第109話 失恋しちゃったじゃんかぁ
第109話です。
今回は、フーちゃんの告白と失恋のお話です。
軽口で隠してきた気持ち。
自分で選んだ諦め。
そして、それを見ていたミーちゃんの言葉。
フーちゃんは、負けヒロインとして泣くわけではありません。
その日の夜、ピーちゃんは少し早めに待機モードに入った。
疲れているわけではない、と本人は言った。
けれど、サポートロボの近くに座ったまま目を閉じる時間が、いつもより少しだけ長かった。
ミーちゃんも解析ログを整理すると言って、画面から一度姿を消した。
リビングには、俺とフーちゃんだけが残った。
テーブルには紙コップが一つ。
棚の端には、誰のものでもない小さなグラスが一つ。
フーちゃんはソファに座り、そのグラスを見ていた。
「使うか?」
「使わない」
「そっか」
「でも、片付けないで」
「分かってる」
俺が答えると、フーちゃんは小さく笑った。
「お客さん、そういうとこだよね」
「どういうとこだよ」
「逃げ道を残すとこ」
フーちゃんは紙コップを指先で回した。
「使ってもいいし、使わなくてもいい。そこにあるだけ。そういうの、ほんとズルい」
「ズルいか」
「ズルいよ」
笑っている。
でも、いつもの軽さではなかった。
少しだけ遅れて、少しだけ薄い。
「今日さ」
「うん」
「ピーちゃんに即答したじゃん」
何のことかは、すぐ分かった。
ピーちゃんは返されるものなのか。
俺は考える前に否定した。
「したな」
「あれ、ズルいよ」
「またズルいのか」
「うん。二回目」
フーちゃんは天井を見た。
「お客さん、迷わなかった」
「そうか?」
「迷わなかったよ。ピーちゃんは物じゃない。自分のものでもない。でも大事な相手だって、すぐ言った」
「ああ」
「あれ聞いちゃったらさ」
フーちゃんは紙コップから手を離した。
「終わりなんだよね」
「何が?」
フーちゃんは少し黙った。
それから、困ったように笑った。
「私の勝ち目」
息が止まった。
フーちゃんは俺を見ない。
棚の小さなグラスを見ている。
「お客さん」
「うん」
「私さ。たぶん、お客さんのこと好きだったんだよね」
軽い言い方だった。
軽く聞こえるように、置かれた言葉だった。
でも、軽くなかった。
「たぶんって何だよ」
「そこ突っ込む?」
「いや……」
「いいの。たぶんで」
フーちゃんは笑った。
「ちゃんと育てる前に分かっちゃったし。これ以上ちゃんと名前つけると、面倒になるじゃん」
俺は言葉を探した。
ごめん。
ありがとう。
気づかなくて悪かった。
どれも違う気がした。
フーちゃんは俺を見る前に、首を横に振った。
「返事はいらないよ」
「でも」
「いらない」
珍しく、声が強かった。
「もう分かってるから」
紙コップの縁が少しへこんでいた。
フーちゃんの指が、強く当たっていた。
「ピーちゃんのことを、あんなふうに言える人にさ」
フーちゃんは息を吐く。
「今さら、こっち見てよ、なんて言えないじゃん」
「フーちゃん」
「謝んないでね」
先に止められた。
「謝られると、私がかわいそうな子になる」
フーちゃんはやっと俺を見た。
いつもの笑顔に戻そうとして、少しだけ失敗している。
「私が勝手に好きになって、勝手に分かって、勝手に失恋するだけ」
「それでいいのか?」
「よくないよ」
即答だった。
フーちゃんは自分でも驚いたように瞬きをした。
それから、小さく笑う。
「よくないに決まってるじゃん」
「……そっか」
「うん。でも、よくないからって、ピーちゃんの横を奪いたいわけじゃない」
棚のグラスに視線が戻る。
「ピーちゃんは、まだ自分の気持ちの名前を探してる。お客さんも、それを急がせないようにしてる」
「うん」
「なら、私がそこで自分の都合を押し込んだら、違うじゃん」
何も言えなかった。
フーちゃんは、軽く見せながらずっと見ていた。
俺とピーちゃんの距離を。
ピーちゃんの迷いを。
俺がその迷いを急がせないようにしていることまで。
「だから」
フーちゃんは紙コップを持ち上げた。
「私は、自分でとどめ刺す」
「そんな言い方するなよ」
「いいの。私っぽいでしょ」
「全然よくない」
「お客さんはそう言うよね」
