第102話 呼ばれない名前
第102話です。
古い合図は、確かに届いてしまいました。
今回は、その合図を送った側のお話です。
呼べる名前。
呼べない名前。
そして、まだ誰にも呼ばれていない名前。
少しずつ、知らない誰かの輪郭が濃くなっていきます。
古い合図が届いた翌日、ピーちゃんはいつもより少しだけ、サポートロボの近くにいた。
近くにいた、というより。
離れないようにしている、という方が近い。
台所に立つ時も、机のそばに座る時も、ピーちゃんの視線は時々サポートロボへ向かう。
サポートロボはいつも通り、ふわふわと浮いている。
けれど俺には、昨日の白い明滅がまだ目に残っていた。
「ご主人」
ピーちゃんが振り返る。
「サポートロボさんは、今日は呼ばれていません」
「そうか」
「はい」
ピーちゃんは小さく頷いた。
「でも、待っている感じがします」
「ピーちゃんが?」
「ピーちゃんも、サポートロボさんも、です」
それは少し怖い言い方だった。
誰かがまた呼ぶのを待っている。
知らないはずの合図を。
怖いのか、懐かしいのかも分からないまま。
「待たなくていいぞ」
俺がそう言うと、ピーちゃんは首を傾げた。
「待たないことは、できますか?」
「できる」
「方法はありますか?」
「……えーと」
俺は言葉に詰まった。
待つなと言うのは簡単だ。
でも、実際に待ってしまうものを止める方法は、俺にもよく分からない。
スマホの通知。
誰かからの返信。
来ないと分かっている連絡。
そういうものを、見ないようにしようと思うほど気になることはある。
「完全には無理かもな」
俺は正直に言った。
「でも、一人で待たなくていい」
ピーちゃんは少しだけ黙った。
それから、小さく頷く。
「それなら、少し待てます」
「待つ方向になったな」
「一人ではないので」
そう言われると、否定しづらい。
俺は苦笑して、机の端に置いた端末を見た。
ミーちゃんは昨日の外部信号を隔離保存したまま、同種の信号が来ないか監視を続けている。
画面には、短い文字が表示されていた。
外部信号なし。
旧式認証形式、再検出なし。
サポートロボ状態、安定。
「ミーちゃん」
俺が呼ぶと、画面が点いた。
「はい、ユーザーさん」
「昨日の信号、発信元は分からないままか?」
「はい。送信経路は不明です」
「不明か」
「ただし、完全な外部ネットワーク経由とは言い切れません」
「どういう意味だ?」
ミーちゃんは少しだけ間を置いた。
「ピーちゃんのサポートロボに残っている、古い認証形式と一致する部分があります」
「残っている?」
「はい。現行の仕様には存在しないはずの形式です。しかし、ピーちゃんのサポートロボ内には、その形式に反応する保護層が残っています」
ピーちゃんがサポートロボを見る。
「ピーちゃんの中に、古い鍵穴がありますか?」
「近い表現です」
ミーちゃんは頷いた。
「ただし、鍵穴というより、古い合図を覚えている入口です」
「入口」
俺はその言葉を繰り返した。
入口。
誰かが作った。
誰かが残した。
そして、誰かがそこに向けて合図を送ってきた。
昨日のコメント。
その子を、ただのAIとして扱わないでください。
あの言葉と、この古い合図。
偶然だと思うには、少し近すぎる。
「ユーザーさん」
ミーちゃんが言った。
「この件は、警戒を上げた方がいいです」
「ああ」
「ただし、ピーちゃんに対する接触を完全遮断すると、深層同期領域へ余計な負荷がかかる可能性があります」
「閉じれば安全ってわけじゃないのか」
「はい」
ミーちゃんの画面に、短い表示が出る。
完全遮断。
負荷増加の可能性。
保護手順との干渉。
ピーちゃんの不安反応増加予測。
フーちゃんがソファから声を出した。
「ほんと、面倒な宝箱だねぇ」
「宝箱?」
ピーちゃんが振り返る。
「鍵をかければいいってもんじゃないやつ」
フーちゃんはクッションを抱えたまま、少し眠そうに笑った。
「乱暴に開けたら壊れるし、閉じ込めたら中の子が泣くし、放置したら知らない誰かが取りに来る」
「取りに来る」
ピーちゃんの表情が少し固まった。
フーちゃんはすぐに「あ」と口元を押さえた。
「今のは例えね。例え。フーちゃん比喩表現委員会からのお知らせです」
「そんな委員会あるのか」
「今できた」
