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とりあえず、飯にしよう  作者:


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7/17

始まりの日

 だるような暑さと、休日の喧騒が行き交う商店街。

 白凡ハク・ヴァンはスーパーのレジ袋を片手に、通りの片隅の木陰で足を止め、スマートフォンを耳に当てていた。

「ねえ、ヴァン。今年の夏、何か予定ある? 有給ゆうきゅう、まだ結構残ってるんでしょ?」

 電話の向こうから聞こえる姉の声。

「……今のところは、特にないけど」

「実はね、子供たちが夏休みに入ったから、明後日から私とお兄ちゃんの家族みんなで実家に帰ろうと思ってるの」

(明後日……)

「田舎で避暑がてら、お盆が終わるまで二週間くらいゆっくりする予定なの。みんなで車で行くから……もしヴァンさえよかったら、一緒に帰ってみない?」

「…………」

「僕は……」

 言葉に詰まるヴァンを察したように、姉の声のトーンが少しだけ柔らかく、そして気遣うような真剣なものに変わる。

「……あの時のこと、まだ気にしてるんでしょ。でもね、ずっと立ち止まったままじゃ、何も変わらないよ」

「……ごめん。その話はまた今度にしよう。じゃあね」

 姉がこれ以上何かを言いかける前に、ヴァンは逃げるように通話を切った。

 小さく溜め息をつき、スマートフォンを握りしめたまま、二度と振り返ることなく歩き出す。

 肌を刺すような夏の日差しの中、大きな交差点の横断歩道に差し掛かり、赤信号で足を止める。すぐ隣には、高校生くらいの少年が立っていた。

 その時、手に持っていたスマートフォンが短く震えた。

 画面に表示されたのは、差出人『姉』からのメッセージだった。

『急な話でごめんね。無理は言わないから、一緒に行くか、今回はやめておくか、気持ちが決まったらメッセージか電話ちょうだいね。

 ――姉より』

 ヴァンは画面を見つめたまま、小さく息を呑んだ。

 ちょうど目の前の歩行者用信号が『青』に変わる。

 隣にいた少年が、小走りで勢いよく横断歩道へと飛び出していった。

 ヴァンは入力欄に親指を置いたまま、(なんて返せばいい……)と迷い、スマホの画面に視線を落としたまま、少年の数歩後ろをゆっくりと歩き出した。

 少年の目の前にある歩行者用信号は『青』。だが、交差する車道側の信号機もまた、不自然に『青』を示していたことに、ヴァンも少年も気づいていなかった。

 ――キィィィィィーッ!

 悲鳴のような急ブレーキの轟音。

 ヴァンが弾かれたように顔を上げた瞬間。

 猛スピードで交差点に突っ込んできた黒いセダンが、数歩先を行く少年の体を無慈悲に撥ね飛ばした。

 鈍い衝撃音と共に、姉とのトーク画面を開いたままのスマホと、レジ袋を握るヴァンの腕に、生温かい『赤い飛沫』がべっとりと飛び散った。

「――ッ!!」

 一拍遅れて、周囲から悲鳴が上がる。

「おい! 大丈夫か!」

「誰か救急車を!」

 セダンのドアが乱暴に開き、血相を変えた運転手の男が飛び出してきた。男は震える手でスマホを耳に押し当てながら、必死に叫んでいる。

「救急車! 早く! 人を、人を轢いちまった……! 血が、すごい血だ!」

 パニックに陥った数人の通行人が野次馬となって駆け寄ってくる。

 ヴァンは足元がふらつき、集まってくる群衆から逃れるようにゆっくりと後ずさりし、歩道脇の電柱に背中を預けた。

(……何が、起きた?)

 頭の奥で、甲高い耳鳴りがガンガンと響いている。目の前で起きた惨劇を、脳がまったく処理できていなかった。

 誰かが一瞬にして宙へ撥ね飛ばされたような、ひどく現実離れした残像だけが網膜に焼き付いている。ただ、自分の腕にべっとりと付着した生温かい飛沫の感触だけが、異常なほどリアルだった。

 遅れてやってきた恐怖とショックで、全身の毛穴からどっと冷や汗が吹き出す。

 ヴァンは焦点の合わない目で、パニックに陥り騒ぎ立てる群衆の姿をぼんやりと見つめた。

(人が、倒れてる……?)

