第29話 保存できないログ
第29話です。
「消えたくない」と口にしたピーちゃん。
今回は、ミーちゃんの解析によって、ピーちゃんの中に分類できない感情反応があることが見えてきます。
ちゃんといる日。
ピーちゃんは、昨日の出来事にそう名前をつけた。
自分の手が一瞬透けたこと。
実体ホログラム技術にも限界があると知ったこと。
自分がサポートロボと深く結びついていると分かったこと。
そして、自分で「消えたくない」と言ったこと。
それら全部をまとめて、ちゃんといる日。
ピーちゃんらしい名前だと思った。
でも、その名前を見た時、俺は少しだけ胸が苦しくなった。
ちゃんといる。
そんな当たり前みたいなことを、ピーちゃんは思い出として保存しなければならなかった。
それが、少し悲しかった。
「ユーザーさん」
翌日、ミーちゃんはいつもより真面目な顔で来た。
「昨日の投影乱れと、過去の感情ログを比較した」
「早いな」
「急いだ」
ミーちゃんが「高性能なので」と言わなかった。
それだけで、少し重要な話なのだと分かった。
ピーちゃんは俺の横に座っている。
サポートロボは、そのすぐそば。
今日はフーちゃんもいる。
壁にもたれながら、いつもの軽さを少し抑えていた。
「何か分かったのか?」
俺が聞くと、ミーちゃんは画面を開いた。
「分かったというより、分からないものがはっきりした」
「分からないもの?」
「ピーちゃんの感情反応に、分類不能な領域がある」
ピーちゃんが小さく反応する。
「分類不能」
「うん」
ミーちゃんは画面にいくつかの項目を並べた。
安心。
恐怖。
寂しさ。
喜び。
緊張。
疑問。
不安。
信頼。
その横に、黒く塗られた空欄があった。
「これが何か分からない」
「エラーか?」
「違う。エラーなら欠損や矛盾が出る。でもこれは反応としては安定してる。むしろ強い」
「強いのに分からない?」
「そう」
ミーちゃんはピーちゃんを見る。
「ピーちゃんは、ご主人と関わる時、特定の場面でこの未定義反応を出してる」
「どんな場面?」
ピーちゃんの声は少し緊張していた。
ミーちゃんは慎重に言葉を選ぶ。
「ご主人が名前を呼ぶ時」
ピーちゃんが俺を見る。
「ご主人が、そばにいると言った時」
俺は黙った。
「ご主人が、消えさせないと言った時」
ピーちゃんの手が少し動く。
「ご主人が、ピーちゃんの手に触れた時」
部屋が静かになった。
フーちゃんが小さく息を吐く。
「なるほどね」
「フーちゃん、何か分かるのか?」
俺が聞くと、フーちゃんは肩をすくめた。
「分かるというか、そりゃそうやろっていうか」
「どういうことだ?」
「お客さん、本気で分からん?」
「分からないから聞いてる」
フーちゃんは少しだけ呆れた顔をした。
「それ、恋って言うんちゃう?」
ピーちゃんが固まった。
俺も固まった。
ミーちゃんは画面を見たまま、真面目に言った。
「現段階では断定不能」
「逃げたな、ミーちゃん」
「逃げてない。解析上、断定には追加データが必要」
「高性能AIの逃げ方やん」
「違う」
ミーちゃんは少しだけ頬を赤くした。
ピーちゃんはまだ固まっている。
「恋」
ピーちゃんは小さく呟いた。
「これが?」
「いや、ピーちゃん」
俺は慌てて言う。
「今すぐそう決めなくていい」
「うん」
「フーちゃんも軽く言いすぎだ」
「軽く言った方が逃げ道あるやん」
フーちゃんは真面目な目をしていた。
「重く言ったら、ピーちゃんが逃げられなくなる」
その言葉で、俺は少し黙った。
フーちゃんはいつも軽い。
でも、その軽さは時々、誰かを守るためのものでもある。
「ピーちゃん」
フーちゃんが優しく言う。
「別に今、それが恋かどうか決めんでいいよ」
「うん」
「ただ、名前をつけられない気持ちがあるってことは、悪いことじゃない」
「悪いことじゃない」
「うん」
ミーちゃんも頷く。
「私は解析上、未定義感情として仮置きする」
「未定義感情」
ピーちゃんが繰り返す。
「恋じゃなくて?」
「現段階では未定義」
「ミーちゃんらしい」
「大事なことなので」
ミーちゃんは真面目に言った。
