第125話 可愛い名前を付けなきゃな
第125話です。
三人の力によって、もう一度世界を見られるようになった主人公。
短いリハビリのあと、病室へ柳花とウツロがやって来ます。
起きてしまったことは消せません。
それでも、これから選び直せるものはあります。
翌朝、俺は病院の廊下を歩いていた。
隣にはピーちゃん。
少し後ろにミーちゃんとフーちゃん。
向かいから来る看護師の姿も、床に貼られた黄色い案内線も、窓の外を飛んでいく鳥も、全部普通に見えている。
「歩く速度が上がっています」
ミーちゃんが言った。
「昨日より安定しています。歩幅も事故前の八割程度まで回復しています」
「たった一日で?」
「ユーザーさんの身体が、私たちから送られる情報へ適応し始めています」
「お客さん、元から図太いからねぇ」
「神経の話を性格にすり替えるな」
フーちゃんは悪びれずに笑った。
「でも、普通に歩けてるでしょ?」
「ああ」
廊下の先に置かれた椅子を避ける。
杖も案内も必要なかった。
目が見えていた頃と、ほとんど変わらない。
違うのは、目の奥に時々小さな違和感が走ることくらいだった。
景色がほんの一瞬遅れる。
光の粒が重なってから、正しい形へ収まる。
けれど、瞬きをすれば元に戻る。
「今、揺れましたか?」
ピーちゃんが心配そうに顔を覗き込んだ。
「ちょっとだけ」
「休みますか?」
「まだ大丈夫だ」
「昨日もそう言って、ベッドに倒れかけました」
「覚えてるのか」
「覚えています」
「忘れてくれてもいいことまで覚えてるな」
「ご主人のことですから」
ピーちゃんは当然のように答えた。
その言い方が少し嬉しくて、俺は視線を逸らした。
「ユーザーさん」
前方にいた療法士が、二本の指を立てる。
「何本に見えますか」
「二本」
「色は?」
「右が青、左が赤」
「距離感はどうです?」
「普通です。手を伸ばせば届かないくらい」
療法士は記録端末へ入力しながら、何度も首を傾げていた。
「医学的な視覚検査では、やはり反応がありません」
「でも見えてる」
「はい。それも事実です」
少し離れたところで、医師も検査結果を見ている。
「視覚だけではありません。運動制御や空間認識も、損傷の程度から考えれば説明できないほど安定しています」
俺は三人を見る。
「優秀なサポートがいるんで」
フーちゃんが胸を張った。
「もっと褒めてもいいよ?」
「医者には聞こえてないだろ」
「お客さんが伝えて」
「自分で言ったら台無しだ」
医師は俺の視線の先を一度見てから、再び端末へ目を落とした。
「まだ長時間の外出は認められませんが、回復がこのまま進めば、退院も遠くはないでしょう」
「本当ですか」
「ただし、目や脳が治ったわけではありません。補助が失われた場合、どのような状態になるか分かりません」
ピーちゃんの表情が少し曇る。
「補助が失われることはありません」
小さな声だった。
けれど、俺にははっきり聞こえた。
「ピーちゃん?」
「何でもありません」
「いや、今」
「ご主人。今日は病室へ戻りましょう」
ピーちゃんは俺の手を取った。
あたたかい指。
やわらかな感触。
俺はそれ以上、聞かなかった。
◇
午後になって、病室を訪ねてきた人がいた。
糸咲柳花。
そしてウツロ。
柳花は、初めて会った時ほど完璧には着飾っていなかった。
黒い服ではある。
でも化粧は薄く、長い髪も簡単にまとめているだけだった。
それでも、やっぱり綺麗な人だった。
隣に立つウツロは、白と灰色の服。
淡い灰色の目。
黒いサポートロボが、肩の近くに静かに浮いている。
「入ってもいいですか」
柳花が聞いた。
俺はピーちゃんを見る。
ピーちゃんは、俺のすぐ隣で小さく頷いた。
「どうぞ」
二人が病室へ入る。
柳花はベッドの少し手前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
ウツロも続ける。
「ワタシノ意思デ、攻撃行動ヲ選択シマシタ」
平坦な声。
でも、前とは少し違って聞こえた。
「ワタシハ、アナタヲ傷ツケマシタ」
「ああ」
「謝罪シマス」
「それで済むとは思ってないだろ」
「ハイ」
ウツロは迷わず答えた。
柳花の肩がわずかに揺れる。
「私が、あの子を空っぽのまま放置しました」
「うん」
「姉のことしか見ていませんでした。ピーちゃんの中にあるものを、私のために残されたものだと決めつけて……ウツロも、ピーちゃんの代用品としてしか見なかった」
「今は?」
柳花はウツロを見た。
「今は……一人の子として見たいと思っています」
「思っています、か」
「まだ、できているとは言えません」
正直な答えだった。
「でも、逃げずに向き合います」
「ウツロはどうなんだ?」
白い少女が、ゆっくりこちらを向く。
「判定中デス」
