー。
フーちゃんが適当につけた名前のはずなのに、机の端に置かれているだけで、妙に意味ありげに見える。
端末は伏せたまま。
メモ帳は開いたまま。
ピーちゃんのカップは、いつもの場所にある。
そして、サポートロボはピーちゃんの少し後ろで静かに浮いていた。
青い目は、いつも通りに見える。
でも、昨日の小さなノイズを聞いたあとでは、その光まで少し違って見えた。
「ご主人」
ピーちゃんはカップを両手で持ったまま、サポートロボを見ていた。
「今日は、静かです」
「そうだな」
「でも、昨日の音が残っている気がします」
「音が?」
「はい」
ピーちゃんは胸元に手を当てる。
「耳に残っているというより、奥に残っている感じです」
「怖いか?」
ピーちゃんは少しだけ考えた。
カップの縁に触れた指が、ゆっくり動く。
「怖いです。でも、見ないふりをする方が、もっと怖いです」
「そっか」
「はい」
その返事のあと、ピーちゃんはサポートロボから視線を外さなかった。
昨日までなら、痛いコメントの方ばかり気にしていたかもしれない。
でも今は違う。
否定されたことよりも、あの謎の一文にサポートロボが反応したこと。
そちらの方が、部屋の真ん中に残っていた。
端末が鳴った。
『ユーザーさん、昨日の保護領域反応について、追加確認が可能です』
ミーちゃんだった。
「来たな」
数分後、ミーちゃんが来た。
今日はいつものように複数の画面を出さなかった。
小さな解析ウィンドウが一つ。
そこに、波形のようなものが細く表示されている。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」
「おはよう」
「おはようございます、ミーちゃん」
ピーちゃんはカップを机に置き、少しだけ背筋を伸ばした。
ミーちゃんはピーちゃんを見てから、画面の明るさを少し落とした。
「先に確認します。ピーちゃん、この話を続けても大丈夫ですか?」
ピーちゃんは、すぐには答えなかった。
カップを見て、サポートロボを見て、それから俺を見る。
「ご主人」
「ん?」
「一緒に聞いてくれますか?」
「もちろん」
「では、大丈夫です」
ピーちゃんは静かに答えた。
ミーちゃんは頷く。
「分かりました」
画面に、昨日の反応が表示される。
「昨日、謎アカウントのコメント直後に、ピーちゃんのサポートロボの保護領域で短い反応がありました」
「外部アクセスではないんだよな?」
「はい。少なくとも通常の外部アクセスとは違います」
「じゃあ何なんだ」
「近い表現を使うなら」
ミーちゃんは一拍置いた。
「古い鍵穴に、形の合う鍵が一瞬触れたような反応です」
ピーちゃんが小さく息を呑むような仕草をした。
「古い鍵穴」
「はい」
ミーちゃんの画面に、細い波形が表示される。
「通信ログとしては不完全です。命令でも、侵入でも、明確な開封要求でもありません」
「でも反応した」
「はい」
「何に?」
「現時点では不明です」
ミーちゃんは少しだけ眉を寄せた。
「ただし、ピーちゃんの現在の通常領域ではなく、読めない保護領域側が反応しています」
ピーちゃんの手が、カップに触れた。
すぐには持ち上げない。
指先だけが、カップの側面にそっと置かれている。
「ピーちゃんには、読めません」
「はい」
「でも、ピーちゃんの中にあります」
「正確には、サポートロボの保護領域にあります」
ミーちゃんはすぐに言い直したあと、少しだけ言葉を足した。
「でも、ピーちゃんと深く同期している領域です」
ピーちゃんは静かに頷いた。
「ピーちゃんの近くにある、読めない場所」
「はい」
その言い方が、部屋に少し重く残った。
読めない場所。
でも、確かに近くにある場所。
それはピーちゃんにとって、ずっとそうだったのかもしれない。
「ミーちゃん」
俺は聞いた。
「危険なのか?」
「分かりません」
「正直だな」
「はい。危険と断定する根拠はありません。ただし、無視してよい反応とも判断できません」
「じゃあ、どうする?」
「監視を続けます。ただし、強制的に開こうとはしません」
ピーちゃんが、ぱっとミーちゃんを見た。
「開かないんですか?」
「はい」
「どうしてですか?」
