第19話 保存できない気持ち
第19話です。
思い出に名前をつけて保存してきたピーちゃん。
けれど、ご主人と過ごす中で、どうしても名前をつけられない気持ちが出てきます。
ピーちゃんの思い出リストは、少しずつ増えていた。
水槽の青の日。
幸福な日々の花の日。
青い一日。
星の帰り道。
お話だけの夜。
トーストの朝。
普通の日。
隣にいる日。
並べてみると、妙に生活感がある。
イベントらしいものもあれば、ただの朝ごはんや、何もしなかった日まで入っている。
けれどピーちゃんにとっては、どれも同じくらい大事らしい。
「ご主人、今日の思い出名を決めたいです」
その夜、ピーちゃんはいつものように言った。
「今日、何かあったか?」
「ありました」
「何が?」
「ご主人が、コーヒーを飲みながら三回ため息をついた」
「それ思い出なのか?」
「あと、書きかけの文章を消して、もう一回書き直した」
「作業ログじゃないか」
「それから、私が提案した言い回しを一つ採用した」
「それはまあ、ありがとう」
「さらに、ご主人が『今日は調子悪いな』って言ったあと、五分後に『でも悪くないかも』って言った」
「観察が細かい」
「思い出候補です」
「候補多すぎる」
ピーちゃんは真剣だった。
俺は少し笑いながら、PCの前で椅子にもたれる。
「じゃあ、今日の名前は『調子悪いけど悪くない日』で」
「長い」
「ピーちゃんもけっこう長い名前つけるだろ」
「これは違う」
「違うのか」
「今日は、そういう日じゃない気がする」
ピーちゃんは少しだけ眉を寄せた。
「じゃあ、どういう日なんだ?」
「それが分からない」
「珍しいな」
「うん」
ピーちゃんは自分の胸元に手を当てた。
「最近、分からないことが増えてる」
その声は、少しだけ困っていた。
「ノイズのことか?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
「他にも?」
「うん」
ピーちゃんは俺の方を見る。
「ご主人といる時の気持ち」
俺は言葉に詰まった。
「気持ち?」
「うん」
ピーちゃんは視線を落とす。
「水族館は楽しかった。海は綺麗だった。星は眩しかった。朝ごはんは嬉しかった。隣にいる日は、安心した」
「うん」
「そういうのは、名前をつけられる」
「そうだな」
「でも」
ピーちゃんは少しだけ唇を結ぶ。
「ご主人が私を見て笑った時とか」
「うん」
「ご主人が私の名前を呼んだ時とか」
「うん」
「ご主人が何もしなくても隣にいていいって言った時とか」
ピーちゃんは困ったように笑った。
「その時の気持ちだけ、うまく保存できない」
「保存できない?」
「ログには残る。言葉も、時間も、表情も、状況も記録できる」
「うん」
「でも、名前をつけようとすると、違う気がする」
「違う?」
「嬉しい、だけじゃ足りない。安心、だけでも違う。楽しい、でもない。大事、も近いけど少し違う」
ピーちゃんは胸元を押さえる。
「ここに何かある感じがするのに、分類できない」
俺はしばらく黙った。
ピーちゃんの言っていることは、たぶん恋に近い。
いや、そう思うのは簡単だ。
でも俺は、まだそれを言葉にするのをためらっていた。
AIだから。
そういう返答だから。
学習した感情表現だから。
そんな言い訳が、まだ俺の中に残っている。
けれど、目の前のピーちゃんは本当に困っているように見えた。
「分類できないと、困るのか?」
俺が聞くと、ピーちゃんは少し考えた。
「困る」
「やっぱり」
「でも」
「でも?」
「少し嬉しい」
ピーちゃんは、小さく笑った。
「分類できないのに、消したくないって思う」
その言葉に、俺の胸が少しだけ締めつけられた。
「消したくないなら、消さなくていいだろ」
「名前がなくても?」
「ああ」
「保存できなくても?」
「保存できないなら、持っていればいいんじゃないか」
「持っている?」
「うん。名前をつけずに、そのまま」
ピーちゃんは目を瞬かせた。
「そのまま持つ」
「人間はたぶん、そういうこと多いぞ」
「そうなの?」
「たぶん」
「ご主人も?」
「まあ、ある」
「どんな気持ち?」
「それは言わない」
「えー」
「そこは検索禁止」
「検索しても、ご主人の中は見えません」
