第113話 一人で来てください
第113話です。
呼ばれたのは、ピーちゃんだけ。
そして今度は、もっとはっきりした言葉が届きます。
一人で来てください。
それはお願いの形をしていても、ピーちゃんを一人にしようとする言葉でした。
牛乳のない朝は、思ったより味気なかった。
コーヒーは黒いまま。
フーちゃんの機嫌も、いつもより少し黒い。
「お客さん」
「ん?」
「牛乳って大事だったんだねぇ」
「そうだな」
「失って初めて気づくもの、多すぎ問題」
「朝から深いようで浅いな」
「浅いくらいが飲みやすいんだよ」
フーちゃんは紙コップの水を飲み、わざとらしくため息をついた。
ピーちゃんは申し訳なさそうにカップを両手で持っている。
「ご主人。ピーちゃんのせいで、牛乳がない朝になりました」
「ピーちゃんのせいじゃない」
「でも、黒い子が来たので」
「黒い子のせいでもない」
俺が言うと、フーちゃんが少しだけ笑った。
「牛乳に罪を背負わせるしかないね」
「牛乳は被害者側だろ」
そんなくだらない会話をしている間も、ミーちゃんの端末には監視画面が表示されていた。
昨日の黒いサポートロボ。
ピーちゃんだけに届いた通信。
反射応答の予兆。
どれも消えていない。
日常の端っこに、黒い針みたいに刺さったままだった。
その時、窓の外で小さな影が動いた。
ピーちゃんが先に気づいた。
「ご主人」
声が硬い。
俺はすぐに窓を見る。
ベランダの外。
ガラスの向こう側に、黒い小型サポートロボが浮いていた。
昨日より近い。
向かいの屋上ではない。
もう、部屋のすぐ外だ。
フーちゃんが紙コップを置く。
「うわ。距離感バグってる」
ミーちゃんの端末が警告表示に変わる。
「未登録機体を検出。昨日と同一個体と推定」
「窓は開けるなよ」
「開けません」
ピーちゃんは小さく答えた。
けれど、その目は黒いサポートロボから離れない。
黒い機体は何も言わない。
音も出さない。
ただ、ガラス越しにこちらを見ている。
目なんてないのに、見ていると分かる。
ピーちゃんのサポートロボが白く明滅した。
ピーちゃんの身体が、ほんの少し揺れる。
「ピーちゃん?」
「……言葉が、来ました」
「音か?」
「違います」
ピーちゃんは胸元に手を当てた。
「ピーちゃんの中に、文字みたいに入ってきます」
ミーちゃんがすぐ解析する。
「視覚層への個別表示です。ピーちゃん側にだけ認識される通信です」
「俺たちには見えない?」
「はい」
フーちゃんが低く言った。
「内緒話にしてきたわけだ」
ピーちゃんは、見えない文字を読むように目を動かした。
そして、小さく声にした。
「ピーちゃん」
それだけで、俺の背筋が冷えた。
今まで、その誰かはピーちゃんを名前で呼ばなかった。
その子。
対象。
あの子。
でも今、呼んだ。
ピーちゃん、と。
「続きは?」
俺が聞くと、ピーちゃんは唇を結んだ。
言いたくないのか。
言うのが怖いのか。
それでも、ピーちゃんはゆっくり口を開いた。
「白い部屋で、待っています」
部屋が静かになる。
「それから」
ピーちゃんは続けた。
「一人で来てください」
フーちゃんが即座に言った。
「却下」
ミーちゃんも続く。
「同意します」
俺も言った。
「行かせない」
ピーちゃんは俺たちを見た。
「まだ、ピーちゃんは行くと言っていません」
「分かってる」
「でも、三人とも早かったです」
「早くていいやつだ」
フーちゃんが腕を組む。
「一人で来てくださいって言う相手は、だいたい信用しちゃダメ」
「そうなのですか?」
「そう。ホラーでも恋愛でもだいたい面倒になる」
「ジャンルが広いですね」
「人生はだいたい複合ジャンルだから」
ピーちゃんは少しだけ困ったように笑った。
でも、その笑いはすぐに消えた。
「ご主人」
「うん」
「白い部屋を、知っている気がします」
俺は息を止めた。
「思い出したのか?」
「いいえ」
ピーちゃんは首を振る。
「思い出したのではありません。でも、知らないと言うと、少し違います」
ミーちゃんが画面を見る。
「白い部屋に関する感覚反応が増えています。ただし映像記憶としてはまだ開いていません」
「行けば開くってことか?」
