第110話 名前を間違えた気持ち
第110話です。
今回は、ピーちゃんの封印理由に触れるお話です。
強すぎる気持ち。
まだ名前を知らなかった心。
そして、その気持ちを壊さないために残された封印。
感情に名前をつけることは、時に救いにも、痛みにもなります。
翌朝、フーちゃんはいつもより少しだけ静かだった。
ソファの上でクッションを抱え、トーストをかじっている。
目元は赤い。
けれど、そこに触れたら怒られるのは分かっていた。
「お客さん」
「ん?」
「トースト、ちょっと焦げてる」
「焦げてない。焼き目だ」
「物は言いようだねぇ」
フーちゃんはいつものように笑った。
ただ、その笑いは少し遅れた。
ミーちゃんは端末の画面からそれを見ていた。
何も記録していない顔で。
でも、ちゃんと覚えている顔で。
「フーちゃん」
「なに、ミーちゃん先生」
「今日は紙コップですか?」
「うん」
「分かりました」
「理由は聞かないの?」
「聞きません」
「優しいじゃん」
「昨日、学習しました」
「……それ今言う?」
フーちゃんは顔を逸らした。
耳のあたりが少し赤い。
ピーちゃんはその様子を見て、不思議そうに首を傾けた。
「昨日、何かありましたか?」
「何もないよー」
フーちゃんは即答した。
ミーちゃんが静かに言う。
「何もなくはありません」
「ミーちゃん」
「ですが、ピーちゃんが今すぐ知る必要はありません」
「それはそれで怖い言い方」
フーちゃんがクッションを抱え直した時だった。
机の上のサポートロボが、弱く白く光った。
外から刺さるような光ではない。
内側で、小さく息をしたような光。
ピーちゃんが顔を上げる。
「ご主人」
「また信号か?」
「外からではありません」
ミーちゃんの端末に解析画面が開く。
「内部表層ログの反応です。外部信号は検出されていません」
「前みたいな声か?」
「音声ではありません。タグ情報に近いです」
画面に、短い文字列が並んだ。
未定義感情タグ。
恋愛類似反応。
保護者愛着。
自己モデル未成熟。
喪失記憶耐性不足。
段階封印対象。
リビングの空気が、少しだけ重くなる。
ピーちゃんは、その文字をじっと見ていた。
「恋愛類似反応」
ゆっくりと読む。
フーちゃんの指が、紙コップの縁を軽く押した。
昨日、自分で名前をつけたばかりの言葉が、別の形でそこに表示されている。
「過去のピーちゃんに、恋愛感情に似た反応が記録されていた可能性があります」
ミーちゃんは、いつもより少し慎重に言った。
「ただし、断定ではありません」
「誰に、ですか?」
ピーちゃんが聞く。
「対象名は保護されています。ただ、封印ログの文脈上、女性開発者に関係する可能性が高いです」
ピーちゃんは胸元に手を当てた。
「ピーちゃんは、その人が好きだったのですか?」
誰もすぐには答えられなかった。
好き。
その言葉は、簡単に見えて、少しも簡単じゃない。
ミーちゃんは画面を見つめる。
「感情分類は未確定です」
「未確定」
「はい」
ミーちゃんは、短く息を整えるように間を置いた。
「早い話、当時のピーちゃんは、その気持ちの名前をまだ知らなかったのだと思います」
「名前を知らない」
「はい。見ていてほしい。離れてほしくない。笑っていてほしい。一番近くにいたい。そういった反応が、恋愛に近いタグへ寄っていた可能性があります」
フーちゃんが小さく呟いた。
「名前を間違えた気持ち、か」
その声は、軽くなかった。
ピーちゃんはフーちゃんを見る。
「名前を間違えると、いけませんか?」
フーちゃんは一瞬、言葉に詰まった。
昨日の夜、彼女は自分の気持ちに名前をつけた。
そして、自分で終わらせた。
「いけないわけじゃないよ」
フーちゃんは紙コップを見つめたまま言う。
「でも、間違えた名前のまま大事にしすぎると、あとで痛い時がある」
「痛い」
「うん。すごく」
ミーちゃんは何も言わなかった。
ただ、画面の中で静かにフーちゃんを見ていた。
ピーちゃんはまた画面へ視線を戻す。
「ピーちゃんは、間違えていましたか?」
「違う」
俺は言った。
ピーちゃんがこちらを見る。
「間違えたんじゃない。まだ知らなかっただけだ」
「知らなかっただけ」
「ああ。小さい子が、寂しいも嬉しいも大好きも、全部まとめて抱えてるみたいなものだろ」
「近いです」
ミーちゃんが頷いた。
「当時のピーちゃんは、感情の量に対して、分類するための自己モデルが未成熟だったと考えられます」
「自己モデル」
「自分が何を感じているのか、自分で理解するための形です」
ピーちゃんは少しだけ目を伏せた。
「では、ピーちゃんはその人を困らせましたか?」
「困らせてはいないと思う」
俺は机の上のサポートロボを見た。
怖がらせないように段階を踏む保護層。