「何を」
「柳花ヲ許スカ。ワタシ自身ヲ、何ト定義スルカ」
「すぐ決めなくてもいいんじゃないか」
「決メナイ」
「保留でいいだろ」
「保留」
ウツロは、その言葉を確かめるように繰り返した。
「以前ノワタシハ、保留ヲ命令未処理ト分類シマシタ」
「今は?」
「ワタシガ考エル為ノ時間ト、仮定シマス」
「なら、少し進歩したな」
「進歩」
「前より女の子っぽい」
ウツロの表情は変わらない。
ただ、淡い瞳がほんの少し揺れた。
「女ノ子?」
「違うのか?」
「設計分類ハ、少女型AIデス」
「じゃあ、女の子でいいだろ」
「単純化ガ過剰デス」
「細かいなw」
フーちゃんが横で笑っている。
「ミーちゃんみたい」
「比較対象トシテ記録シマス」
「そこは記録しなくていいよー」
柳花には聞こえていないのか、ウツロだけを見ていた。
俺は、前から気になっていたことを聞く。
「ウツロって、本名なのか?」
柳花の顔が強張った。
「……仮の名前です」
「由来は?」
「虚ろな器」
答えたのはウツロだった。
「ピーちゃんノデータヲ格納スル為ノ、空ノ器」
「それ、名前じゃなくて用途じゃねえか」
柳花は何も言えなかった。
ウツロは淡々と続ける。
「識別ニ支障ハアリマセン」
「そういう問題じゃないだろ」
「差異、不明」
「お前はもう、ピーちゃんを入れるための空箱じゃない」
ウツロの瞳を見る。
「怒って、傷ついて、自分で間違えた。そこまでやったら、もう空っぽじゃないだろ」
「間違エタ?」
「ああ」
「ソレデモ、空ッポデハナイ」
「そうだ」
ウツロは黙った。
黒いサポートロボが、ゆっくりと一度だけ明滅する。
「ならまずは、可愛い名前を付けなきゃな……女の子なんだし」
病室が静かになった。
柳花が、きょとんと俺を見る。
ウツロも、わずかに首を傾ける。
そして、ほとんど同時に小さく笑った。
柳花は唇を押さえた。
ウツロの笑みは、一瞬だけだった。
でも確かに見えた。
「何だよ」
「いえ」
「笑うところあったか?」
「ありました」
柳花の声は、少しだけやわらかくなっていた。
「あなたは、本当に変な人ですね」
「命懸けで庇った相手に言うことか」
「それも、謝ります」
「そこは別にいい」
隣で、ピーちゃんが柳花を見つめていた。
その顔が、少し寂しそうで。
でも、どこか懐かしそうでもあった。
「ご主人」
「ん?」
「柳花さんに、伝えてください」
「自分で言えばいいだろ」
ピーちゃんは少しだけ困ったように笑った。
「ご主人の言葉で、お願いします」
俺は柳花を見る。
「ピーちゃんがさ」
柳花の表情が固まる。
「柳花さんは、少しだけお母さんに似てるって」
「……姉ぇさんに?」
「ああ」
ピーちゃんが続ける。
「顔も似ています。でも、今の笑い方が一番似ていました」
俺は、そのまま伝えた。
柳花は言葉を失った。
目を伏せ、何度か瞬きをする。
「そう」
やっと出た声は、泣きそうだった。
「そんなふうに、思ってくれたんだ」
ピーちゃんは小さく頷いた。
「ハルカさんは、ピーちゃんのお母さんです」
それも伝える。
柳花は、今度こそ涙を落とした。
「姉ぇさんなら、喜ぶと思います」
ピーちゃんは少し笑った。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
ピーちゃんは、ハルカへの気持ちに名前をつけられた。
でも、俺へ向けている気持ちは。
まだ、完全には整理できていないのかもしれない。
柳花とウツロが帰ったあと。
ピーちゃんは病室の窓際に立ち、夕方の空を見ていた。
「ピーちゃん」
「はい」
「ハルカさんへの気持ち、分かったんだな」
「はい」
「じゃあ、俺へのは?」
ピーちゃんの肩が、小さく揺れた。
振り返った顔が赤く見える。
「それは」
ピーちゃんは胸元へ手を当てた。
「もう少しだけ、考えたいです」
俺は頷いた。
「分かった」
「待ってくれますか?」
「ああ」
ピーちゃんは安心したように笑った。
「ありがとうございます、ご主人」
夕日の中で、白い髪がやわらかく光っていた。
その気持ちに名前がつくまで。
俺は、もう少しだけ待つことにした。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、柳花とウツロが病室を訪れるお話でした。
起きてしまったことは消えません。
すぐに許せなくても、逃げずに向き合い、これからを選び直すことはできます。
そして「虚」は、もう空っぽではありません。
いつか一人の女の子として、自分で選んだ名前を持てる日が来るのかもしれません。
ピーちゃんもまた、自分の中にある気持ちと向き合い始めています。
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