シノア人
鬱蒼とした森を抜け、開けた街道をひたすら歩き続けることおよそ一日。
空が茜色に染まり、陽が西の山際に沈みかけようとする頃、二人の視界に巨大な石造りの城壁が姿を現した。
「……着いたな。あれが町だ」
城門の前には、町へ入ろうとする荷馬車や旅人たちが列を作っていた。どうやら検問と通行税の徴収が行われているらしい。
やがて二人の番になり、門兵の一人がカールを見るなり気さくに声をかけてきた。
「おお、カールじゃないか! 月末にはまだ少し早いが、今回はどんな良い獲物を持ってきたんだ?」
どうやらカールはこの町で獲物を売り、生活必需品を買い込む習慣があるらしく、門兵とはすっかり顔馴染みのようだった。だが、カールは静かに首を振った。
「……いや。今日は見送りだ」
「見送り?」
門兵は訝しげに眉を寄せ、カールの隣に立つヴァンへ視線を移した。上から下まで、ヴァンの姿を値踏みするようにじっくりと観察する。
「へえ、黒髪とは珍しいな。服も随分と奇抜だが……この辺りじゃまず見かけない顔だ」
門兵の目には、明らかな好奇と、危険人物ではないかと推し量るような警戒の色が混じっていた。
しかし、カールの背後に控え、特に怪しい動きを見せないヴァンの様子を確認すると、門兵は肩をすくめて納得したように頷いた。
「まあ、お前さんが連れてきた身内なら問題ないだろう。入れよ」
門兵の許可に、ヴァンは内心で小さく胸を撫で下ろし、カールの後に続いて城門をくぐった。
石畳のメインストリートに出ると、そこには活気あふれる町の景色が広がっていた。
行き交う人々の姿は多種多様だ。尖った耳を持つエルフ、筋骨隆々で背の低いドワーフ、そしてふさふさとした獣の耳や尾を持つ『獣人』たち。だが、周囲を見渡してみると、やはり最も数が多いのは人間であり、全体の六、七割を占めているように見えた。
歩きながら、ヴァンは周囲からの奇異の視線を感じて少し居心地が悪くなった。現代の洋服は、この世界ではあまりにも異質すぎる。
「カール。とにかく、まずは服を着替えよう。この格好じゃここでは少し浮きすぎているみたいだ」
ヴァンは手頃な雑貨屋を見つけると、この世界の住人が着ているような、簡素で安い中古のチュニックとズボンを見繕って着替えた。ゴワゴワとした麻の感触にはまだ慣れないが、とりあえずこれで無用な注目を集めることはなくなるはずだ。
その後、夕食の買い出しも兼ねて市場の屋台を冷やかしていると、ふと、珍しい香辛料や雑貨を並べている商人の男がヴァンを見て声をかけてきた。
「おや? こりゃまた珍しいな。こんな辺境で『シノア人』を見るなんて」
ヴァンは足を止めた。
「……シノア人?」
聞き馴染みのない単語に首を傾げると、商人は愛想よく笑いながら説明してくれた。
「ああ。昔、俺が商会の下働きで東の果てにある『オレン大陸』まで交易に行った時、あんたみたいに黒髪黒目をした連中をたくさん見たんだよ。あんたもそのクチだろ?」
(この大陸の東に……僕と同じような容姿をした人たちが住む場所がある……?)