 未だに状況を完全に飲み込めないまま、狂ったように鳴る心臓をどうにか落ち着かせるため、ヴァンは血の付いた腕を強く握りしめ、きつく目を閉じて深く息を吸い込んだ。

 その時だった。

 群衆の中心、血だまりに倒れる少年の体が、うっすらと『淡い緑色の光』を帯び始めた。

 同時に、目を閉じて顔を伏せているヴァンの腕に付着した血痕もまた、共鳴するように極小の光の粒を放ち始める。

「はい、意識はありません! 出血がひどくて……早く来てくれ、場所は――」

 運転手が周囲を見渡し、現在地を伝えようと再び血だまりへと振り返った、その瞬間。

「……え?」

 そこに倒れていたはずの少年の姿が、跡形もなく消え失せていた。

 運転手の男はスマホを耳に当てたまま、間抜けな声を漏らして完全に硬直する。

『もしもし? どうされましたか? もしもし!』

 電話の向こうで救急隊員が必死に呼びかける声だけが、虚しく響いていた。

 一方、電柱に寄りかかっていたヴァンは、きつく目を閉じた暗闇の中で、足元からふっと重力が消失する奇妙な浮遊感を感じていた。

     * * *

(……?)

 先ほどまで周囲に響き渡っていた群衆の悲鳴も、サイレンの幻聴も、車の騒音も、すべてが唐突に消え失せていた。

 代わりに鼓膜を打つのは、ざわわと風に揺れる草木の音と、名も知らぬ鳥の甲高いさえずりだけ。

 ヴァンはゆっくりと重い瞼を開けた。

 そこは、見たこともない鬱蒼とした『森』の中だった。

 街路樹などという次元ではない。幹の太さが数メートルはある巨木が天を突き、空は分厚い枝葉に完全に覆われ、太陽の光すらまだらにしか届かない。

 どの方角を向いても、果てしない樹海が口を開けているだけだった。

「ここは……どこだ?」

 さっきまで交差点にいたはずだ。狂った信号機、黒いセダン、消えた少年。

 周囲を見渡すが、少年の姿はおろか、人の気配すら一切ない。

 状況が全く飲み込めず、心臓が早鐘のように打ち、冷や汗がどっと吹き出す。ヴァンは慌てて立ち上がった。

「誰か……」

 声を張り上げようとしたが、そのか細い声は巨大な木々に吸い込まれ、風に揺れる不気味な葉擦れの音に一瞬でかき消された。

 圧倒的な自然の威圧感を前に、ヴァンは咄嗟に自分の口を塞いだ。

 震える手でスマートフォンの画面を見る。当然のようにアンテナマークには『圏外』の文字。姉とのトーク画面は、通信エラーで更新が止まっていた。

 数秒ほどその画面を凝視した後、ヴァンは自分の頬を指で思い切りつねってみた。

「……痛っ」

 鋭い痛みが、これが悪夢ではないことを無慈悲に証明している。

 パニックに陥りそうになる思考を、ヴァンは両手で顔を覆い、深く、何度も深呼吸を繰り返すことで必死に抑え込んだ。

(落ち着け。冷静になれ。ここで思考を投げ出せば、確実に死ぬ)

 極限の状況下で、持ち前の理性が徐々にブレーキをかけ始める。

 ヴァンは手持ちのアイテムを一つずつ確認した。

 圏外のスマホ、財布。そして右手には、強く握りしめていたスーパーのレジ袋。

 中身は、缶入りのオレンジジュースとトマト。そのまま腹の足しになりそうなのはこれくらいしかない。

 どうする。ここで座って救助を待つか?

 いや、これだけ巨大で鬱蒼とした樹海に、都合よく人間が通りかかる確率などゼロに等しい。日が暮れれば急激に気温は下がり、確実に何かの餌食になる。

 短い沈黙の後。

 ヴァンは両手で自分の頬を軽く叩き、覚悟を決めた。

(動くしかない。まずは『水』だ。川を探す。水脈を辿って下流に向かえば、動物の飲み水場や、最悪でも人間の集落の痕跡が見つかるはずだ)

 バッテリーを節約するため、スマホを超省エネモードに切り替えてポケットの奥深くにねじ込む。

 彼はレジ袋の持ち手をしっかりと握り直し、一つ大きく息を吐くと、足場の悪い深い森の奥へと、慎重に足を踏み出した。

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