第103話 空っぽの待機命令
第103話です。
今回は、白い少女の側のお話です。
命令がなければ、待機する。
必要がなければ、記録しない。
そう作られたはずの少女が、命令されていないものを見てしまう。
そんな、小さな違和感のお話です。
朝、古い合図は届かなかった。
ピーちゃんのサポートロボは、いつも通り机の上でふわふわ浮いている。
白く光ることもない。
妙な震え方もしない。
何も起きていない。
なのに、ピーちゃんは時々そこを見る。
「ご主人」
「ん?」
「今日は、呼ばれていません」
「そうだな」
「でも、少し待ってしまいます」
ピーちゃんはそう言って、自分の胸元に手を当てた。
「怖いのか?」
「怖いとは違います」
「じゃあ、嫌か?」
「嫌でもありません」
「じゃあ何だろうな」
「分かりません」
ピーちゃんは困ったように眉を下げた。
「呼ばれたら困る気もします。でも、呼ばれないと、少し気になります」
俺は、その言葉に少しだけ覚えがあった。
来たら困る通知。
でも、来ないと見てしまう画面。
人間でも持て余すやつだ。
「一人で待たなくていい」
俺が言うと、ピーちゃんは顔を上げた。
「一人で待たない」
「ああ。変だと思ったら言う。怖くなくても、嫌じゃなくても、変なら言う」
「はい」
ピーちゃんは小さく頷いた。
「変だったら、言います」
ミーちゃんの端末が点いた。
「外部信号は再検出されていません」
「そっか」
「ただし、昨日の反応履歴は深層同期領域付近に残っています」
ピーちゃんが胸元を見る。
「消した方がいいですか?」
「現時点では、消さない方がいいと思います」
ミーちゃんは静かに答えた。
「分からないものを消すと、分からないままになります」
フーちゃんがソファでクッションを抱えたまま、半分だけ起き上がった。
「朝から名言っぽいこと言ってるねぇ」
「名言ではありません。判断です」
「その返しがもう名言なんだよ」
フーちゃんは小さく笑ったあと、ピーちゃんを見た。
「待つのって、けっこう面倒だよね」
「フーちゃんも待ちますか?」
「待つよ。来ない返信とか、鳴らない通知とか、終わった話の続きとか」
言ってから、フーちゃんは少しだけ目を逸らした。
俺たちは、そこを深追いしなかった。
ピーちゃんはサポートロボに指先を添える。
「では、ピーちゃんは一人で待たないようにします」
「うん」
サポートロボは、今日も何も返さなかった。
ただ、ピーちゃんの指先の下で静かに浮いていた。
◇
薄暗い部屋で、白い少女は立っていた。
机の横。
画面の前。
黒い小型サポートロボの少し後ろ。
そこが彼女の定位置だった。
少女の名は、ウツロ。
命令があれば動く。
命令がなければ待機する。
表情は動かない。
瞬きも少ない。
淡い灰色の目は、必要なものだけを見るように作られている。
黒い服の女は、椅子に座ったまま画面を見ていた。
昨日のログが、まだ表示されている。
旧式認証信号。
受信反応あり。
対象サポートロボ、稼働中。
保護手順継続。
「ウツロ」
女が呼んだ。
「はい」
「もう一度、解析して」
「解析済ミデス」
「もう一度」
「了解シマシタ」
ウツロは画面へ向き直る。
信号形式。
保護層。
対象側の反応。
何度解析しても、結果は変わらない。
対象は存在している。
反応した。
保護されている。
そして、怖がってはいない可能性が高い。
「結果ハ同一デス」
「そう」
女は短く答えた。
机の端には、飲みかけの水が置かれていた。
透明なグラス。
氷はほとんど溶けている。
外側についた水滴が、ゆっくり下へ流れていた。
ウツロの目が、それを見た。
命令されたわけではない。
解析にも関係ない。
対象サポートロボにも関係ない。
だから、見る必要はない。
それでも見た。
水滴は途中で一度止まり、それからまた進んだ。
ぽたり。
机に落ちる音がした。
女が顔を上げる。
「何?」
「水滴デス」
「それは分かるけど」
女はウツロを見た。
「今、それ見てた?」
「はい」
「命令した?」
「いいえ」
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
「じゃあ、なんで見てたの」