「……それは、本当ですか?」
ヴァンの瞳に、わずか一瞬だけにちらっと輝いた、隣に立つカールは静かに見逃さなかった。
「ああ、本当さ。どうした、あんた東から来たわけじゃないのか?」
訝しむ商人に、ヴァンは慌てて微かな笑みを繕った。
「ええ。僕は……ずっとこの辺りで育ったので、そこへは行ったことがないんです」
「ああ、なるほど……」
商人は勝手に『東洋からの移民の孤児』か何かだと解釈したのか、少し同情するような目を向けた。ヴァンはそれ以上深くは語らず、商人に礼を言ってその場を離れた。
「そろそろ夜になる。とりあえず、今日はゆっくり休める宿を見つけよう」
ヴァンがそう促し、二人は目抜き通りから少し外れた場所にある、一階が酒場になっている安宿の一室を取った。
階下の酒場で簡素な夕食を取っている最中、カールが不意に口を開いた。
「……行きたいのか? その、東方の大陸に」
ヴァンはスープをすする手を止め、少し考え込んでから答えた。
「……少しな。でも、本当に行くにしても、今のままじゃ無理だ。地図もルートも分からないし、旅の準備も足りない。……とにかく、明日の朝、道を調べてみよう」
翌朝。
太陽が昇りきると共に、ヴァンとカールは町の中心にある『冒険者ギルド』へ立ち寄った。冒険者になるつもりはなかったが、地理や旅の情報を金で買うなら、荒野を知り尽くした彼らの場所が一番確実だと考えたからだ。
受付の職員に銅貨を何枚か握らせて話を聞くと、東方大陸『オレン』に向かうおおよそのルートが判明した。
「ここから東へ進み、二、三の都市を経由して荒野の辺境にある関所町『アルデン』に辿り着くまでに約十日。そこから先は、東西の大陸を繋ぐ広大な荒野と砂漠地帯『ザルカ天険』が広がっており、いくつかのオアシス都市を経由しながら横断するのに、さらに二ヶ月ほどはかかりますね」
ヴァンはギルドで簡易的な大陸地図を買い求め、外の空気を吸いながら決意を固めた。
(行こう。……一人で)
隣を歩くカールを見やりながら、ヴァンは内心でそう区切りをつけた。
カールには彼の帰る場所がある。ここまで案内してくれた恩人に、これ以上自分の個人的な旅を背負わせるわけにはいかない。資金が尽きたら、どこかの町で日雇いでもして稼げばいい。ゆっくりでも、自分の足で進むべきだ。
別れの覚悟を決めたヴァンは、旅の物資を揃えるために市場へと向かった。
「まずは、野宿のための調理器具だな」
道具屋で、背嚢の底に収まるサイズの小ぶりで厚手の鉄鍋を購入する。
続いて食料だ。ヴァンは小麦粉を中サイズの麻袋で一つ(約二キロほど)買い、さらに日持ちするジャガイモや人参、そして少しばかりの干し肉を買い込んだ。これだけあれば、最悪野草と合わせながら二週間は食いつなげるはずだ。
肉屋の店先を通りかかった時のことだ。血と獣の生々しい匂いが漂う中、店主が赤身肉を切り分けた後、まな板の端によけてある「白い塊」にヴァンの目が留まった。不格好で、誰も買おうとしない純粋な脂身の端材だ。
「すみません、この脂身の切れ端、少し安く譲ってもらえませんか?」
ヴァンが尋ねると、店主は物好きでも見るような目をした後、気前よく銅貨数枚で小さな壺いっぱいの端肉を譲ってくれた。
着々と一人旅の準備が整っていく背嚢の重みを背中に感じながら、ヴァンは帰路の喧騒の中を歩いていた。
ふと視線を上げると、少し前を黙々と歩く、命を救いこの町まで護衛してくれたカールの背中があった。
(……さて。どうやって別れを切り出すか)
ただ「ありがとう」「さようなら」と言うだけでは、少し味気ない。かといって、お涙頂戴の感動的な台詞なんて気恥ずかしくて口に出せないし、どうにも僕の柄じゃない。
歩きながら考えを巡らせていた、その時だった。道の端で、籠に並べられた新鮮な卵を売る行商人の姿が目に入った。
その丸い卵を見た瞬間、ヴァンの頭にふとある考えが浮かんだ。
(……気の利いた言葉が言えないなら、せめて僕なりのやり方で返すか)
「カール、ちょっと待っててくれ」
ヴァンは足を止め、行商人のもとで卵を三、四個ほど買い求めた。
不思議そうに振り返るカールに向かって、ヴァンはいつも通りの落ち着いたトーンで言った。
「よし。宿に戻ろう、カール」
「今夜は裏庭で、少し特別なものを作ってやるよ。新しい鉄鍋の使い勝手も試してみたいしな」




