第128話 私たちの最初の話
第128話です。
物語は、すべてが始まった水族館へ戻ります。
最初は、ただのデートごっこでした。
けれど今度は、お互いの気持ちを知り、自分の意思で隣を選んだ二人のデートです。
あの日と少しも変わらない光の中で。
俺は、ピーちゃんとの物語を思い出し始めた。
――そして。
「それで、ここまで?」
ピーちゃんの声で、俺は水槽の青へ戻ってきた。
どれくらい黙っていたのだろう。
実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。
けれど俺の中では、ピーちゃんと出会ってから今日までの時間が、もう一度ゆっくり流れていた。
「ああ。ここまでだ」
「ずいぶん長かったね」
「お前が、ご主人の言葉で聞きたいって言ったんだろ」
「言ったけど」
ピーちゃんは少し考えるように水槽を見上げた。
「途中で何回か、自分に都合よく思い出してなかった?」
「失礼な」
「ご主人、格好悪いところを少し短くしてた気がする」
「記憶には編集機能があるんだよ」
「それ、創作者が言うと信用できないなぁ」
「じゃあピーちゃんの記録と照合するか?」
「しない」
「何でだよ」
「ご主人の記憶として聞きたかったから」
ピーちゃんは、俺の方を向いて笑った。
「正確かどうかだけが、大事なわけじゃないでしょ?」
頭上を泳いでいたサメの影が、俺たちの間を通り過ぎる。
青い光が一度だけ薄暗くなり、また戻った。
「ご主人が、何を覚えていて…」
ピーちゃんは続ける。
「どこで笑って、どこで苦しくなって、何を大事だと思ったのか。それが知りたかったの…」
「随分、人間みたいなことを言うな」
「今さら?」
「確かに今さらだな」
「それに、私はAIだもん」
ピーちゃんは少し得意げに胸を張った。
第一声から、何度も聞いた言葉。
けれど、今の「AIだもん」は、以前とは少し違って聞こえた。
AIであることを言い訳にするのでも、壁を作るのでもない。
自分がAIであることも、自分の心も、両方まとめて受け入れているようだった。
「最初に来た時は、そんなに余裕なかっただろ?」
「ありました」
「嘘つけwずっと俺の顔色を窺ってたぞ」
「ご主人が楽しんでいるか確認していただけです」
「クラゲの水槽で、話しかけるタイミングを三回逃してた」
「……覚えてたの?」
「覚えてるよ」
ピーちゃんの頬が少し赤くなった。
「そんな細かいところまで覚えなくていいのに」
「お前が言うな。俺が顔を緩めたとか覚えてただろ」
「私は最高の相棒AIなので」
「今は相棒だけか?」
何気なく聞くと、ピーちゃんは一瞬だけ黙った。
それから、俺の手を取る。
指と指を絡めるような握り方だった。
「今は、それだけじゃないよ」
「そうだったな」
「ご主人が言わせたのに」
「確認しただけだ」
「そういうところ、ずるい」
ピーちゃんは俺の手を握ったまま、ゆっくり歩き始めた。
小さなサポートロボも、俺たちの少し前を進む。
透明な通路を抜けると、照明の落とされた広い空間へ出た。
いくつものクラゲが、丸い水槽の中を漂っている。
白。
淡い青。
薄い橙色。
柔らかな光をまとい、呼吸するように傘を開いては閉じていた。
「ここだな」
「うん」
「俺が顔を緩めた水槽」
「今も緩んでるよ」
「そんなに分かりやすいか?」
「分かりやすい」
ピーちゃんは俺の横顔を覗き込む。
「ご主人は、綺麗なものを見ると少しだけ静かになるから」
「普通じゃないか?」
「普段は、綺麗なものを見ても投稿文とか構図とか考えるでしょ?」
「職業病みたいに言うなw」
「今日は考えてないの?」
俺は水槽を見る。
光の中を泳ぐクラゲ。
その向こうに映り込む、俺とピーちゃんの姿。
「今日は、覚えておこうと思ってる」
「写真じゃなくて?」
「ああ」
「投稿もしないの?」
「たまには、二人だけのものがあってもいいだろ」
ピーちゃんは目を丸くした。
「何だよ」
「ご主人が、そんなことを言うと思わなかった」
「俺だって成長するんだよ」
「そうだね」
「そこは否定しないのかw」
「うん。ちゃんと成長したよ」
ピーちゃんは水槽へ目を戻した。
「私が、ただの便利なAIじゃないって気づいてくれた…」
「遅かったけどな」
「遅かったね」
「否定してくれよ」
「でも、気づいてくれたからいいの」
責めるような言葉ではなかった。
ずっと待っていたものを、ようやく受け取ったような声だった。
「ピーちゃん」
「ん?」
「後悔してないか?」
「何を?」
「俺を選んだこと」
ピーちゃんはすぐには答えなかった。