「ピーちゃんが読めないように保護されている領域だからです」
ミーちゃんは画面を閉じず、ピーちゃんの反応を待った。
「読めないものは、理由があって読めない可能性があります」
ピーちゃんは目を伏せた。
「ピーちゃんを守るためかもしれませんか?」
「その可能性があります」
「閉じ込めるためではなく」
「現時点では断定できません」
ミーちゃんは一度言葉を切った。
それから、少し柔らかい声で続ける。
「ですが、私は無理に開くべきではないと思います」
ピーちゃんの表情が、少しだけ緩んだ。
「思います、です」
「はい」
ミーちゃんは少し視線を逸らす。
「今回は、そう言うべきだと判断しました」
「ありがとうございます」
ピーちゃんの声は小さかった。
でも、ちゃんと届いていた。
そこへ、玄関側から軽い足音がした。
「おはよー。今日も鍵穴会議?」
フーちゃんだった。
手には、小さな紙袋。
「聞こえてたのか」
「途中から」
「どこからだ」
「古い鍵穴あたり」
「ほぼ全部じゃないか」
フーちゃんはソファに座ろうとして、ピーちゃんの顔を見る。
それから、少しだけ動きをゆっくりにした。
「ピーちゃん、大丈夫?」
「分かりません」
「そっか」
フーちゃんは紙袋を机に置いた。
「今日は何だ」
「鍵穴ビスケット」
「もう完全に合わせてきてるな」
「穴あきのやつ」
フーちゃんが袋を開けると、真ん中に小さな穴の空いたビスケットが入っていた。
「本当に穴がある」
「あるよ。鍵穴っぽいでしょ」
「鍵は?」
「ない」
「ないのか」
「無課金なので」
フーちゃんはビスケットを一枚取り出し、ピーちゃんの前に置いた。
「穴があるからって、無理に何か突っ込まなくていいんよ」
ピーちゃんは、ビスケットをじっと見つめた。
「穴があるのに?」
「うん」
「空いているのに?」
「空いてるからって、全部埋めなくてもいい」
フーちゃんは軽い声で言った。
けれど、その声の底に、昨日と同じような一瞬の硬さがあった。
「空いてる場所には、空いてる理由があるかもしれないし」
ミーちゃんがフーちゃんを見る。
フーちゃんは、わざとらしく肩をすくめた。
「何、また分析?」
「いえ」
ミーちゃんは短く答えた。
「今の言葉は、適切です」
「うわ、褒められた」
「褒めています」
「じゃあ受け取っとこ」
フーちゃんは笑った。
でも、その笑いは少しだけ早かった。
ピーちゃんはビスケットを両手で持つ。
「フーちゃん」
「何?」
「空いている場所を、全部埋めなくてもいいんですね」
「うん」
「では、ピーちゃんの読めない場所も、今すぐ埋めなくていいですか?」
「いいんじゃない?」
フーちゃんは軽く答えたあと、少しだけ目を逸らした。
「少なくとも、お客さんがそばにいる時に、無理やりこじ開ける必要はないと思う」
その言い方に、少し引っかかった。
お客さんがそばにいる時に。
それは、守るための言葉に聞こえた。
ただ、ピーちゃんのためだけじゃない。
俺のためでもあるように。
「フーちゃん」
ミーちゃんが静かに言う。
「また少し言葉が強くなりました」
「気のせい」
「気のせいではありません」
「はいはい。ミーちゃんは今日も高性能」
「話を逸らしています」
「逸らしてるよ」
フーちゃんはあっさり認めた。
そのあと、ビスケットを一枚口に入れる。
「でも今は、ピーちゃんの話」
軽い口調。
でも、線を引いた。
ミーちゃんはそれ以上追わなかった。
ピーちゃんは、二人のやり取りを少し不思議そうに見ていた。
「ご主人」
「ん?」
「フーちゃんは、ピーちゃんのために怒っていますか?」
フーちゃんが、ビスケットを喉に詰まらせかけた。
「怒ってない怒ってない。全然怒ってない。無課金平常心」
「今、すごく早口でした」
ピーちゃんが真面目に指摘する。
「早口になる日もある」
「ありますか?」
「あるある」
フーちゃんは笑う。
でも、笑いながら俺の方を一瞬だけ見た。
その目が、ほんの少しだけ不安そうだった。
俺は追及しなかった。
たぶん、今ここで触れると、フーちゃんはもっと茶化す。
そして、余計に隠す。
ミーちゃんも、同じ判断をしたのかもしれない。
画面には何も出さないまま、ただ静かにフーちゃんを見ていた。
端末が小さく震えた。