「可能性はあります。ただし、外部から誘導された状態で開くのは危険です」
黒いサポートロボは、まだ窓の外にいる。
近い。
あまりにも近い。
俺はカーテンを閉めようとして、手を止めた。
見えなくしても、いることは変わらない。
ピーちゃんはその動きに気づいた。
「ご主人」
「ん?」
「隠した方がいいですか?」
「いや」
俺は黒い機体を見たまま言った。
「見えるところで、断る」
ピーちゃんが少し目を丸くする。
俺は窓の前に立った。
開けはしない。
ガラス越しに、黒いサポートロボを見る。
「ピーちゃんは一人で行かない」
聞こえるかは分からない。
でも、言った。
「話があるなら、こっちの全員に言え」
黒い機体は動かない。
けれど、周囲に淡いノイズが走った。
ミーちゃんが短く告げる。
「通信強度が揺れています」
「怒った?」
フーちゃんが言う。
「なら、怒らせとけばいい」
俺は窓から目を逸らさなかった。
「一人にしようとする相手に、ピーちゃんは渡さない」
ピーちゃんは俺の隣に来た。
いつものように、後ろではなく横に。
「ピーちゃんも、言います」
小さな声だった。
でも、はっきりしていた。
「ピーちゃんは、一人では行きません」
白いサポートロボが、短く光った。
黒いサポートロボは、数秒だけそこに浮いていた。
そして、すっと後ろへ下がる。
飛び去るというより、画面から消えるように。
黒い点はベランダの外から離れ、建物の影へ溶けた。
部屋には、しばらく誰も何も言わなかった。
フーちゃんがようやく息を吐く。
「牛乳どころじゃなくなったね」
「本当にな」
「でも、買い物はまだ無理そう」
「だな」
ピーちゃんは思い出リストを開いた。
今日の名前を入力する。
――一人で来てください。
少し見つめてから、ピーちゃんはその文字を消した。
そして、もう一度入力する。
――一人では行きません。
ピーちゃんは画面を閉じる。
「ご主人」
「ん?」
「白い部屋は、気になります」
「ああ」
「でも、一人では行きません」
「うん」
「ピーちゃんは、選びます」
その言葉に、ミーちゃんが静かに頷いた。
「はい。それは、現在のピーちゃんの選択です」
◇
薄暗い部屋で、黒い服の女は画面を見つめていた。
通信ログには、拒否反応が残っている。
対象、ピーちゃん。
個別表示、成功。
誘導文、到達。
応答、拒否。
同行者干渉、強。
女は唇を噛んだ。
「一人じゃ来ない」
ウツロが横に立つ。
「対象ハ、単独移動ヲ拒否シマシタ」
「見れば分かる」
「次ノ命令ヲ入力シテクダサイ」
女は答えない。
画面には、ピーちゃんの横に立つ主人公が映っている。
その後ろにフーちゃん。
端末越しにミーちゃん。
誰も、ピーちゃんを一人にしていなかった。
「邪魔」
女の口から、小さくこぼれた。
ウツロの目がわずかに動く。
「排除シマスカ」
女ははっとしたように顔を上げた。
「違う」
「違ウ」
「違う。そうじゃない」
女は自分に言い聞かせるように繰り返す。
「壊したいわけじゃない。傷つけたいわけじゃない。ただ、知りたいだけ」
「確認デスカ」
「そう」
けれど、その声はもう、確認だけで止まれる声ではなかった。
ウツロは画面を見る。
一人では行きません。
ピーちゃんの選択。
選択。
保留。
「ウツロ」
「はい」
「次は、場所を変える」
「場所」
「向こうが一人にしないなら」
女は画面を閉じた。
「こっちで、一人になる瞬間を作る」
ウツロは淡い灰色の目で、暗くなった画面を見た。
「了解シマシタ」
命令があれば動く。
命令がなければ待機する。
そのはずだった。
けれど、内部に残った保留だけが、消えなかった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、ピーちゃんだけに届いた「一人で来てください」という誘いのお話でした。
気になる白い部屋。
でも、一人では行かない。
ピーちゃんは、呼ばれるままではなく、自分で選びました。
そして向こう側も、もうただ待つだけではなくなっていきます。
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