豚の血のスープ
翌朝、ヴァンはカールの後を追い、川沿いをひたすら歩いた。
森の深さは相変わらずだったが、進むにつれて道に人の手が入ったような、わずかな「境界」を感じるようになった。
やがて視界が開け、頑丈な丸太の柵で囲まれた集落が姿を現した。
「……着いた」
カールの短い言葉に、ヴァンは安堵の息を漏らした。そこは、ハーフオークたちがひっそりと、しかし力強く暮らす村だった。
入り口に近づくと、見張りの男がこちらに気づいて歩み寄ってきた。
「おお、カール! やっと帰ってきたか。あれはまさか……?」
男の言葉は、カールの背負う巨大な生首を見てピタリと止まった。
「まさか、本当に一人で仕留めちまうとはな……! さすがだ」
目を丸くして驚嘆の声を漏らした男は、ふとその後ろにいるヴァンに気づき、怪訝な視線を向けた。
「その、後ろの人間は?」
「森で拾った」
カールはそれだけ短く返し、ずかずかと村の中へ進んでいく。
向かったのは、村の奥にある一際大きな家だった。
「おかえりなさい、兄様!」
「……ふん。ようやく戻ったか」
出迎えたのは、カールによく似た面差しを持つ可憐な少女、セヌイ。そして、鋼のような筋肉を纏い、威厳に満ちた中年男性、村長のトゥパカリフだった。
「兄様、その後ろの方は……?」
「怪我人だ。セヌイ、頼む」
「はい、分かりました。ささ、こちらへ」
セヌイの案内で家の中へ入ろうとするヴァンを、トゥパカリフは鋭い視線で射抜くように見つめた。しかし、カールの背負っている巨大な獣の首に気づくと、満足げに重く頷いた。
「よくやった。さすがは俺の息子だ。これで森もまた元の静けさに戻り、家畜の被害も収まるだろう」
* * *
家の中に入ると、セヌイがヴァンの応急処置を解き始めた。手際よく砕いたばかりの薬草をすり込み、清潔な布で包み直していく。
薬草が傷口に触れた瞬間、ひんやりとした感覚と共に、鋭い痛みが嘘のように引いていくのを感じた。
(すごいな……この薬草)
「この薬草はよく効くから、あと数日もすれば手は動かせるようになるわ。でも、包帯を完全に外すにはもう少し時間がかかるからね」
「ありがとうございます。おかげで痛みが随分と和らぎました」
ヴァンが深く息を吐きながら礼を言うと、セヌイはほっとしたようににっこりと微笑んだ。
「よかった。長旅で疲れているでしょうし、今は少し横になって休んでね。今夜は兄様の帰還と、あの恐ろしい獣の討伐を祝って広場で宴が開かれるの。夜になったら呼びに来るから、みんなで一緒にご飯を食べましょう」
「宴……それは楽しみですね。ありがとうございます」
セヌイの温かい気遣いに、ヴァンは自然と穏やかな笑みを返し、彼女の言葉に甘えて静かに目を閉じた。
* * *
その夜。村の広場ではささやかな宴が開かれていた。
広場の中央では一頭の立派な豚が屠られた。ヴァンが驚いたのは、村人たちが非常に手際よく、かつ丁寧に「血抜き」を行っていたことだった。
(……なんだ。みんなはちゃんと下処理ができるんじゃないか)
ヴァンは少し離れた場所で肉を齧るカールを見やり、内心で深く、疲労混じりの溜め息を吐いた。ハーフオークという種族が野蛮なのではない。彼が絶望的に料理に無頓着なだけだったのだ。
捨てられようとしているその大量の豚の血を見て、ヴァンはふとあることを思いつき、歩み寄って声をかけた。
「あの、ちょっと待ってください。その豚の血、捨てずに僕に預けてもらえませんか?」
血を処理していた村人が目を丸くする。
「血を? 構わんが……こんなもの、すぐに固まって生臭くなるだけだぞ。何に使うんだ?」
「大丈夫です。いいものを作りますから」
ヴァンは地面に置いた大きな鍋で新鮮な血を受けると、傍らにいたカールに視線を向けた。
「カール、左腕が使えなくて重いものが持てないんだ。少し手伝ってくれないか」
カールは無言のまま立ち上がり、ヴァンの指示通りに重い水桶を運び、血の十分の一ほどの水を加えさせた。ヴァンはそこに少量の塩を加え、右手だけでそっとかき混ぜる。
それをじっくりと時間をかけて火にかけ、決して沸騰させないように気をつけながら煮て、冷ます。
