血の匂いがする焼き肉
「ん……」
意識の底から這い上がると、見慣れない岩の天井が目に飛び込んできた。
(ここは……)
瞬きを繰り返し、ぼやける視界を凝らす。辺りにはむき出しの岩肌しかない。どうやら洞窟の中のようだ。
視線を動かすと、すぐ側に小さな焚き火が揺らめいていた。
そしてその反対側、視界の端に転がっている「何か」を見た瞬間、ヴァンの心臓が跳ね上がった。
――数時間前、自分を殺しかけたあの『巨虎』の生首だ。
ヴァンは息を呑み、這いずるようにして背後の壁へ身を寄せた。悲鳴は上げない。極限状態の理性が、音を立てるなと本能に警告していた。
冷たい汗を流しながらよく観察すると、そこにあるのは首だけで、巨躯の胴体はどこにもない。
少し落ち着きを取り戻して自分の体を確認すると、上着はそのままだったが、裂傷を負った左腕には清潔な布が硬く巻き付けられている。鼻を近づけると、ツンとする薬草の匂いがした。
(応急処置がされている……。誰かが、助けてくれたのか?)
その疑問に答えるように、洞窟の入り口から重い足音が響いてきた。
ヴァンは即座に息を殺し、壁際に身を潜めて警戒態勢をとった。
入ってきたのは、全身に返り血を浴び、簡素な獣皮を纏った身長二メートルはあろう巨漢だった。
緑色がかった肌、尖った耳、そして下顎から突き出した鋭い牙。
顔つきこそ人間に近いが、明らかに「人間」ではない存在。現代のファンタジー知識に当てはめるなら、『オーク』あるいは『ハーフオーク』と呼ばれる種族だろう。
相手はヴァンが目を覚ましているのを見ると、一瞬だけ視線を向けたが、特に警戒するでもなく無造作に歩み寄ってくる。
片手には血の滴る生肉の塊を提げていた。
巨漢は焚き火の傍にどっしりと腰を下ろすと、腰から骨製のナイフを抜き、肉をぶつ切りにして木の棒に突き刺し、火にかざし始めた。
その一連の動作には、ヴァンの存在など最初から気にしていないかのような、徹底した無関心が漂っている。
ヴァンは壁にもたれたまま、痛む左腕を庇うように抱え、炎に照らされる相手の横顔を静かに窺った。
その時、肉を裏返そうとした相手が、ふと微かに顔を動かした。
暗い洞窟の中で、静かに、鋭く澄んだ光を放つ一対の『緑の瞳』。
(……あ)
ヴァンは微かに息を呑んだ。間違いない。あの巨大な獣に殺されかけた時、薄れゆく意識の底で最後に見た光景――自分を救い、見下ろしていたあの瞳と同じだ。
(じゃあ、彼があの獣を倒して、僕をここまで運んでくれたのか? この腕の薬草も、彼が……?)
そう気づいた瞬間、警戒で極限まで強張っていたヴァンの体から、ふっと余分な力が抜けた。
目の前にいるのは「得体の知れない化け物」ではなく、紛れもない「命の恩人」なのだ。
相手への認識が変わり、少しだけ周囲を見渡す余裕が生まれた、その時。
ふと視界の端に、見慣れたものが映り込んだ。
洞窟の隅に、自分が持っていたスーパーのレジ袋が無造作に置かれている。
ヴァンは痛む体を庇いながら立ち上がり、ゆっくりと袋のそばへ歩み寄って中を確かめた。ハーフオークはこちらの動きに気づいていたようだが、特に気にする素振りも見せなかった。
缶入りのオレンジジュースはひどくへこんでいたが、中身は無事だ。トマトも一つは完全に潰れ、もう一つはパックリと割れていたが、まだどうにか食べられそうだ。
そして袋のすぐ横には、ヴァンのスマートフォンも転がっていた。しかし、画面は蜘蛛の巣のようにバキバキに砕け散り、完全に沈黙している。
(あの獣に吹き飛ばされた時の衝撃で壊れたのか……)
黒く潰れた画面を見つめていると、不意に、最後に見た姉からのメッセージが脳裏をよぎった。
(結局、返事……出せなかったな)
胸の奥にチクリと小さな後悔が走ったが、電波もないこの森ではどうせ使い物にならない。それよりも、自分が気を失った後、彼がわざわざこれらを拾い集めてくれたのだろうか。
どれほどの時間が経っただろうか。
ハーフオークが立ち上がり、表面が真っ黒に焼け焦げた肉を、無言でヴァンに差し出してきた。
「……これを、僕に?」
相手が理解できるか分からないが、ヴァンはとりあえず穏やかなトーンで礼を言った。
「ありがとうございます」
肉を受け取ると、彼はまた無言で焚き火の傍に戻り、自分の分の肉を焼き始めた。
ヴァンは手の中の肉を見つめ、空腹をなだめ、体力を回復させるために意を決してかぶりついた。
「……ッ」
次の瞬間、あまりの不快感にヴァンの顔が歪んだ。
(なんだ、これ……っ)
血の鉄臭さと獣特有の生臭さが一切抜けていない。表面は炭のようにパサパサに焼け焦げているのに、中心部はヌルリと生温かい血が染み出す完全な生焼けだ。下処理も、火加減の調整も、塩一つさえない。
ただ「死なないために熱を通しただけ」の、食べ物と呼ぶにはあまりに無慈悲な物体だった。