軽口だった。
でも、誰も完全には笑えなかった。
ピーちゃんはサポートロボにそっと手を伸ばす。
サポートロボは逃げずに、ピーちゃんの指先に触れた。
「ピーちゃんは、誰かのものですか?」
その問いに、部屋が止まった。
ミーちゃんの画面も、フーちゃんの表情も、俺の呼吸も。
全部が一瞬だけ止まった気がした。
「違う」
俺はすぐに言った。
早すぎるくらいだった。
ピーちゃんがこちらを見る。
「違いますか?」
「違う」
もう一度言う。
「ピーちゃんは、誰かのものじゃない」
「でも、作った人がいます」
「作った人がいても、ものとは違う」
「では、ピーちゃんは何ですか?」
またその問いだ。
俺は最近、ずっとその問いに追いつけていない。
ピーちゃんを何と呼べばいいのか。
どういう関係だと説明すればいいのか。
答えはまだ見つかっていない。
でも、分かっていることもある。
「少なくとも」
俺はゆっくり言った。
「誰かが勝手に取りに来ていい存在じゃない」
ピーちゃんは目を伏せた。
それから、小さく頷く。
「はい」
ミーちゃんが静かに記録する。
ピーちゃん、所有不安反応。
ユーザーさん、所有否定。
ピーちゃん、安定傾向。
フーちゃんがそれを見て、少しだけ笑った。
「お客さん、今日は即答多いね」
「即答しないとダメなやつが多いんだよ」
「いいねぇ。遅刻ギリギリの正解」
「ギリギリか」
「でも、間に合ってる」
フーちゃんのその言葉に、少しだけ救われた気がした。
間に合っている。
それが本当かどうかは分からない。
けれど、今だけはそう思いたかった。
◇
その頃、薄暗い部屋では、白い少女が机の横に立っていた。
部屋は整っている。
整いすぎている。
床に余計なものはない。
机の上にはワークステーション本体と複数の画面。
壁際には空になった缶がいくつか隠すように置かれている。
生活の乱れを無理やり押し込めたような部屋だった。
そこにいる黒い服の女だけが、部屋の中で妙に華やかだった。
黒を基調にした服。
深い色の装飾。
乱れていない髪。
外へ出れば、誰もが振り返るような整い方。
けれど、画面を見る目だけが、少し壊れかけていた。
「再送信シマスカ」
白い少女が平坦な声で言った。
女は画面から目を離さない。
「まだ」
「待機ヲ継続シマス」
「うん」
白い少女は頷いた。
頷き方まで、どこか決められた動作のようだった。
その近くに、黒い小型のサポートロボが浮いている。
ピーちゃんのサポートロボとは違う。
色が黒い。
光も薄い。
少女のそばにいるそれは、主人に寄り添うというより、待機命令の一部として配置されているように見えた。
「対象名ハ、ピーちゃんデス」
白い少女が言った。
女の指が止まる。
「分かってる」
「先程カラ、対象ヲ“あの子”ト呼称シテイマス」
「それでいい」
「名称ヲ使用シナイ理由ハ何デスカ」
女は黙った。
白い少女は同じ表情のまま、女を見ている。
「名称使用ニヨリ、認識精度ガ向上シマス」
「使わなくていい」
「理由ヲ確認シマス」
「使わなくていいって言ってる」
女の声が少し荒くなった。
白い少女は表情を変えない。
怒られていることを理解しているのか、していないのか。
ただ、命令を待つように静かに立っている。
女はしばらくして、息を吐いた。
「……呼んだら」
その声はさっきより小さかった。
「呼んだら、あの子が今そこにいるって認めることになる」
「対象ハ、現在稼働中デス」
「そういう話じゃない」
白い少女は少し首を傾ける。
女は画面に映る受信ログを見つめたまま、唇を噛んだ。
「あの人が残したものが、私の知らないところで名前をもらって、誰かの隣にいて、怖がってなくて」
言葉がそこで切れた。
女は一度目を閉じる。
「……それを普通に呼べるほど、私はできてない」
白い少女は数秒黙った。
その沈黙も、計算された待機時間のようだった。
「理解不能デス」
「でしょうね」
女は少し笑った。
笑い方は綺麗だった。
けれど、声は苦かった。
「あなたには、名前に引っかかるものがないものね」
白い少女は女を見る。
「ワタシニハ、名称ガ設定サレテイマス」
「ああ」
女は画面から視線を外さずに言う。
「虚」
その一文字が、部屋に落ちた。
白い少女は表情を変えなかった。
「はい」