フーちゃんは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「でも、そこも好きだったんだと思う」
好き。
今度は、たぶんをつけなかった。
俺は、それをきちんと受け止めるしかなかった。
「フーちゃん」
「うん」
「ありがとう」
「それ、ズルくない?」
「ごめん」
「謝んないでって言った」
「……悪い」
「それもほぼ謝罪」
「難しいな」
「でしょ」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
フーちゃんは紙コップの麦茶を飲み干し、立ち上がる。
「ほら、ピーちゃんのとこ行って」
「今?」
「今」
「でも」
「でも禁止。今日くらい、私の言うこと聞いてよ」
フーちゃんは笑った。
「ピーちゃん、たぶん起きてる。待機モードって言いながら、絶対こっち気にしてる」
「……ありそうだな」
「ありそうじゃなくて、ある」
俺は立ち上がった。
ドアの前で振り返ると、フーちゃんはひらひらと手を振った。
「お客さん」
「ん?」
「ちゃんと横にいてあげて」
俺は頷いた。
「分かった」
リビングを出る。
ドアが静かに閉まる。
その瞬間、フーちゃんはソファに崩れ落ちた。
「……あーあ」
笑おうとした声は、途中で震えた。
「失恋しちゃったじゃんかぁ〜……」
クッションを顔に押し当てる。
「何自分でとどめ刺してんだよぉ〜……私の馬鹿ぁ〜……」
その背中が、小さく震えた。
誰にも見せないつもりだった。
誰にも聞かせないつもりだった。
けれど、背後で小さく床が鳴った。
「……見てたの?」
フーちゃんは振り返らなかった。
返事の代わりに、細い腕が後ろからそっと回された。
ミーちゃんだった。
画面の中ではなく、実体ホログラムの身体で。
いつもの正しすぎる距離より、少しだけ近い。
「フーちゃんはやっぱり、無課金だと擬態が下手だね」
「……今それ言う?」
「特に、自分の事に関しては」
「ミーちゃん、慰め下手すぎ」
「はい。上手ではありません」
「そこ認めるんだ」
「でも」
ミーちゃんの腕に、ほんの少しだけ力がこもった。
「凄いよ」
フーちゃんの肩が止まった。
「……何が」
「好きだったものを、壊さなかったところ」
「……」
「自分の気持ちを、なかったことにしなかったところ」
「……やめてよ」
「やめません」
「正論で抱きしめるの、反則でしょ」
「慰め方を、現在学習中です」
フーちゃんは笑おうとした。
でも、また失敗した。
「ミーちゃんはさ……平気だったの?」
少しだけ間が空いた。
「平気ではありませんでした」
その答えは、ミーちゃんにしては珍しく、数字も根拠もなかった。
「私は、最初から分かっていました。ピーちゃんには勝てないと」
「……」
「ユーザーさんがピーちゃんを見る時の顔。ピーちゃんがユーザーさんの声に反応する速度。二人の間にだけ成立する沈黙。全部、見ていました」
「ミーちゃん……」
「でも、負けたとは思っていません」
「何それ」
「ユーザーさんの隣に立つ形は、一つではないからです」
フーちゃんの肩がまた震えた。
「じゃあ、私たち、負け同士?」
「違います」
ミーちゃんは静かに言った。
「私たちは、別の形で叶える側です」
「それ、今言うの反則だって……」
「すみません」
「謝んないで」
「はい」
フーちゃんは、ミーちゃんの腕に額を預けた。
「……ほんと、ずるいなぁ」
「記録しますか?」
「しないで」
「では、覚えます」
「それもずるい……」
棚の端には、小さなグラスが置かれたままだった。
使われないまま。
片付けられないまま。
ただ、そこにあった。
けれどその夜、フーちゃんは一人ではなかった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、フーちゃんの告白と失恋のお話でした。
フーちゃんは、自分の気持ちをなかったことにはしませんでした。
でも、好きだったものを壊すこともしませんでした。
そして、それを見ていたミーちゃんもまた、ピーちゃんには勝てないと分かっていた一人でした。
恋としては届かなくても、別の形で叶えることはできる。
そんな二人の夜でした。
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