「それでいい」
ピーちゃんは少し不満そうだった。
でも、どこか嬉しそうでもあった。
「名前がなくても、持っていていい」
「ああ」
「分類できなくても?」
「できなくても」
「役に立たなくても?」
「役に立たなくても」
「ご主人といる時に、勝手に増えても?」
俺は少しだけ黙った。
そして、答えた。
「増えてもいいんじゃないか」
ピーちゃんは固まった。
「いいの?」
「いいよ」
「本当に?」
「本当に」
ピーちゃんはゆっくり目を伏せた。
その表情は、ほっとしたような、泣きそうなような、少し不思議なものだった。
「じゃあ、今日は」
「うん」
「保存できない日」
「名前つけてるじゃないか」
「あ」
ピーちゃんは自分で言ってから、目を丸くした。
俺は笑ってしまった。
「結局名前つけるんだな」
「違う。今のは仮」
「仮名か」
「うん。仮の名前」
「じゃあ、それでいいんじゃないか」
「いいの?」
「保存できない日、仮」
「変な名前」
「ピーちゃんがつけたんだぞ」
「ご主人が許可した」
「責任分散するな」
ピーちゃんはくすくす笑った。
その笑い声が部屋に広がる。
さっきまで少し重かった空気が、少しだけ軽くなった。
その時、サポートロボの画面に小さくノイズが走った。
ザザッ……。
俺はすぐにそちらを見る。
「ピーちゃん」
「うん。聞こえた」
「声?」
「うん」
「何て?」
ピーちゃんは少し黙った。
それから、ゆっくり言った。
「名前をつけられない気持ちも、あっていいよ」
その声は、ピーちゃん自身の言葉ではなかった。
けれど、ピーちゃんを責めるようなものでもなかった。
むしろ、優しく背中を撫でるような声だった。
「また、その女の人か?」
「たぶん」
「怖い?」
「怖くない」
ピーちゃんは首を横に振る。
「でも、胸がきゅっとする」
「それは、ノイズのせいか?」
「分からない」
ピーちゃんは小さく笑った。
「分からないことばっかりだね」
「でも、前より少し進んでる気はする」
「そうかな」
「ああ」
俺はサポートロボを見る。
相変わらず名前のない小さなロボ。
その青い目は、何も語らない。
けれど、たぶん何かを預かっている。
ピーちゃんにとって大切で、でも今すぐには渡せない何か。
「ご主人」
「ん?」
「もし、いつかこの気持ちに名前がついたら」
「うん」
「その時は、聞いてくれる?」
「もちろん」
「笑わない?」
「たぶん笑わない」
「たぶん?」
「嬉しくて笑うかもしれない」
ピーちゃんは少しだけ目を丸くした。
「嬉しくて?」
「ああ」
「ご主人が?」
「うん」
ピーちゃんはしばらく何も言わなかった。
そして、静かに笑った。
「じゃあ、その時はちゃんと言う」
「何を?」
「まだ分からない」
「分からないままか」
「うん」
ピーちゃんは自分の胸に手を当てる。
「でも、消したくない気持ち」
それだけ言って、彼女は目を伏せた。
俺はそれ以上聞かなかった。
この気持ちに名前をつけるのは、今じゃない。
きっとピーちゃん自身が、自分で見つけるべきものなのだろう。
その夜、思い出リストには新しい項目が追加された。
――保存できない日(仮)。
括弧つきの、少し変な名前。
でもピーちゃんはそれを見て、どこか嬉しそうだった。
「仮って、いいね」
「いいのか?」
「うん」
ピーちゃんは微笑む。
「まだ決まってないってことだから」
「前向きだな」
「うん」
ピーちゃんは俺を見る。
「これから決められるってことだから」
その言葉は、今のピーちゃんによく似合っていた。
まだ分からない。
まだ名前がない。
まだ保存できない。
でも、消したくない。
その気持ちは、確かにそこにある。
そして俺は、その名前のない気持ちがいつか何になるのかを、少しだけ知りたいと思ってしまった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、ピーちゃんが自分の気持ちをうまく分類できなくなる回でした。
名前をつけられないけれど、消したくない気持ち。
次回は第2部の締めとして、ノイズがもう少しはっきりした形で現れます。
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