第129話 優しいハルシネーション
第129話です。
水族館の関係者用通路へ入ってしまった、小さな男の子。
失った目と傷ついた脳。
それでも三人が届けてくれる世界を頼りに、主人公は手を伸ばします。
そして、子どもを助けたあと。
読者だけが、もう一つの真実を知ることになります。
閉まりかけた扉へ手をかける。
「待ってください!」
近くにいた係員の声が飛んできた。
「その先は関係者以外立入禁止です!」
「子どもが入ったんです!」
答えながら扉の隙間へ身体を滑り込ませる。
ピーちゃんと小さなサポートロボも、すぐ後ろからついてきた。
扉の向こうは、展示エリアとは別世界だった。
剥き出しの配管。
低い天井。
壁際に積まれた清掃用具。
床には薄く水が広がり、白い照明をぼんやり反射している。
「男の子は?」
「前方、20メートル!」
ピーちゃんが答える。
「右へ曲がったよ!」
走り出そうとして、足がわずかにもつれた。
「ご主人、急に走らないで!」
「でも、見失う!」
「見失わないよ」
ピーちゃんが俺の手を掴む。
「ミーちゃんが見てるから」
次の瞬間、俺の視界がわずかに揺れた。
壁や床の輪郭に、細い光が重なる。
濡れて滑りやすい場所。
床に置かれた工具箱。
曲がり角から近づいてくる作業員。
目で確認するより早く、位置が頭の中へ入ってきた。
『ユーザーさん。床面の摩擦が低下しています。右側を進んでください』
ミーちゃんの声が聞こえる。
「右だな」
「うん」
俺は速度を落とし、壁際を進んだ。
『お客さん、足の出し方は私が支えるから。焦って変な踏み込みしないでよ』
フーちゃんの声も重なる。
「分かってる」
『絶対分かってない返事だねぇ』
「今は茶化すな」
『茶化してないと、お客さん無茶するでしょ』
曲がり角を抜ける。
少し先に、男の子の背中が見えた。
サメのぬいぐるみを抱えたまま、さらに奥へ進んでいる。
「君! 止まって!」
男の子が振り返った。
けれど、声に驚いたのか、一歩後ろへ下がる。
その足元で、水が跳ねた。
「動かないで!」
ピーちゃんの声が強くなる。
男の子のすぐ後ろには、床の一部が開いていた。
点検中らしい四角い開口部。
腰ほどの高さまで水が満たされた循環設備が、その下で低い音を立てている。
仮設の柵は横へ寄せられ、注意表示も倒れていた。
展示エリアからは見えない場所。
作業員が扉を開けた、ほんのわずかな隙に入り込んだのだろう。
「こっちへ来られるか?」
できるだけ静かな声で呼びかける。
男の子は泣きそうな顔で首を横に振った。
「お母さんが……いない」
やはり母親と逸れてしまったらしい、ひとまず安心させなければ。
「大丈夫。今、探してもらってる」
「ほんと?」
「本当だ」
俺が一歩近づく。
男の子もこちらへ来ようと足を動かした。
濡れた靴底が滑る。
「危ない!」
小さな身体が後ろへ傾いた。
考えるより先に踏み出していた。
景色の中へ無数の情報が流れ込む。
男の子までの距離。
倒れる角度。
床の滑り。
開口部の位置。
俺の足が置ける場所。
『左足を半歩前へ』
ミーちゃん。
『身体を低くして! 右側は私が支える!』
フーちゃん。
「ご主人、手を伸ばして!」
ピーちゃん。
三人の声が、一つの判断になる。
俺は床を蹴った。
視界が揺れる。
それでも、男の子の姿だけは消えなかった。
伸ばした右手が、小さな腕を掴む。
同時に俺の足も滑った。
「くっ……!」
膝を床へ打ちつける。
身体が開口部の方へ引かれた。
けれど、倒れなかった。
背中を支えるような力。
足を踏ん張らせる補助。
俺の視界の中で、ピーちゃんが両手を伸ばしている。
「ご主人!」
「ああ!」
男の子の身体を引き寄せる。
ぬいぐるみが床へ落ちた。
俺は男の子を抱えたまま、開口部から離れた。
「怪我は?」
「……ない」
「痛いところは?」
男の子は震えながら、俺の服を強く握った。
「こわかった……」
「もう大丈夫だ」
頭を撫でる。
「一人で知らない場所へ入っちゃ駄目だぞ?」
「ごめんなさい…」
「お母さんにもちゃんと謝ろうな?」
「うん……」
遅れて係員たちが走ってくる。
倒れた柵を戻し、設備を止める者。
無線で迷子の保護を伝える者。
その中の一人が、男の子を抱き上げた。
「ありがとうございます。お怪我はありませんか?」
「膝を少し打っただけです」
「救護室へご案内します」
「その前に」