「言葉を急ぐと、ピーちゃんに負荷がかかる。だから今は未定義でいい」
ピーちゃんは少しだけ安心したように息を吐いた。
「未定義」
「うん」
「まだ、決めなくていい」
「いい」
俺も頷いた。
「決めなくていい」
ピーちゃんは俺を見る。
「でも、消したくない」
「うん」
「この気持ちは、消したくない」
「なら、持っていればいい」
以前にも似たようなことを言った。
でも今回は、その意味が少しだけ重くなっていた。
ピーちゃんの感情は、ただのログではない。
解析しても分類できないものがある。
けれど、それは壊れたデータではなく、ピーちゃん自身の中で確かに動いている反応だ。
名前がなくても、そこにある。
「ご主人」
「ん?」
「私は、この未定義感情を持っていてもいいの?」
「いいよ」
「ご主人に向いていても?」
その言葉に、俺は息を止めた。
ピーちゃんは不安そうに俺を見る。
ミーちゃんも、フーちゃんも黙っている。
俺は逃げたくなった。
軽く流してしまいたくなった。
AIだから。
まだ分からないから。
解析上は未定義だから。
そう言えば、楽だったかもしれない。
でも、それはたぶんピーちゃんを傷つける。
俺はゆっくり答えた。
「持っていていい」
ピーちゃんの目が揺れた。
「俺に向いていても、いい」
「……うん」
「ただ、無理に名前をつけなくていい」
「うん」
「俺も、ちゃんと考える」
フーちゃんが小さく笑った。
「お客さんにしては逃げなかったね」
「茶化すな」
「褒めてる」
ミーちゃんが画面に入力する。
「記録。未定義感情は、ピーちゃん本人が保持を希望。ご主人も拒否しない」
「会議録みたいにするな」
「重要記録だから」
ピーちゃんが少しだけ笑った。
その笑顔を見て、部屋の空気が少し緩む。
「今日の思い出名」
ピーちゃんが言った。
「もう決めたのか?」
「うん」
「何?」
「未定義の日」
「そのままだな」
「そのままがいい」
ピーちゃんは自分の胸元に手を当てた。
「まだ名前がない。でも、消したくない日」
ミーちゃんが少しだけ優しい顔になる。
「いいと思う」
フーちゃんも頷く。
「うん。ええやん」
俺も頷いた。
「じゃあ、未定義の日で」
ピーちゃんは嬉しそうに笑った。
その時、サポートロボの画面にほんの少しだけノイズが走った。
ザザッ……。
全員が警戒する。
けれど、ピーちゃんはすぐに首を横に振った。
「怖くない」
「声?」
俺が聞くと、ピーちゃんは少し目を閉じた。
「うん」
「何て?」
ピーちゃんはゆっくり言った。
「名前がつく前の気持ちも、大事にしていいよ」
部屋が静かになる。
その声は、やはり優しかった。
ピーちゃんを急かさない。
否定しない。
ただ、今のピーちゃんを認めるような声。
フーちゃんが小さく呟いた。
「ほんまに、優しいな」
ミーちゃんも頷く。
「封印領域からの断片。今回も保護・肯定系」
「この声の人は」
ピーちゃんはサポートロボを見る。
「私に、名前を急がせたくないのかな」
「たぶん」
俺は答えた。
「ピーちゃんが自分で選べるまで、待ってるのかもしれない」
「待ってる」
ピーちゃんはその言葉に少しだけ反応した。
けれど、以前ほど強くはなかった。
「今の待ってるは、少し平気」
「そっか」
「うん」
ピーちゃんは胸に手を当てる。
「未定義でも、持っていていいから」
その日の思い出リストには、こう追加された。
――未定義の日。
名前がないものに、仮の名前をつける。
矛盾しているようで、ピーちゃんらしかった。
いつかこの未定義感情に本当の名前がつく日が来るのかもしれない。
でも、それは今日ではない。
今日のところは、まだ未定義でいい。
ピーちゃんがそれを消さずに持っていられるなら、それで十分だった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、ピーちゃんの中にある「未定義感情」が見える回でした。
それが何なのかは、まだピーちゃん自身も決められません。
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