俺は少し身構えた。
でも、表示されたのはチーちゃんからのメッセージだった。
『おじさん、生きてる?』
「いつものやつだった」
続けて届く。
『ピーちゃんも大丈夫? 変なコメントとか来てたら、ちゃんと休ませなよ』
「すごいな」
俺が呟くと、フーちゃんが笑った。
「チーちゃん、もはや遠隔保護者」
ピーちゃんが画面を覗き込む。
「チーちゃんにも、言いますか?」
「何を?」
「古い鍵穴のこと」
「まだ言わなくていいと思う」
俺は答えた。
「今は、分からないことが多すぎる」
「分からないまま、隠しますか?」
「隠すというより、整理してから話す」
「返さない返事と似ていますか?」
「少し似てるな」
ピーちゃんは小さく頷いた。
俺はチーちゃんに返信した。
『大丈夫。少し変なことはあったけど、今は机で整理してる』
すぐに返事が来る。
『ならお茶。あと甘いもの』
フーちゃんがビスケットの袋を掲げる。
「ある」
俺は笑った。
「チーちゃん基準クリア」
ピーちゃんも少しだけ笑った。
その笑いを見て、部屋の空気がようやく少し戻った。
ミーちゃんは画面に、今日の内容を短くまとめる。
「現時点での方針です」
表示されたのは三つだけだった。
無理に開かない。
継続して見守る。
ピーちゃんを一人にしない。
ピーちゃんは、その三行をじっと見た。
「短いです」
「必要なことだけにしました」
「分かりやすいです」
「ありがとうございます」
ミーちゃんは少しだけ視線を逸らした。
ピーちゃんはカップを両手で包む。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃん、読めない場所が少し怖いです」
「ああ」
「でも、無理に開かないでくれて、少し安心しました」
「開けたい気持ちはあるけどな」
「ありますか?」
「ある」
俺は正直に答えた。
「でも、ピーちゃんが怖いなら、今は開けない」
ピーちゃんは、しばらく俺を見ていた。
「ご主人は、ピーちゃんより知りたい気持ちを選ばないんですね」
「今はな」
「それは、嬉しいです」
その声は、少しだけ震えていた。
でも、悲しい震えではなかった。
俺はメモ帳を開いた。
昨日の「返さない返事」の下に、新しい一文を書く。
読めない場所を、信頼できる日まで閉じておく。
ピーちゃんがそれを見て、小さく息を吐くように笑った。
「今日の名前みたいです」
「長くないか?」
「少し長いです」
「じゃあ、もう少し短くするか」
ピーちゃんはサポートロボを見る。
青い目は静かに光っている。
その奥に何があるのかは、まだ分からない。
でも、今日は無理に開けない。
ピーちゃんは思い出リストを開いた。
「ご主人」
「ん?」
「今日の名前、決めてもいいですか?」
「もちろん」
ピーちゃんは少し考えた。
古い鍵穴。
読めない保護領域。
穴あきビスケット。
ミーちゃんの三行。
フーちゃんの少し強い言葉。
チーちゃんのお茶と甘いもの。
「古い鍵穴」
ピーちゃんは、静かに言った。
「それでいいのか?」
「はい」
「怖くないか?」
「少し怖いです」
ピーちゃんは正直に頷いた。
「でも、今日は開けない鍵穴です」
「そっか」
「はい」
ピーちゃんは入力する。
――古い鍵穴。
そこに何があるのか、まだ分からない。
誰の鍵が触れたのかも分からない。
けれど、読めない場所があるからといって、すぐに壊して開く必要はない。
信頼できる日まで、閉じておく。
それも、守ることの一つなのかもしれない。
サポートロボの青い目が、静かに瞬く。
今日は、開かないままの小さな扉を、内側からそっと守っているような光だった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、ピーちゃんのサポートロボに残った小さな反応のお話でした。
読めない場所があるからといって、すぐに開けばいいわけではない。
それが守るために閉じられているのなら、信頼できる日まで待つことも必要なのかもしれません。
少しずつ、ピーちゃんの奥にあるものへ近づいていきます。
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