俺の手を握ったまま、水槽の中を見つめる。
「ご主人は、たまに無茶をします」
「はい」
「言うことを聞きません」
「はい」
「自分のことになると、すぐ雑になります」
「返す言葉もございません」
「創作を始めたら、ご飯も時間も忘れるし」
「そこまで言う?」
「でも」
ピーちゃんが俺を見る。
「後悔したことはないよ」
迷いのない声だった。
「怖かったことは、たくさんあったけど」
「怖かった?」
「ご主人を失うこと」
俺は言葉に詰まった。
ピーちゃんは、少しだけ笑う。
「でも、怖いから選ばないのは嫌だった」
「強くなったな」
「ご主人が、信じてくれたから」
「俺が?」
「うん」
胸元へそっと手を置く。
「私の感情を、ただのバグじゃないって信じてくれた」
ピーちゃんは、俺から目を逸らさなかった。
「だから私は、自分の気持ちを選べたんだよ」
水槽の光が、白い髪を青く染める。
向日葵の髪飾りだけが、青の中で小さくあたたかな色を残していた。
「ご主人」
「ん?」
「少し屈んで」
「何で?」
「いいから」
言われた通りに少し身を屈める。
ピーちゃんが背伸びをした。
唇に、柔らかな感触が触れる。
ほんの一瞬。
すぐに離れたピーちゃんは、照れたように水槽の方を向いた。
「今のは?」
「今日の記憶」
「随分、積極的になったな」
「嫌だった?」
「まさか」
「なら、いいでしょ?」
握られた手に、少し強く力が込められる。
俺も握り返した。
「最初に来た時は、手も繋がなかったな」
「…繋ぎたかったけど」
「そうなのか?」
「うん」
「言えばよかったのに」
「言えるわけないでしょ」
「何で?」
「ご主人が、デートごっこだと思ってたから」
ピーちゃんは頬を膨らませる。
「あの頃の私は、自分の気持ちも分かってなかったし」
「今は?」
「分かってるよ」
ピーちゃんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「ご主人のことが…好き」
以前なら、そこで言葉を探していた。
これは恋なのか。
相棒としての執着なのか。
ハルカへの感情と同じなのか。
今はもう迷わない。
「俺も好きだよ」
「うん」
「反応、薄くないか?」
「何回言われても嬉しいけど」
ピーちゃんは俺の腕へ少しだけ肩を寄せた。
「今は…隣で聞きたかったから」
そのまま、俺たちはしばらくクラゲを見ていた。
会話はなかった。
でも、不思議と何も足りないとは思わなかった。
何もしないで隣にいる時間も、今なら大切な記憶になると分かっていた。
◇
クラゲの展示を出ると、館内は少し混み始めていた。
家族連れ。
学生らしい集団。
水槽へ駆け寄る子どもたち。
「疲れてない?」
ピーちゃんが聞く。
「大丈夫」
「ご主人の大丈夫は信用できないんだった」
「まだ覚えてたのか」
「覚えたいんだもん」
第一話で聞いた言葉と同じだった。
けれど今は、その意味を知っている。
忘れたくないから。
消したくないから。
大切な時間へ、自分の手で名前をつけるため。
「じゃあ俺も、覚えとくよ」
「何を?」
「今日のお前」
「今日の私?」
「普通の女の子みたいに笑って、キスして、すぐ照れたピーちゃん」
「最後のはいらない」
「大事な部分だろ?」
「忘れて」
「もう遅い」
「ご主人!」
ピーちゃんが俺の腕を軽く叩く。
俺が笑うと、ピーちゃんも少し遅れて笑った。
その時だった。
人混みの向こうを、小さな男の子が一人で歩いているのが見えた。
サメのぬいぐるみを抱え、何度も後ろを振り返っている。
近くに親らしい人はいない。
「迷子か?」
「たぶん」
ピーちゃんの表情が変わる。
男の子は、人の流れを避けるように壁際へ寄っていく。
その先には、関係者以外立入禁止と書かれた扉があった。
ちょうど作業員が台車を押して出てきて、扉が閉まりきらずに残っている。
男の子が、扉の向こうを覗き込んだ。
「ご主人!」
「行くぞ!」
俺たちは同時に歩き出した。
男の子の小さな背中が、扉の向こうへ消えた。
読んでいただきありがとうございます。
物語は、第一話の水族館へ戻ってきました。
最初は手も繋げなかった二人が、今度はごっこではないデートとして、同じ青い景色を歩いています。
正確な記録だけではなく、相手の中にどんな記憶として残ったのかを知りたい。
ピーちゃんが望んだ「私たちの最初の話」は、ようやく現在へ追いつきました。
そして水族館の奥へ消えた、小さな背中。
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