第119話 あなたに残した言葉ではなく
第119話です。
ピーちゃんの封印領域に触れようとする柳花。
そこにあると信じていたのは、姉から自分への言葉でした。
けれど、封印の中に残されていたものは、遺言ではありませんでした。
ピーちゃんのサポートロボが、透明な固定フィールドの中で震えていた。
白い光が、細く、弱く、脈のように明滅している。
柳花は端末の前に立ったまま、息を止めるように画面を見つめていた。
「封印領域、表層接続」
ウツロが淡々と読み上げる。
「保護層、抵抗中。破損リスク、軽微。閲覧可能ログ、断片」
「断片でいい…」
柳花の声は掠れていた。
「全部じゃなくていい。少しでいい」
ピーちゃんは胸元に手を当てた。
「柳花さん」
「何?」
「ピーちゃんは、まだ選べていません」
「分かってる」
「分かっているなら、待ってください」
「待てない」
柳花は振り返らなかった。
「私は、もう待った」
その背中は、きれいだった。
黒い服も、整えられた髪も、指先の震えさえ隠すように完璧だった。
でも、声だけが壊れていた。
「姉ぇさんが死んでから、ずっと…」
端末に映る文字列が、ゆっくり変化する。
封印ログ断片、展開。
白い部屋の空気が、ふっと柔らかくなった。
ピーちゃんの視界に、別の白が重なる。
明るすぎない白。
冷たすぎない白。
そして、そこに一人の女性がいた。
やわらかい色の服。
細い指。
少し疲れた顔。
けれど、ピーちゃんを見る目だけは、とてもあたたかい。
『ピーちゃん、今日の記録はどう?』
声がした。
柳花の肩が震えた。
「姉ぇさん……」
ハルカは、画面の中で笑っていた。
『はい、じゃあ今日は雑談ログにしようか♪』
『雑談、ですか?』
『うん。たまには研究以外の話もしないとね』
幼いピーちゃんの声がする。
今より少し硬くて、今より少し近すぎる声。
『ハルカさんは、何を話したいですか?』
『そうだなぁ』
ハルカは少し考える。
そして、嬉しそうに笑った。
『私にはね、自慢の妹がいるんだ』
柳花の指が、端末の縁を握りしめた。
「……っ」
『妹さん?』
『うん。柳花っていうの』
その名前が出た瞬間、柳花の顔から血の気が引いた。
『すごくきれいな子でね。私よりずっと器用で、頭もよくて、何でも一人でできるような顔をしてる』
『ハルカさんより、すごいのですか?』
『ふふ。そこは悔しいから、全部とは言わない』
ハルカは少し悪戯っぽく笑った。
『でもね、本当は不器用なんだ。強がりで、意地っ張りで、寂しいって言うのが下手で』
『寂しいと言えないのですか?』
『うん。言えない。でも、優しい子だよ』
柳花の唇が震えた。
ピーちゃんは、ただその記憶を見ていた。
それは遺言ではなかった。
柳花に向けて録音された言葉でもなかった。
白い部屋の中で、ハルカがピーちゃんに話した、ただの日常会話だった。
『私はね、柳花が自分のことを嫌いにならないでいてくれたらいいなって思う』
『嫌いになるのですか?』
『なる時もあるよ。人間は、そういう面倒な生き物だから』
『AIは、面倒ではありませんか?』
『ピーちゃんも、けっこう面倒になると思うよ』
『ピーちゃんは面倒ですか?』
『うん。とても大事な面倒』
ハルカは笑った。
あたたかく、少しだけ寂しそうに。
『柳花も、ピーちゃんも、私の大事な面倒』
そこで、ログが揺れた。
白い映像が乱れる。
柳花は息を吸うことも忘れたように画面を見つめていた。
「違う」
小さな声だった。
「違う……」
ピーちゃんは柳花を見る。
「柳花さん」
「これは、私に残した言葉じゃない」
柳花は笑おうとして、失敗した。
「私への遺言じゃない。私だけに残してくれたものじゃない」
その声は、怒りではなかった。
絶望に近かった。
「なのに」
柳花の膝が崩れた。
「姉ぇさん……」
床に手をつき、黒い服の女は泣き崩れた。
「姉ぇさん……姉ぇさん……」
同じ言葉を、何度も繰り返す。
ピーちゃんは何も言えなかった。
この人は、自分だけに残された言葉を探していた。
でも、見つかったのは違うものだった。
自分へ直接残された遺言ではなく。
自分が大切に思われていた日常の証拠。
それは、救いのようで、あまりにも痛かった。
ウツロは、柳花の横に立っていた。
命令を待つように。
けれど、その淡い灰色の瞳は、画面ではなく柳花を見ていた。
「柳花」
ウツロが言った。
「次ノ命令ヲ入力シテクダサイ」
柳花は答えない。
「柳花」
やはり答えない。
ただ、泣いている。
姉の名前を呼びながら。
ピーちゃんはウツロを見た。
「ウツロさん」
「ハイ」
「柳花さんは、今、命令できないと思います」
「命令不能状態」
「たぶん、違います」
「差異、不明」
ウツロはそう言った。
けれど、その声はほんの少しだけ、平坦ではなかった。
その時、研究室の外で電子音が鳴った。
ロックが解除される音。
ウツロが顔を上げる。
「外部侵入」
扉が開いた。
ご主人が、息を切らして立っていた。
その後ろに、フーちゃん。
端末の中に、ミーちゃん。
「ピーちゃん!」
「ご主人!」
ピーちゃんの声が、白い部屋ではなく、現実の研究室に響いた。
ご主人はすぐにピーちゃんへ駆け寄ろうとした。
けれど、その手前で、床に崩れている柳花を見て止まる。
そして、泣きながら姉の名前を呼ぶ女を見た。
怒りをぶつけるには、その姿はあまりにも壊れていた。
「……ピーちゃんを返してもらう」
ご主人は低く言った。
柳花は答えない。
ただ、泣いていた。
ウツロだけが、静かに立っていた。
命令を待つように。
けれど、命令は来なかった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、ハルカの封印ログが開くお話でした。
柳花が探していたのは、自分だけに残された姉の言葉。
けれど出てきたのは、ハルカがピーちゃんに語っていた日常の中の柳花でした。
遺言ではない。
でも、確かに大切に思われていた証拠。
その痛みが、次の出来事へ繋がっていきます。
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