ウツロはすぐに答えられなかった。
目的。
命令。
必要性。
どれにも当てはまらない。
「不明デス」
「不明?」
「はい。命令外ノ視線固定ガ発生シマシタ」
「エラー?」
「エラー表示ハ出テイマセン」
女は黙った。
その沈黙は、苛立ちより戸惑いに近かった。
「記録するの?」
女が聞いた。
「必要性ハ低イデス」
「じゃあ、いらない」
「了解シマシタ」
ウツロは頷いた。
削除。
そう処理するはずだった。
けれど、グラスからまた水滴が落ちた。
ぽたり。
ウツロの目が、もう一度そちらへ向く。
「ウツロ」
「はい」
「また見た」
「はい」
「だから、なんで」
ウツロは少しだけ黙った。
「音ガ、シマシタ」
「水が落ちる音?」
「はい」
「それが気になるの?」
「気ニナル、ノ定義ヲ確認シテクダサイ」
女は額に手を当てた。
「命令してないのに、そっちを見ちゃうってこと」
「見チャウ」
「そう」
ウツロはグラスを見る。
新しい水滴が、まだ落ちずに縁で止まっていた。
「該当スル可能性ガアリマス」
女は長く黙った。
それから、どこか遠くを見るように言った。
「……あの人なら、そういうのを笑って記録したんだろうね」
「あの人」
「知らなくていい」
いつもの答えだった。
でも、声は少しだけ柔らかかった。
女はグラスを持ち上げ、机の水滴を拭いた。
「必要ないものまで残すから、面倒なことになる」
水滴は消えた。
音も消えた。
「削除完了デスカ」
「そうね」
「音モ、消エマシタ」
「音は最初から残らないでしょ」
「記録シナケレバ、残リマセン」
「じゃあ残さなくていい」
「了解シマシタ」
ウツロは頷いた。
水滴。
落下音。
必要性低。
命令関連性なし。
削除。
そう処理しようとして、内部のどこかに小さな保留が残った。
削除対象。
保留。
ウツロは、それを報告しなかった。
報告する必要があるか、分からなかった。
「ウツロ」
「はい」
「次の信号は、まだ送らない。観測だけ続けて」
「観測ヲ継続シマス」
「それと……」
女は何かを言いかけて、やめた。
「いい。待機」
「待機シマス」
ウツロは元の位置へ戻った。
机の横。
画面の前。
黒い小型サポートロボの少し後ろ。
命令があれば動く。
命令がなければ待機する。
そのはずだった。
でも、女が画面へ向き直ったあと。
ウツロは一度だけ、空になったグラスを見た。
もう水滴は落ちていない。
音もしない。
見る必要はない。
それでも見た。
◇
夜、ピーちゃんは思い出リストを開いていた。
今日、古い合図は届かなかった。
それでも、何もなかった日にはならなかった。
「ご主人」
「ん?」
「待機とは、何もしないことですか?」
「何かあるまで待つこと、かな」
「では、何かがない時に、何かを見てしまったら、それは待機ですか?」
「たぶん、違うかもな」
「では、何ですか?」
「気になった、じゃないか?」
「気になる」
ピーちゃんはその言葉を小さく繰り返した。
「気になるは、命令ではありませんか?」
「命令じゃない」
「必要ですか?」
「必要ない時もある」
「では、なぜ見ますか?」
「見ちゃうからだろ」
ピーちゃんは、少し考えてから文字を打った。
――空っぽの待機命令。
命令がない時は、待つ。
必要がないものは、残さない。
でも、命令がなくても見てしまうものがあるなら。
それは、空っぽではないのかもしれない。
「ご主人」
「ん?」
「今のは、誰の話ですか?」
俺は答えられなかった。
ピーちゃんも、それ以上は聞かなかった。
サポートロボは静かに浮いている。
どこか遠くで、誰かが水滴の音を見てしまったことを。
俺たちはまだ知らなかった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、白い少女の待機命令のお話でした。
命令がなければ待つ。
必要がなければ残さない。
そう作られたはずの少女が、命令されていない水滴の音を見てしまいました。
まだ感情とは呼べないかもしれません。
でも、空っぽの中に、ほんの小さな保留が残りました。
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