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とりあえず、飯にしよう  作者:


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緑の瞳

 どれだけ歩いても、視界に広がるのは苔むした巨木とシダ植物ばかりだ。水音は一向に聞こえない。

 スマホのバッテリーを気にして時間を確認する余裕すら、とうに失われていた。

「……景色が全く変わらない」

(堂々巡りをしているのか? それとも、この森が異常に広いだけなのか)

 ヴァンが立ち止まって乱れた息を整えようとした、その時。

 ――ガサッ……バキッ。

 背後の茂みの奥から、重たい何かが枯れ枝を踏み砕く音が聞こえた。

 音自体は小さかったが、静寂の森では心臓を鷲掴みにされるほど響いた。

 誰かいる。いや、『誰か』ではない。

 これだけ長く歩いて人間の気配すら感じなかったのだ。それに、あの足音の重さと歩幅は、明らかに人間の規格に収まっていない。

 逃げろ。

 生物としての本能が、理性を吹き飛ばして警鐘を鳴らした。

 ヴァンは咄嗟に、走る際に中身が暴れないようレジ袋の持ち手だけでなく袋の胴部分ごとギュッと抱え込むように握り直し、振り返ることなく、弾かれたように前へ走り出した。

 彼が動いたのとほぼ同時、背後の『何か』も獲物が逃げたことに気づき、猛烈なスピードで距離を詰め始めた。

 中身を捨てて両手を空ければもっと身軽になるのは分かっていたが、極限状態の思考は「これがないと死ぬ」という執着にすり替わっていた。

 ただひたすら、木の根を飛び越え、枝を払い除けて逃げ続けた。

 だが、背後の存在は邪魔な木々を薙ぎ倒しながら迫り、やがて野獣の荒い息遣いすら背中に感じるほど接近してきた。

(追いつかれる……!)

 圧倒的な質量が、背後から飛びかかってくる気配。

 ヴァンは反射的に地面へ身を投げ出し、枯葉の上を無様に転がって身をかわした。

 その直上を巨大な毛皮の塊が通り過ぎ、前方の太い幹に激突する。

 突撃を空振りした生物が、土煙を上げてゆっくりと振り返った。

 ヴァンは、息を呑んだ。

 その体は、大型の四輪駆動車と見紛うほど巨大だった。全身を赤黒い斑模様の毛皮に包み、四肢には岩を砕きそうな太い爪が備わっている。

 何より目を引くのは、その上顎から下へ向かって伸びる、短剣のように鋭く反り返った二本の長大な牙だ。

 太古の剣歯虎サーベルタイガーをそのまま巨大化させたような規格外の猛獣が、血に飢えた双眸でヴァンをロックオンした。

(もし夢なら、早く醒めてくれ……)

 祈るような思考を切り裂き、巨虎が耳をつんざくような咆哮を上げた。それが決して夢ではないことを証明するように。

 ヴァンは即座に立ち上がり、再び駆け出そうとした。だが――

「ッ……!」

 先ほどの強引な回避で、足首を激しく捻っていた。足に力が入らず、無様に崩れ落ちる。

 その致命的な隙を、捕食者が見逃すはずもなかった。

 獣は瞬時に距離を詰め、ヴァンの脇へ回り込むと、丸太のような前腕と鋭い鉤爪を振り上げて襲いかかってきた。

 完全に避ける時間はなかった。ヴァンは反射的に左腕を顔の前に掲げ、頭部を守る。

 直撃こそ免れたものの、振り下ろされた獣の腕が掠めただけで、トラックに撥ねられたかのような凄まじい衝撃が全身を貫いた。

 ヴァンは枯れ葉のように吹き飛ばされ、地面を転がり、太い木の根に背中から激突した。

「カッ……あ、ぁ……」

 肺から空気が強制的に絞り出され、視界が真っ赤に明滅する。

 必死に起き上がろうとしたが、左腕に全く力が入らない。右手で幹にしがみつき、ようやく上半身を起こした。

 頭を打ったのか、思考がひどく鈍い。

 俯くと、左手首から肘にかけて、鋭利な刃物で深く切り裂かれたような三筋の裂傷が走り、夥しい血が地面にポタポタと滴り落ちていた。

 二十四年の人生で経験したことのない激痛と、強烈な打撃によるひどい痺れ。腕が利かない理由は一目瞭然だった。

 巨大な獣が、血の匂いを確かめるようにゆっくりと近づいてくる。

 長大な牙から、粘り気のある涎が滴り落ちた。

 だがヴァンには、もう顔を上げる力すら残っていなかった。

(ああ……終わったのか)

 ヴァンの心によぎったのは、恐ろしいほどの諦念だった。

 ゆっくりと重い瞼を閉じる。

 暗闇に沈んでいく意識の中で、過去の記憶が脈絡もなくフラッシュバックした。

 そして――最後に暗闇に浮かび上がったのは、記憶の奥底に封印していた、ある女性の顔だった。

 獣が再び咆哮を上げ、止めを刺すべく跳躍する気配がした。

『死にたくない』

(誰か……助けて……)

 ――次の瞬間。

 **ドゴォンッ!!**

 耳をつんざくような凄まじい轟音が森を震わせ、生温かい血飛沫が雨のように降り注いだ。

 その後には、嘘のような静寂だけが残った。

 ヴァンの頬にかかった温かい血が、ゆっくりと顎を伝い落ちていく。

(……痛く、ない?)

 意識が暗い泥に沈んでいく中、ヴァンは最後の力を振り絞り、重い瞼をわずかに押し上げた。

 そこに映ったのは……地面に頭を沈め、完全に絶命している先ほどの獣の姿だった。

 その硬い頭蓋の脳天には、無骨な短剣が柄の根元まで深々と突き刺さっている。

 そして、その傍らには、人間離れした長身の影が立っていた。

 影は無言のまま、獣の頭に刺さった短剣の柄を握り、ズブッと鈍い音を立てて引き抜いた。

 短剣を抜き放ち、ゆっくりと身を起こしたその影。

 ヴァンは焦点の合わない目で、視線だけを上へと動かした。

 目に入ったのは、岩のように隆起した、暗緑色を帯びた肌。

 その影はヴァンの微弱な気配に気づいたらしく、ゆっくりとこちらを振り返った。

 暗闇の中で、静かに、鋭く澄んだ光を放つ一対の緑の瞳。

 それが、ヴァンが完全に意識を手放す直前に見た、最後の光景だった。

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