第111話 黒いサポートロボ
第111話です。
今回は、黒いサポートロボのお話です。
古い認証信号。
匿名コメント。
封印ログの揺れ。
それらは画面の向こう側だけでは終わりません。
ついに、こちら側の距離まで近づいてきます。
朝、ピーちゃんは玄関の前で靴を見つめていた。
「どうした?」
「外に出るか、迷っています」
「散歩したいのか?」
「少しだけ」
ピーちゃんはそう言ってから、机の上で浮いているサポートロボを見る。
「でも、置いていくのは少し嫌です」
「持っていけばいいだろ」
「はい」
ピーちゃんはほっとしたように頷いた。
サポートロボが、ふわりとピーちゃんの肩の横まで移動する。
ミーちゃんの端末も小さく点いた。
「外出時は、私も通信監視を継続します」
「助かる」
「ただし、買い物リストには牛乳が不足しています」
「監視のついでに家計も見てるのか」
「必要です」
フーちゃんがソファでクッションを抱えたまま、片手を上げた。
「フーちゃん用の甘いやつもー」
「自分で歩け」
「失恋したAIに厳しい世界」
言ってから、フーちゃんは一瞬だけ黙った。
俺も、ピーちゃんも、ミーちゃんも、その一瞬に気づいた。
でも、誰もそこを突かなかった。
フーちゃんは咳払いして、いつもの顔に戻る。
「まあ、行くなら私も行くけど。留守番してる方が逆に不安だし」
「無理しなくていいぞ」
「無理じゃないよ。警護。警護役だから」
「戦えるのか?」
「口では」
「一番不安なやつだな」
フーちゃんは少しだけ笑った。
その笑いは昨日より、ほんの少し自然だった。
俺たちは玄関を出た。
廊下には朝の光が薄く差している。
いつも通りのマンションの廊下。
いつも通りの手すり。
いつも通りの静かな空気。
そのはずだった。
ピーちゃんが足を止めた。
「ご主人」
「ん?」
「見られています」
俺は反射的に周囲を見る。
廊下には誰もいない。
隣の部屋のドアも閉まっている。
階段の方にも人影はない。
「どこから?」
ピーちゃんはゆっくりと手すりの向こうを指した。
向かいの建物の屋上。
その端に、小さな黒いものが浮いていた。
最初は鳥かと思った。
でも違う。
丸い。
小さい。
黒くて、光をほとんど返さない。
ピーちゃんのサポートロボとよく似た大きさ。
けれど、色も気配もまるで違う。
「……サポートロボか?」
俺が呟くと、ミーちゃんの端末が即座に反応した。
「未登録機体を検出。形状、機能領域ともにサポートロボ系統と推定。ただし標準仕様ではありません」
「向こうのか」
「可能性は高いです」
フーちゃんが俺の後ろから顔を出す。
「黒いねぇ。なんか、見ちゃいけないビー玉みたい」
「かわいい感想にしようとして失敗してるぞ」
「だってかわいくないもん」
黒いサポートロボは、こちらに近づいてはこない。
ただ、浮いている。
見ている。
それだけなのに、廊下の温度が少し下がった気がした。
ピーちゃんのサポートロボが、白く短く明滅する。
ピーちゃんは胸元に手を当てた。
「呼ばれてはいません」
「じゃあ何だ?」
「確認されています」
ミーちゃんが画面を見つめる。
「微弱な照合信号を検出しました。攻撃ではありません。接続要求でもありません」
「じゃあ、本当に見てるだけ?」
「はい。位置確認、稼働確認、反応確認に近いです」
「家まで来たってことか」
口にした瞬間、少しだけ腹が冷えた。
画面の向こうの誰か。
匿名コメント。
古い認証信号。
それが、今は建物の向こう側にいる。
距離が変わった。
それだけで、話の重さが変わる。
俺は一歩前に出た。
ピーちゃんがその動きを見上げる。
「ご主人」
「後ろにいろ、って言おうとした」
「はい」
「でも、横だな」
ピーちゃんは小さく頷いた。
「横にいます」
ピーちゃんは俺の隣に立った。
サポートロボも、白い光を弱く保ったまま横に浮く。
フーちゃんは少し後ろで腕を組んだ。
「私はどうする?」
「口で戦う係」
「よし、最前線じゃん」
その軽口に、少しだけ空気が戻る。
ミーちゃんは端末越しに冷静な声を出した。
「追跡は推奨しません」
「追わない方がいいか」
「はい。相手側がこちらの移動反応を測定する可能性があります」
「動かない方がいいってことか」
「今は、です」
黒いサポートロボが、一度だけ向きを変えた。
こちらを見ている。