ヴァンは吐き気を堪え、肉を焼き続けるハーフオークを凝視した。相手はそんなヴァンの葛藤など露知らず、無表情にその「不味そうな塊」を口に運び、淡々と咀嚼している。彼にとって食事とは、ただの生存作業に過ぎないようだった。
(……無理だ。これを飲み込むくらいなら、餓死した方がマシだ)
だが、これほど見事に食材を「冒涜」する光景を黙って見ていることだけは、ヴァンの矜持が許さなかった。
ヴァンは大きく息を吸い込むと、震える足で立ち上がり、足を引きずりながら焚き火の傍へと歩み寄った。
そして、相手が肉を焼いている手を、右手で思い切って掴んだ。
ハーフオークの手がびくりと止まり、鋭い獣の眼差しがヴァンを射抜く。
「その肉、僕に料理させてください」
洞窟の中が、張り詰めた静寂に包まれた。
彼がゆっくりと立ち上がる。見上げるほどの巨躯と強烈な威圧感を前に、ヴァンは冷や汗を流したが、引くわけにはいかなかった。身振り手振りで「自分がやる」と伝える。
数秒の睨み合いの後、彼はナイフを手の中で鮮やかに一回転させると、持ち手の方をヴァンに向けて無造作に差し出してきた。
「……助かります」
ヴァンはナイフを受け取った。だが、いざ肉を切ろうとしても、左腕が使えないため肉を固定できない。
見かねた彼が、無言で肉の端を太い指で押さえてくれた。
その意外な行動に、ヴァンは一瞬きょとんと目を丸くした。
「……ありがとう」
気を取り直し、ヴァンは右手だけで不格好に肉を薄くスライスすると、横に置いてあった自分の荷物を引き寄せた。
袋の中身を取り出し、空になったレジ袋の中に切った肉を放り込むと、そこへへこんだ缶からオレンジジュースを少量注ぎ入れた。
「あの……袋の口を握って、外側から軽く揉んでくれませんか? 優しく、袋が破けない程度に」
ヴァンが頼むと、彼は不思議そうな顔をしながらも、言われた通りに巨大な両手でレジ袋を包み込み、モミモミと不器用に揉み始めた。
(果汁の酸と酵素が肉の繊維をほぐし、浸透圧を利用して内部の生臭い血を外へと押し出していくんだ)
数分後、ヴァンは袋の端から濁った汁を地面に捨てた。それだけでも、肉は見違えるほど綺麗になっていた。
ヴァンはそこへ、潰れたトマトと割れたトマトを両方とも袋の中へ放り込んだ。
「そのままトマトを潰すように、肉と一緒に揉み込んで、少し置いてください」
ヴァンの指示通りに、彼は素直に肉を揉み、漬け込んでいく。
やがて、トマトの旨みが肉にしっかりと絡んだのを見計らい、ヴァンは肉を串に刺し直した。焚き火との距離を慎重に保ちながら、遠火でじっくりと中まで火を通していく。
やがて、洞窟の中にそれまでとは明らかに違う、食欲をそそる良い匂いが漂い始めた。
ヴァンは完璧な焼き色がついた肉を串ごと、隣の彼に差し出した。
「どうぞ。……先ほどよりは、マシになっているはずです」
彼は怪訝そうに肉を受け取ると、恐る恐る口へ運んだ。
「……ッ」
その鋭い瞳が、驚愕に見開かれた。
ジュースの酸味で徹底的に臭みが消え、トマトの旨みが肉の脂と見事に調和している。適切な火加減によって引き出された、解けるような肉の柔らかさ。
彼は信じられないものを見るような目で手元の肉とヴァンを交互に見比べ、貪るように次の肉に手を伸ばした。
ヴァンも自分の分の肉を右手で口に運び、ようやく人心地がついたと安堵の息を吐いた。
やがて、二人がそれぞれの肉をすっかり平らげ、一息ついていた時のことだ。
静寂の中、不意に、地響きのような低い声が響いた。
「……俺の名前だ。カールだ」
ヴァンは呆然と目の前の相手を見つめた。
「……言葉が、通じるんですか」
「ああ」
ごく当たり前のように頷かれ、ヴァンは一瞬、言葉を失った。
「……じゃあ、どうして今まで一言も……」
ヴァンが尋ねると、カールは少し気まずそうに視線を逸らし、ボソリと答えた。
「……怪我、ひどかったから」
「え?」
「話すより先に、肉食わせて寝かせる方がいい」
そのたどたどしい短い言葉に、ヴァンは思わず呆れてしまった。
無言で血の滴る生肉を焼いていたあの威圧的な行動は、彼なりの不器用な気遣いだったらしい。
(なんだ。……ただの、優しいやつじゃないか)
ヴァンはふっと肩の力を抜き、小さく息を吐いた。
「それに……」
カールは空になった自分の手元を見つめ、ポツリと付け加えた。
「肉……美味かった」
それは、ごく短いありふれた一言だった。
だが、裏表のないその真っ直ぐな言葉は、不思議とヴァンの気分をひどく心地よくさせた。
「……僕は白 凡。ヴァンと呼んでくれ」
「ヴァン?」
「ああ。命を救ってくれて、本当にありがとう、カール。……君さえよければ、明日の朝飯も僕が作らせてもらうよ」
その言葉を聞いた瞬間、カールは相変わらずの無表情だったが、尖った長い耳がピクリと嬉しそうに跳ねたのを、ヴァンは見逃さなかった。