やがて鍋の中の液体は、まるで豆腐のような、ぷるぷるとした弾力のある赤黒い塊へと姿を変えた。――『豚血』だ。
ヴァンはそれを一口大に切り分け、たっぷりの野菜と豚の端肉と共に、スープに仕立てた。
「さあ、食べてみてください。豚血のスープです」
最初は恐る恐る口にしたハーフオークたちだったが、一口啜るなり、その表情が変わった。
「なんだ、この食感は……! 全く生臭さがないぞ」
「野菜の旨味を吸って、口の中でとろける……。これはいい!」
宴は大盛況だった。
ふと見ると、隣でスープを飲んでいたセヌイが、空になったお椀を持ったまま悩ましげな顔をしている。もう一杯食べたいけれど、躊躇しているような表情だった。
「どうしました?」
「あっ、いえ! すごく美味しいんです。でも……最近、少し体が重くて。お肉ばかり食べすぎると……その」
セヌイは少し恥ずかしそうに言葉を濁した。どうやら、年頃の娘らしく体型を気にしているらしい。
ヴァンは軽く笑って、優しく諭すように説明した。
「大丈夫ですよ。これは血を固めたものだから、普通のお肉よりずっとヘルシーです。鉄分を補って自分の血を綺麗にしてくれるし、体の中の悪いものをスッキリ出してくれる効果があるんですよ。特に、女性にはおすすめの食材です」
「えっ! 体のお掃除……?」
セヌイの表情がぱあっと明るくなった。
「それなら安心ですね! すみません、もう一杯お願いします!」
そんな和やかなやり取りを、トゥパカリフが離れた場所から険しい顔で見ていた。
「……カール。あの男はいったいどこから来た? 言動も服装も、俺が人間の町で見た連中とは全く違うようだが」
「……知らん」
カールは手元のスープを飲み干し、ポツリと答えた。
「だが、悪い奴じゃない。……飯、すごく美味いから」
「飯の話はしていない! まったく……」
村長はぶつぶつと文句を言いながらも、ヴァンの作ったスープをしっかりとお代わりしていた。
* * *
夜も更け、眠りにつく前。ヴァンはトゥパカリフに、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「この近くに、人間が住む町や村はありますか?」
「あるぞ。我々も時折、毛皮や作物を売りにいく町だ。ここから東北へ向かって、人間の足でも一日ほど歩いた場所にある。一本道だから迷うことはない」
トゥパカリフは正確な方角と目印を教えてくれた。ヴァンはその言葉を頭に叩き込み、ようやく安堵の吐息を漏らした。
(傷が塞がったら出発しよう。一日の距離なら、僕の足でもなんとかなるはずだ)
その夜、ヴァンはカールの部屋で寝ることになった。
二メートル近い彼と同じ部屋、同じ床の上。
(……狭い。いくらなんでも圧迫感が異常だ)
カールの地響きのような規則正しい寝息を聞きながら、ヴァンは苦笑いと共に深い眠りに落ちた。
* * *
数日が過ぎ、異世界の薬草のおかげでヴァンの傷が自由に動かせるほどに回復した日の朝。
「大変お世話になりました。これ、恩返しにもなっていませんが……」
村の入り口で、ヴァンはトゥパカリフとセヌイに向かって深く頭を下げた。
村長は「ふん」と鼻を鳴らし、ずっしりと重い袋をヴァンに差し出した。中には干し肉やパンなどの保存食と、いくらかの銀貨が入っていた。
「旅に必要なものだ、持って行け。道中、気をつけるんだな」
「ヴァンさん、道中気をつけてね! またいつでも遊びに来て!」
セヌイの明るい声に見送られ、ヴァンが頭を上げて歩き出そうとした、その時。
背後から、カールが歩いてきた。
そして、ヴァンの横を通り過ぎ、当然のように村の外へと向かって歩き出す。
「……行くぞ」
「え? カール、どこへ行くんだ?」
「一緒に町へ行く。……お前一人じゃ、辿り着く前にまた何かに襲われて死ぬだろう」
唐突な言葉に、ヴァンは「あ?」と少し間の抜けた声を漏らした。
そんなヴァンを見て、横からセヌイがクスクスと笑い声を漏らした。
「兄様も本当に素直じゃないんだから。心配なら、素直にそう言えばいいのに」
その言葉を聞いて、ヴァンはようやくカールの真意を察した。
「……まったく、一緒に行くなら最初からそう言えよ」
ヴァンは苦笑しながら、慌ててカールの背中を追った。




