第9話 正体
翌日
仕事にまったく集中できなかった。
生徒たちから言われた言葉がぐるぐると鎖のように体中を縛っているようだった。
仕事でもミスを連発して周りの同僚から注意されてばかりだった。
定時になり私は一目散に会社を後にした。
向かうはエルミナ先生の研究室。
そこに行って部屋を一目だけでも見してもらえればすべてがわかる。
異世界研究と精神干渉の研究室が同じ部屋の様相ではないだろう。
先生は部屋を見してくれるだろうか。
きっと事情を説明すれば見してくれるはず。
それでこの体を縛っている悩みも解放されるのだ。
正門から入り学院内にある地図の看板を見て旧校舎の位置を確認する。
旧校舎の扉は解放されていて誰でも入れるようになっていた。
そのまま先生の部屋がある場所まで行く。
廊下で出会うだろうか、先生は部屋にいるだろうか。
不安なのか期待なのかわからない思いで胃がキューっと縮まった。
廊下は静かで足音一つしない。
世界に自分一人だけが存在しているような気がする。
恐るおそるドアノブを握る。
鍵がかかっているはず。心のどこかで鍵がかかっていてほしいと望んでいる自分がいる。
ドアノブはそのまま力をかけた方向に回り、ガチャと音がした。
扉は開いた。
部屋に一歩足を進める。
本の香りが鼻を突いた。
壁の両サイドには天井まで本棚が立てられていた。
本棚を埋め尽くすように本がしまわれている。
さすが研究者と言ったところである。
部屋は整理されており中央にソファが1対とそれに挟まれるように机が置かれている。
その奥の窓際に先生が普段研究で使っているであろう机と椅子があった。
部屋は無人のようだった。
鍵をかけていなかったのは偶然なのか。
私は先生に試されているのだろうか。
さらに2歩3歩と足を進める。
窓際には脳の断面図が書かれた大きなポスターが貼られているのが見える。
複数枚のポスターはすべて脳の断面図でそれぞれ脳の部位に矢印が引かれており文字が書き込まれている。
文字は読めるが専門用語で何を意味するのか分からない。
昨日の生徒との会話を思い出す。
「異世界からこちらに転移したのが事実なら言葉や文字は違ったと思います。
でも今話してみて保護官さんは私たちでも区別がつかないくらい流暢に話されています。
それはおかしくないですか。」
文字が違うのは一目瞭然だ、私の世界のどの文字とも違う形をしている。
それでも私には理解できるし読める。
昔から慣れ親しんだ母国語のように読める。
私が話している言葉もそうだ。最初に守衛室で目が覚めたとき豹の獣人の警備員が話す言葉にまったく違和感がなかった。
文字が違うのに言葉が同じということはあるのか。いやそんなことはない。
昨日彼らから指摘をされるまでそんな基本的なことすらわかっていなかった。
なぜ私は文字が読めて異国の言葉を流ちょうに話せるのか。
そしてそのことを彼女は一切指摘しなかった。
10代の生徒が指摘したことをその道の研究者だと言った彼女は指摘しなかったのだ。
でもこの部屋を見てそれがわかった。
彼女は異世界の研究などしていない。
脳の研究をしている。
中央のソファを通り過ぎて窓際の机の前に辿り着いた。
1人用の机と1脚の椅子。先生がそこに座り研究や思索をしている姿が容易に想像できる。
その机の中央に一冊の手帳が置いてあった。
サイズはA5サイズで手よりも大きいが片手で十分に持てる大きさ。
表紙は本革で黒色、もともと厚みがあるが長年使いこまれたことで内部の紙がふやけさらに厚みが増している。
その手帳を手に取る。
重さ、手触り、使い込まれたからこそ醸し出す独特の香り。
間違えるわけがない。
元の世界で日記帳として私が毎日使っていた手帳だ。
彼女のエルから”マメだね”とか”手帳大きすぎ”と言われた光景を思い出す。
なぜこれがここにあるのかわからない。
先生は何者なのか。
ページを開くと一枚の写真が机に落ちた。
裏を上にして落ちた写真だがそれが何かすぐにわかる。
忘れるわけがない。
写真をめくる、そこには私とエルが肩を寄せ合って笑顔で写っていた。
背後から音がして振り返った。
そこにはエルミナ先生が立っていた。
彼女は口を開け目を見開きとても驚いていることがわかった。
彼女の視線は私の顔ではなく手に持っている手帳に向いているようだった。
彼女はよろよろと歩いてソファに腰かけた。
私も彼女の対面に座るようにソファに腰かけた。
「なぜあなたが私の手帳を持っているんですか。」
”元の世界の”と付け加えなくてもわかるだろう。
「あなたがエル、柏木エルなのか?」
彼女はしばらく沈黙した後静かに頷いた。
雰囲気が似ていると思っていたら本人だったとは。
確かに彼女があのまま歳を取ったらエルミナ先生のようになるだろうと思っていた。
それでもわからないことがある。
彼女がボツりと言った。
「10年・・・10年かかりました。」
”何に”と聞きたかったが私の意識がそれを拒否した。
これ以上は聞いてはいけない。
いますぐ部屋を出て遠くに逃げるべきだと言っている。
しかしそれと同じくらい聞きたいという気持ちがあった。
私の足は動かなかった。
「あなたを創るのに10年かかりました。」
彼女の頬には涙が流れていた。
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