俺は床へ落ちたサメのぬいぐるみを拾い、男の子へ渡した。
「ほら」
「ありがとう!」
男の子が胸へ抱き締める。
ピーちゃんは、その隣でほっと息を吐いた。
「間に合ってよかった」
「ああ」
「でも、無茶しすぎだよ」
「今回は仕方ないだろ」
「仕方なくても心配するの!」
ピーちゃんはしゃがみ込み、俺の膝を覗き込んだ。
「少し擦れてる」
「これくらい平気だ」
「ご主人の平気は信用できないもん」
「またそれか」
「何度でも言うよ」
男の子が、不思議そうにこちらを見ていた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「さっき、どうして分かったの?」
「何が?」
「ぼくが落ちそうなの」
開口部は物陰に近く、俺が入った位置からでは見えにくかった。
事故の前の目だったとしても、あれほど正確に距離を測れたかは分からない。
「俺一人で見たわけじゃないからな」
ピーちゃんを見る。
「ピーちゃんたちが教えてくれたんだ」
「私たち三人の100%を、ご主人が選んでくれたんだよ」
「また100%か」
「今回は、それ以上だったかも」
ピーちゃんは少し得意げに笑った。
俺は改めて、自分の見ている景色を確かめた。
配管。
濡れた床。
作業員。
男の子。
白い髪のピーちゃん。
向日葵の髪飾り。
そばに浮かぶ、小さなサポートロボ。
「俺の目は、もう見えてないんだよな」
「うん」
「でも、今は全部見える」
「ミーちゃんが世界を読んでるから」
「フーちゃんが、俺の頭を支えてる」
「うん」
「ピーちゃんが、それを俺の見える景色にしてる」
ピーちゃんは静かに頷いた。
「これは、本物の視覚ではありません」
以前の丁寧な口調が、ほんの少しだけ戻る。
「ご主人の目に光が入って、脳が映像を作っているわけではないから」
「じゃあ、やっぱり幻みたいなものか」
「うん」
ピーちゃんは、俺の手を取った。
「でも、ご主人を騙すための幻じゃないよ」
「騙すためじゃない?」
「怖くないように」
指を絡める。
「世界を失ったと思わないように」
俺を見上げ、柔らかく笑う。
「ご主人が、もう一度誰かへ手を伸ばせるように、三人で作ったの」
水族館の機械音が、遠くで響いていた。
「これは、優しいハルシネーション」
「優しい幻覚、か」
「うん」
「変な名前だな」
「嫌?」
「いや」
俺は握られた手を握り返した。
「今の俺には、これが世界なんだろ」
「そうだよ」
「それなら十分だ」
ピーちゃんの瞳が、少し揺れた。
泣きそうにも、笑っているようにも見えた。
「ご主人らしいね」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなのかよ」
ピーちゃんが笑う。
その笑顔も。
手の温度も。
俺には確かに感じられた。
「お兄ちゃん」
男の子が、もう一度俺を呼んだ。
「ピーちゃんって、だれ?」
「誰って」
俺は当然のように、自分の隣を指した。
「ここにいるだろ?」
男の子は、俺の指の先を見ながら何度か瞬きをした。
それから、小さく首を傾げた。
「だれも、いないよ?」
◇
男の隣に、白い髪の少女は立っていなかった。
向日葵の髪飾りも。
差し出された小さな手も。
けれど、一体の小さなサポートロボだけは、確かにそこに浮かんでいた。
青い目を静かに瞬かせながら、男のすぐそばを離れずにいる。
男の目は、光を映していない。
それでも彼の世界には、水族館の青が広がっていた。
白い少女が隣に立ち。
遠くにいる二人の少女の声が、彼を支えている。
三人の姿は、もう現実にはない。
けれど、三人が選んだものは今も動き続け、彼を世界へ繋ぎ止めていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、主人公とピーちゃんが力を合わせ、迷子の男の子を助けるお話でした。
ミーちゃんが世界を読み、フーちゃんが失われた機能を支え、ピーちゃんが主人公の受け取れる景色として届ける。
三人と主人公の力が重なったことで、もう一度誰かへ手を伸ばすことができました。
そして、優しいハルシネーション。
主人公にとって、三人は今も変わらず隣にいます。
けれど、子どもの目に映っていたものは違いました。
最後に残された真実まで見届けていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