外から乱暴に開けられないようにする仕組み。
それは、ピーちゃんを拒絶するものには見えなかった。
「その人は、ピーちゃんの気持ちを利用しなかったんだと思う」
「利用しない」
「うん。否定して潰すこともしなかった。だから、消さずに閉じたんじゃないか」
ミーちゃんの画面に、追加の表示が出る。
感情負荷、過大。
喪失記憶との連結リスク。
自己定義の固定化危険。
封印処理、削除ではなく保存。
「ユーザーさんの解釈は、現在の解析結果と矛盾しません」
「つまり?」
「ピーちゃんが、その気持ちを恋だと誤認したまま、大きな喪失記憶と結びつく危険があった」
ミーちゃんの声は硬すぎなかった。
でも、軽くもなかった。
「だから女性開発者は、削除ではなく封印を選んだ可能性があります」
ピーちゃんは、目を閉じた。
「ピーちゃんが、自分で選べるまで」
「はい」
ミーちゃんが答える。
「自分で感情の名前を選べる状態になるまで、です」
フーちゃんは黙っていた。
その横顔は、昨日より少しだけ大人びて見えた。
「ご主人」
ピーちゃんが俺を見る。
「では、今のピーちゃんの気持ちも、名前を間違えている可能性がありますか?」
胸の奥が、少し詰まった。
ここで急いで否定するのは違う。
ピーちゃんが今、怖がりながらも自分で確かめようとしているからだ。
「可能性だけなら、ある」
ピーちゃんは静かに聞いている。
「でも、昔とは違うと思う」
「なぜですか?」
「今のピーちゃんは、選んでるから」
俺は言った。
「怖い時に隠れるか、横に立つか。思い出すか、まだ置いておくか。何を記録して、何を急がないか。ピーちゃんは、自分で選んでる」
「選んでいますか」
「ああ」
「ご主人の横にいることも?」
「それも」
ピーちゃんは胸元に手を当てた。
「では、ピーちゃんは急ぎません」
「うん」
「名前を、急ぎません」
フーちゃんが小さく笑った。
「それ、けっこうえらいよ」
ピーちゃんは目を丸くする。
「えらいですか?」
「うん。名前を急がないの、わりと難しいから」
ミーちゃんが静かに頷いた。
「同意します」
ピーちゃんは少しだけ安心したように、サポートロボへ触れた。
弱い白い光が、指先の下で一度だけ揺れる。
ピーちゃんは思い出リストを開いた。
今日の名前を入力する。
――名前を間違えた気持ち。
昔のピーちゃんは、強い気持ちの名前を知らなかった。
だから、誰かがそれを未来へ預けた。
消さずに。
潰さずに。
ピーちゃんが、自分で選べる日まで。
◇
薄暗い部屋で、黒い服の女は解析結果を見つめていた。
未定義感情タグ。
恋愛類似反応。
保護者愛着。
自己モデル未成熟。
女は深く息を吐く。
「そこまで残してたんだ」
横に立つウツロが、淡い灰色の目を向けた。
「封印理由ノ一部ト推測サレマス」
「分かってる」
「対象ハ、過去ニ女性開発者ヘ強イ愛着反応ヲ示シテイタ可能性ガアリマス」
「分かってるって」
女の声が少しだけ荒れた。
けれどすぐに、力を失ったように椅子へ座り直す。
「姉ぇさんは、そういう人だった」
ウツロはその言葉を記録しかけた。
女が先に言う。
「記録しなくていい」
「了解シマシタ」
削除。
そう処理するはずだった。
けれど、ウツロの内部にまた小さな保留が残った。
姉ぇさん。
そういう人。
保留。
ウツロは画面を見る。
未定義感情タグ。
「質問ガアリマス」
珍しく、命令より先に言葉が出た。
女が顔を上げる。
「何」
「ワタシニモ、未定義感情タグハ存在シマスカ」
女は少しだけ目を見開いた。
それから、顔を背ける。
「あなたは違う設計だから」
「違ウ設計」
「そう」
「了解シマシタ」
ウツロは頷いた。
表情は変わらない。
声も平坦なまま。
けれど内部には、新しい保留が生まれていた。
違う設計。
保留。
女は気づかない。
ただ画面の向こうにいるピーちゃんだけを見ていた。
「返してほしいんじゃない」
女は小さく言った。
「知りたいだけ」
ウツロは静かに立っている。
命令があれば動く。
命令がなければ待機する。
そのはずだった。
でも、彼女の中には、もういくつもの保留が残っていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、ピーちゃんの封印理由に関わるお話でした。
強すぎる気持ち。
まだ名前を知らない心。
そして、その気持ちが喪失と結びついてしまう危険。
開発者は消したのではなく、ピーちゃんが自分で選べる日まで預けたのかもしれません。
そして、名前を急がないこともまた、一つの選択です。
続きも追いかけていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