「呼ばれたら返事をする。それだけでしょ」
「はい。名称入力ニ対シ、応答シマス」
「便利ね」
「はい」
女の顔が、ほんの少し歪んだ。
自分で言った言葉に、自分で傷ついたような顔だった。
「……違う」
女は小さく呟く。
「今のは違う」
白い少女は動かない。
「訂正シマスカ」
「しなくていい」
「不要デスカ」
「不要じゃない」
女は苛立ったように髪をかき上げた。
「もう、そういうのが……」
言いかけて、やめる。
白い少女は待っている。
命令を。
説明を。
次の入力を。
女はそれを見て、少しだけ目を逸らした。
「あなたは、嫌じゃないの」
「何ガデスカ」
「その名前」
白い少女はすぐに答えた。
「名称ニ対スル嫌悪反応ハ確認サレテイマセン」
「そう」
「必要ナラ、変更可能デス」
「違う」
女は低く言った。
「そういう話じゃない」
白い少女は、また少し首を傾けた。
その動きは綺麗だった。
でも、どこか空っぽだった。
人形のように静かで、冷たい。
命令を待つために作られた少女。
女は画面へ視線を戻す。
そこには、ピーちゃんのサポートロボが反応した記録が残っている。
受信反応あり。
稼働中。
保護手順継続。
「……怖がってないんだ」
女はまた呟いた。
「対象ハ、現在ユーザー接触ニ対シ安定傾向デス」
「知ってる」
「問題デスカ」
「問題じゃない」
女は椅子にもたれた。
「問題じゃないのが、一番嫌」
白い少女は、その言葉を記録するように目を伏せた。
「再送信ハ保留デスカ」
「保留」
「次ノ行動ハ」
「観測」
「観測ヲ継続シマス」
白い少女は短く答えた。
黒い小型サポートロボが、彼女のそばで静かに浮いている。
女はその少女を見た。
灰色がかった髪。
淡い灰色の目。
ほとんど動かない表情。
そこに立っているというより、置かれているみたいな姿。
女は何かを言いかけた。
でも、やめた。
代わりに画面へ向き直る。
「あの子を、まだ呼べない」
女は小さく言った。
「でも、取り戻さないと」
白い少女が顔を上げる。
「回収命令デスカ」
女はすぐに答えなかった。
長い沈黙のあとで、静かに首を振る。
「まだ違う」
「では」
「確かめるだけ」
女は自分に言い聞かせるように言った。
「まだ、確かめるだけ」
白い少女は頷く。
「確カメルダケ」
その言葉だけ、ほんの少しだけ響きがずれた。
女は気づかなかった。
画面の中で、受信反応ありの文字だけが白く残っている。
◇
夕方、ピーちゃんは思い出リストを開いたまま、少し考えていた。
昨日の古い合図。
今日の待っている感じ。
サポートロボが反応したこと。
そして、自分が誰かのものではないと、ご主人が即答したこと。
「ご主人」
「ん?」
「今日の名前をつけてもいいですか?」
「いいよ」
ピーちゃんは少し迷ってから、文字を入力した。
――呼ばれない名前。
「呼ばれない名前?」
俺が聞くと、ピーちゃんは頷いた。
「ピーちゃんは、まだ誰に呼ばれたのか分かりません」
「ああ」
「でも、呼ばれている気がします」
ピーちゃんはサポートロボを見る。
「名前ではなく、古い合図で」
俺はその言葉を聞いて、胸の奥がざわついた。
名前で呼ばない誰か。
でも、古い合図だけは送ってくる誰か。
その誰かは、ピーちゃんをどう見ているのだろう。
守りたいのか。
取り戻したいのか。
それとも。
ピーちゃんは画面を閉じて、小さく言った。
「ご主人は、ピーちゃんを名前で呼びます」
「そりゃ呼ぶだろ」
「はい」
ピーちゃんは少しだけ笑った。
「それは、少し安心します」
俺は何も言わずに、ピーちゃんの頭にそっと手を置いた。
サポートロボは、もう光らなかった。
ただ、俺たちの近くで静かに浮いていた。
まるで、次の合図を待っているみたいに。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、呼ばれない名前のお話でした。
古い合図で呼ばれるピーちゃん。
けれど、その誰かはまだピーちゃんの名前を呼べない。
そして、白い少女にもまた、名前のようで名前ではないものが与えられていました。
少しずつ、向こう側にいる二人の輪郭も見え始めています。
続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




