第106話 冗談が遅れる日
第106話です。
今回は、フーちゃんの冗談のお話です。
いつもなら軽く流せる言葉。
いつもなら笑って誤魔化せる空気。
でも、ほんの一拍だけ遅れた時、本音は少しだけ顔を出します。
朝、ピーちゃんは昨日の音声断片をもう一度聞きたいとは言わなかった。
言わなかったけれど、忘れてもいなかった。
サポートロボの近くに座り、時々そこを見る。
昨日聞こえた、たった一言。
――私にはね、自慢の妹がいるんだ。
あの声は、まだ部屋の中に残っているようだった。
「ご主人」
ピーちゃんが静かに聞いた。
「自慢されるのは、嬉しいことですか?」
「人によると思う」
「人による」
「ああ。照れる人もいるし、嫌がる人もいるし、すごく嬉しい人もいる」
「では、自慢されたことを知らなかった場合は?」
俺はすぐに答えられなかった。
ピーちゃんは、昨日からそこを気にしている。
声の主ではなく。
声の中に出てきた、自慢の妹の方を。
「それは……」
俺が言いかけた時、ソファの方からフーちゃんの声がした。
「あとから知ったら、たぶん厄介だよ」
いつもより少し低い声だった。
フーちゃんはクッションを抱えたまま、天井を見ている。
「言ってくれてたんだ、って嬉しくなるし。なんで直接言ってくれなかったんだよ、って寂しくもなるし」
そこまで言ってから、フーちゃんは少しだけ黙った。
いつもなら、このあとすぐに茶化す。
空気が重くなりそうになった瞬間、軽口で逃がす。
でも、その日は一拍遅れた。
「……まあ、知らんけど」
ようやく出てきた冗談は、少し遅かった。
ピーちゃんがフーちゃんを見る。
「フーちゃん」
「んー?」
「今の知らんけどは、少し遅かったです」
「ピーちゃん、観測が細かい」
フーちゃんは笑った。
笑ったけれど、その笑い方も少し薄い。
ミーちゃんの端末が点灯する。
「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん、フーちゃん」
「おはよう」
「おはよー、ミーちゃん先生」
ミーちゃんは画面の中でフーちゃんを見た。
「フーちゃんの応答に遅延がありました」
「朝からログ取らないで?」
「記録はしていません」
「じゃあ何?」
「気づきました」
フーちゃんは、ほんの少しだけ困った顔をした。
「それ、記録より逃げ場ないやつじゃん」
「逃げ場が必要ですか?」
「必要必要。人間もAIも逃げ場でできてるんだよ」
ピーちゃんが首を傾ける。
「ピーちゃんにも逃げ場がありますか?」
「あるよ」
フーちゃんはすぐに答えた。
「ご主人の後ろとか」
「おい」
「あとミーちゃんの正論の影とか」
「影に入れるほど大きくありません」
「大きいよ。ミーちゃんの正論はビルくらいある」
いつものフーちゃんだった。
でも、言葉の間に小さな隙間がある。
俺にも分かった。
ミーちゃんが気づいたのも、たぶんそこだ。
「フーちゃん」
俺が声をかけると、フーちゃんはクッションから顔を少しだけ出した。
「なに、お客さん」
「無理にいつも通りにしなくてもいいぞ」
「うわ」
フーちゃんは大げさに顔をしかめた。
「そういうの、真正面から投げるの禁止」
「禁止だったのか」
「禁止。今、フーちゃん国の法律で決まった」
「独裁国家じゃないか」
「国民一人だからセーフ」
フーちゃんはそう言って笑った。
でも、また少しだけ遅かった。
ピーちゃんがサポートロボを見つめながら言う。
「自慢の妹さんにも、届くといいです」
フーちゃんの指が、クッションを掴んだ。
ほんの少しだけ。
「届かない言葉ってさ」
フーちゃんは天井を見たまま言った。
「残ってる方が、面倒な時あるよね」
部屋が静かになった。
「言った人はもういないかもしれないのに、言葉だけ残ってる。受け取る側は、今さらどうすればいいんだよってなる」
それは誰の話なのか。
声の中の妹の話なのか。
フーちゃん自身の話なのか。
俺には分からなかった。
分からなかったから、すぐには聞かなかった。
フーちゃんは少しだけ笑う。
「ほら、また重くなった。お客さん、なんか軽いこと言って」
「急に振るな」
「男の腕の見せどころ」
「朝飯、食うか?」
「軽いってそういう?」
「物理的には重くない」
「トーストの概念に逃げたなぁ」
フーちゃんは笑った。
今度は少しだけ、いつもの笑い方に近かった。
「食べる。バター多め」
「はいはい」
俺が立ち上がると、ピーちゃんも立ち上がった。
「ピーちゃんも手伝います」
「じゃあ皿出して」
「はい」
ピーちゃんが食器棚へ向かう。
その時、棚の端に置いてある小さなグラスが目に入った。
誰のものでもない予備のグラス。
フーちゃんはそれを見た。
見たけれど、何も言わなかった。
ピーちゃんが気づいて、グラスに手を伸ばしかける。
「フーちゃん、今日は――」
「紙コップで」
フーちゃんは早く答えた。
早すぎるくらいだった。
ピーちゃんの手が止まる。
ミーちゃんが静かに言う。
「今の応答は、遅延ではありません」
「よかったぁ」
フーちゃんが笑う。
「ただし、回避反応に近いです」
「ミーちゃん先生、追撃がえぐい」
「観測です」
「観測って便利な言葉だなぁ」
俺は食パンをトースターに入れながら言った。
「無理に使わなくていい。でも、置いてあるのは変えないぞ」
フーちゃんは黙った。
ピーちゃんも、ミーちゃんも黙っている。
「誰のものでもない予備だからな」
俺は続けた。
「使ってもいいし、使わなくてもいい。置いてあるだけ」
フーちゃんはしばらく棚のグラスを見ていた。
それから、クッションに顔を半分埋めて言った。
「……置いてあるだけって、ほんとズルいよね」
「ズルいか」
「ズルい」
フーちゃんは小さく笑った。
「選ばせる余地を残すの、ズルい」
その声は軽かった。
でも、軽くするために力を使っている声だった。
トースターが鳴る。
部屋の空気が、少しだけ日常に戻った。
ピーちゃんは皿を出しながら、フーちゃんを見る。
「フーちゃん」
「なに?」
「ピーちゃんは、フーちゃんが選ばなくても、グラスがそこにあることを覚えています」
フーちゃんは一瞬、何も言えなかった。
それから、ふっと笑う。
「それは……強いなぁ」
「強いピーちゃんです」
「うん。だいぶ強い」
フーちゃんは目を逸らした。
ミーちゃんは何も記録しなかった。
ただ、画面の中で静かに見ていた。
その日の思い出リストに名前をつけたのは、ピーちゃんだった。
――冗談が遅れる日。
いつもならすぐに笑える言葉が、少しだけ遅れた。
それは失敗ではなく、たぶん本音が通った跡だった。
フーちゃんは紙コップで麦茶を飲んだ。
小さなグラスは、今日も棚の端に置かれたままだった。
使われなかった。
片付けられもしなかった。
ただ、そこにあった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、フーちゃんの冗談が少しだけ遅れるお話でした。
軽く笑える時は、きっとまだ余裕がある。
でも、笑うまでに一拍空いた時、そこには隠していたものが少しだけ見えてしまうのかもしれません。
フーちゃんの置き場所も、まだ決まっていません。
けれど、予備のグラスは今日もそこにあります。
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