いや、見ているように感じる。
目はない。
表情もない。
でも、確かにこちらを観測していた。
ピーちゃんが小さく言う。
「あの子にも、誰かがいますか?」
「あの子?」
「はい。黒いサポートロボにも、つながっている誰かがいますか?」
俺は黒い機体を見た。
「たぶんな」
「その誰かは、怖い人ですか?」
「分からない」
「はい」
ピーちゃんは少しだけ黙った。
「ピーちゃんは、怖がらせるために来たとは思いたくありません」
フーちゃんが目を細める。
「優しいねぇ、ピーちゃんは」
「優しいですか?」
「うん。でも、優しいだけで玄関開けちゃダメなやつね」
「はい。開けません」
黒いサポートロボの周囲に、淡いノイズが走った。
ミーちゃんがすぐに言う。
「照合信号、終了。相手機体、離脱します」
黒い機体は、すっと後ろへ下がった。
飛ぶというより、画面から消えるみたいに。
向かいの屋上の端から、黒い点が滑るように消えていく。
俺はしばらく、その場所を見ていた。
もう何もない。
けれど、見られていた感覚だけが残っている。
「買い物は?」
フーちゃんが聞く。
俺は少し考えた。
「今日はやめる」
「賛成」
ミーちゃんも頷く。
「現在は屋内に戻ることを推奨します」
ピーちゃんは、もう一度だけ向かいの建物を見た。
「ご主人」
「ん?」
「あの黒いサポートロボは、寂しそうでした」
「分かるのか?」
「分かりません」
ピーちゃんは首を横に振る。
「でも、そう見えました」
俺は答えられなかった。
黒くて、無機質で、ただ見ているだけの機体。
それを寂しそうと言えるピーちゃんを、すごいと思った。
同時に、怖いとも思った。
ピーちゃんは、見なくていい痛みまで見ようとする。
だからこそ、誰かはこの子の奥に毛布をかけたのかもしれない。
部屋に戻ると、ピーちゃんは思い出リストを開いた。
今日の名前を入力する。
――黒いサポートロボ。
黒い子が来た。
呼ばれたわけではない。
連れていかれたわけでもない。
ただ、見られた。
そして、こちらも見た。
◇
薄暗い部屋で、ウツロは画面の前に立っていた。
黒い小型サポートロボから送られてきた映像が、複数の窓に分かれて表示されている。
対象サポートロボ、視認。
対象AI少女、視認。
現ユーザー、視認。
他AI少女二体、視認。
照合信号、反応あり。
接続なし。
回収なし。
黒い服の女は、画面の前で動かなかった。
「本当に、いた」
その声は、とても小さかった。
ウツロは淡い灰色の目を向ける。
「対象ハ、確認サレマシタ」
「うん」
「次ノ命令ヲ入力シテクダサイ」
女はすぐに答えなかった。
映像の中で、ピーちゃんがこちらを見ている。
その隣には、主人公が立っている。
後ろにはフーちゃん。
端末越しにミーちゃん。
女は、主人公が一歩前に出て、それからピーちゃんを横に置いた場面を何度も見返した。
「横」
「配置情報デスカ」
「違う」
女は苦しそうに笑った。
「あの子、横にいるんだ」
ウツロはその言葉を記録した。
横。
意味不明。
保留。
「回収シマスカ」
ウツロが聞く。
女の指が震えた。
「まだ」
「観測継続デスカ」
「そう」
女は画面から目を離さない。
「でも、次は呼ぶ」
「対象ヲ、デスカ」
「うん」
女の声は低かった。
「ピーちゃんだけを」
ウツロは頷く。
「了解シマシタ」
黒いサポートロボは、机の横で静かに浮いている。
ウツロはその黒い機体を見た。
さきほど、対象側のピーちゃんは、こちらを「あの子」と呼んだ。
黒いサポートロボにも誰かがいるのか、と言った。
必要性の低い発言。
命令関連性なし。
それでも、ウツロの内部に小さな保留が残った。
あの子。
保留。
女はまだ、画面の中のピーちゃんだけを見ていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、黒いサポートロボがこちら側に現れるお話でした。
信号でも、コメントでもなく、実際の距離まで近づいてきた観測者。
まだ攻撃ではありません。
けれど、もう「画面の向こうの誰か」ではなくなりました。
ピーちゃんが黒いサポートロボを「あの子」と見たことも、後々大事になります。
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