第105話 自慢の妹
第105話です。
今回は、封印ログの奥からこぼれた小さな声のお話です。
名前はまだ分からない。
顔もまだ見えない。
それでも、そこには誰かを大切に思っていた温度が残っていました。
朝、ピーちゃんはサポートロボに向かって小さく頭を下げていた。
「ありがとうございます」
突然の礼に、俺は味噌汁を吹きそうになった。
「朝から誰にお礼言ってるんだ」
「毛布の人です」
「毛布の人」
「はい。閉じ込める鍵ではなく、毛布かもしれないので」
ピーちゃんは真剣だった。
昨日、俺たちはピーちゃんの奥にある読めない保護層について話した。
それはただ閉じ込める鍵ではなく、怖がらせないために残されたものかもしれない。
フーちゃんが言った毛布という例えを、ピーちゃんはずっと気にしていたらしい。
「名前も分からない相手に礼を言うのか?」
「はい」
ピーちゃんはサポートロボに触れた。
「分からなくても、怖くないようにしてくれたなら、ありがとうです」
その瞬間、サポートロボが短く白く光った。
昨日よりも弱い。
でも、確かに光った。
ピーちゃんの指先が止まる。
「……今」
ミーちゃんの端末が即座に点灯した。
「微弱反応を検出しました」
「外部信号か?」
「違います。内部側の表層ログ反応です」
「表層ログ?」
「封印領域の外側に残っている、断片的な反応です。深部には接触していません」
ピーちゃんは息を止めていた。
サポートロボの周囲に、淡い光が薄く広がる。
映像ではない。
文字でもない。
ただ、空気の中に小さな音が落ちるように、誰かの声がした。
『私にはね、自慢の妹がいるんだ』
部屋が止まった。
声は、それだけだった。
若い女の人の声。
柔らかくて、少し笑っているような声。
でも、それはすぐに消えた。
ピーちゃんは、指先をサポートロボに置いたまま動けなかった。
「今のは……」
俺が呟くと、ミーちゃんが静かに答える。
「音声断片です。再生時間、一・八秒。発話者不明。内容は、妹に関する発話」
「発話者不明……」
「はい。深部情報は保護されています」
フーちゃんがソファから身体を起こしていた。
いつもの軽口は出ない。
クッションを抱える手だけが、少し強くなっている。
「自慢の妹、かぁ」
フーちゃんは小さく言った。
「それ、すごく普通の言葉なのに、妙に刺さるね」
ピーちゃんはゆっくり顔を上げた。
「ご主人」
「うん」
「ピーちゃんは、その人を知っていますか?」
「分からない」
正直に言うしかなかった。
ピーちゃんは自分の胸元に手を当てる。
「懐かしいとは、少し違います」
「怖いか?」
「怖くありません」
ピーちゃんは首を横に振った。
「でも、胸の奥が静かになりました」
「静か?」
「はい。誰かが笑っていた場所を、遠くから見た感じです」
俺は何も言えなかった。
たった一・八秒。
それだけの声だった。
なのに、その声には生活の匂いがあった。
研究とか、管理とか、命令とかではない。
誰かが誰かを、少し誇らしげに話していた声。
「ユーザーさん」
ミーちゃんが言う。
「この断片は保存します。ただし、深部への追加接触は推奨しません」
「分かってる。無理に開けない」
俺が答えると、ピーちゃんも頷いた。
「ピーちゃんも、無理に開けません」
フーちゃんが少しだけ笑う。
「えらい。毛布は一気にはがすと寒いからね」
「はい。少しずつです」
ピーちゃんはサポートロボを見つめる。
「その人には、自慢の妹がいたのですね」
「ああ」
「妹さんは、嬉しかったでしょうか」
その問いに、俺はすぐ答えられなかった。
言われた本人が、それを知っていたかどうかも分からない。
知らなかったかもしれない。
届かなかったかもしれない。
そう考えると、ただ優しいだけの断片ではなかった。
「分からないな」
俺は言った。
「でも、もし届いてたら、嬉しかったんじゃないか」
ピーちゃんは静かに頷いた。
「届くといいです」
「誰に?」
「自慢の妹さんに」
その言葉は、部屋の中に柔らかく残った。
◇
薄暗い部屋で、黒い服の女が椅子から立ち上がった。
画面には、検出された表層ログ反応が表示されている。
音声断片。
発話内容。
自慢の妹。
女の唇が震えた。
「……もう一度」
ウツロが淡い灰色の目を向ける。
「再生シマスカ」
「もう一度」
「了解シマシタ」
短い音声が流れる。
『私にはね、自慢の妹がいるんだ』
女は机に手をついた。
強く。
指先が白くなるほど強く。
「……嘘」
声がかすれていた。
ウツロは表情を変えない。
「発話内容ハ、妹ニ関スル肯定的評価デス」
「分かってる」
「該当者ヲ検索シマスカ」
「しなくていい」
女はすぐに言った。
それから、画面を睨む。
「そんなの、私しかいない」
ウツロは黙った。
命令がないから。
女は画面の音声波形を見つめたまま、笑った。
泣きそうな顔で。
「姉ぇさん……」
小さな呼び名がこぼれた。
ウツロの内部に、また保留が生まれる。
姉ぇさん。
自慢の妹。
保留。
「ウツロ」
「はい」
「あの中に、まだある」
「封印領域内ニ、追加情報ガ存在スル可能性ハ高イデス」
「私に残したものが」
「断定デキマセン」
「ある」
女は強く言った。
その強さは、願いに近かった。
「あるはず」
ウツロは女を見る。
「回収シマスカ」
女は答えなかった。
長い沈黙のあと、低く言う。
「まだ」
「保留デスカ」
「そう。まだ、保留」
けれど、その目はもう昨日までと違っていた。
ただ観測している目ではない。
欲しいものを見つけてしまった人間の目だった。
◇
夜、ピーちゃんは思い出リストを開いた。
今日の名前は、迷わなかった。
――自慢の妹。
誰かが、誰かを自慢していた。
その声は短くて、名前も分からなくて、何も説明してくれなかった。
でも、そこには確かに温度があった。
「ご主人」
「ん?」
「ピーちゃんは、いつかその人のことを思い出しますか?」
「分からない」
「はい」
「でも、思い出す時は一緒にいよう」
ピーちゃんは俺を見る。
「一人ではなく?」
「ああ。一人ではなく」
ピーちゃんは少しだけ笑った。
「では、怖くありません」
サポートロボは静かに浮いている。
もう光らない。
けれど、あの短い声だけは、部屋のどこかにまだ残っていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、封印ログの表層からこぼれた小さな声のお話でした。
「自慢の妹」
たったそれだけの言葉。
けれど、その一言は、ピーちゃんの部屋にも、遠くの誰かの部屋にも届いてしまいました。
優しい記憶が、誰かにとっては救いにも痛みにもなる。
そんな気配が少しずつ濃くなっています。
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