古い歌謡
手に入れたばかりの新しい服と防具を部屋に置きに戻る頃には、空はすっかり茜色に染まり始めていた。
日が落ちると共に、町は夕暮れ時特有の温かな喧騒に包まれていく。
二人は一階の酒場に降り、空いている隅の席に腰を下ろして、本日の定食である煮込み肉と黒パンを注文した。
湯気を立てる肉のスープに硬いパンを浸し、柔らかくして口に運びながら、ヴァンはふと思い出したように尋ねた。
「なぁ、カール。明日はどの方角に向かうんだっけ?」
カールは口の中のパンを咀嚼して飲み込むと、ゆっくりと答えた。
「……南東だ」
「次の町までは、どれくらいかかりそう?」
「順調に行けば、四日ぐらいだ」
ヴァンがさらに先の道のりについて尋ねようと口を開きかけた、その時だった。
酒場を包んでいた賑やかなざわめきが、潮が引くようにスッと静まった。
カウンターの横に設けられた小さなステージに、すらりとした長身の影が上がっていた。
月光を思わせる銀白色の髪に、長く尖った耳。腕には使い込まれた木製のリュートを抱えている。ハーフエルフの吟遊詩人だった。
彼が細くしなやかな指先でそっと弦を弾き、音程を合わせる。
次の瞬間、清らかな泉の水が岩肌を滑り落ちるような、ゆったりとした美しい旋律が酒場に響き渡った。
今まで声を張り上げて騒いでいた荒くれ者の客たちでさえ、一斉にステージへ視線を向け、酒をあおる手や会話を最低限に留めていた。
ハーフエルフは静かに目を伏せると、低く、どこまでも伸びるような声で歌い始めた。
リュートの音色に乗せて紡がれるのは、遠い昔、時を超えて語り継がれてきた古い伝説。
『――古の昔、大地は黒く染まり、森は枯れ果てん。触れし生ける者は皆、異形なる怪物へと成り果てし』
『――その絶望の淵。人々の祈りに応え、東の天空より現れしは一柱の神』
その歌声は重厚で、深い寂寥感を帯びてヴァンの胸に響いた。
『――それは翼なき竜。蛇のごとくしなやかな躯に、鹿の角を戴き、魚の髭をなびかせる者』
『――雲をまとい、霧を操りて、天空を悠然と泳ぎゆく』
(……蛇のようにしなやかな体に、鹿の角、魚の髭。おまけに翼がないのに空を飛ぶ竜……?)
ヴァンは歌を聞きながら、手元のカップを見つめて微かに首を傾げた。
この世界の人々が想像する竜とは、太い手足に蝙蝠のような巨大な翼を生やした、西洋の凶悪なモンスターのはずだ。吟遊詩人の語る姿は、それとは明らかに異質だった。
(いや、それは竜じゃない。……『龍』だ)
(龍が、本当に存在するのか? この世界に)
ヴァンは自問し、すぐに内心で小さく息を吐いて結論づけた。
(いや……竜が当たり前にいる世界だ。龍が存在しても、何もおかしくはないか)
『――朝日の光を背に、東の竜と共に降り立ちしは、黒髪黒瞳の使者』
『――竜は己の血肉と魂を礎とし、人の魔術、エルフの叡智、巨人の剛腕、ドワーフの炎を束ねん』
『――種族の壁を越え、打ち鍛えられしは、神なる力を宿す聖なる大槌』
『――黒髪の使者が大槌を振るう時、光は黒き闇を打ち払い、世界に平穏が戻りしが……』
『――光と共に使者は消え、主を失いしハンマーのみが地に残る』
『――それよりこの地の四方の種族は同盟を結び、共に世界を守り抜かん――』
リュートの余韻が静かに空気に溶け込み、長きにわたる英雄譚が幕を下ろす。
束の間の静寂の後、酒場は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。客たちは手を叩き、あるいは杯を掲げ、深い感動を露わにしている。
だが、その熱狂的な拍手の裏で、ヴァンの耳に不穏な囁き声がいくつか紛れ込んできた。
「……おい、聞いたか。南のドワーフの要塞都市が、一晩で襲撃されて甚大な被害を出したらしいぞ」
「冗談だろ。あそこの守りは鉄壁だぞ」
「マジだって。国が滅んだわけじゃねぇが、死傷者の数が尋常じゃないって話だ。あそこへ続く街道も、今は完全に封鎖されてるらしい」
「本当かよ……なら、なんでギルドは注意喚起の一つも出さねぇんだ?」
「情報規制に決まってるだろ。あんな強固な要塞がたった一晩で半壊させられたなんて広まれば、パニックになる」
「くそっ、キナ臭くなってきたな……しばらく南の依頼は避けた方がいいかもしれねぇ」
男たちの言葉はそこで途切れ、再び戻ってきた酒場のざわめきに飲み込まれていった。
(ドワーフの要塞都市が、一夜にして壊滅的な被害を受けた……?)
ヴァンはスープに浸したパンを口に運ぶ手をピタリと止め、密かに思考を巡らせた。
無意識に彼らの会話の続きを探ろうと、少し身を乗り出して耳を澄ませた。
――その瞬間。
背後の死角から、得体の知れない視線がじっとりと突き刺さってくるのを感じた。
「ッ……」
肌が粟立ち、首筋に冷たい刃を当てられたかのような息の詰まる圧迫感。
ヴァンは弾かれたように振り返り、酒場の一番暗い隅を睨みつけた。
だが、そこには何もなかった。
暗い影に沈んだ空のテーブルが一つ置かれているだけで、人の影すら見当たらない。
「どうした?」
ヴァンの様子の変化に気づいたカールが、肉を頬張りながら低い声で尋ねる。
ヴァンはもう一度周囲を見渡し、警戒を解かずにゆっくりと首を横に振った。
「……いや、何でもない。気のせいだろう」
しかし、その頃。
宿屋の裏手にある薄暗い路地では、濃い色のフードを深く被った影が、足音一つ立てずに立ち去ろうとしていた。
深く被ったフードの奥で、一対の『金色の瞳』だけが、獲物を値踏みするかのように闇の中にうっすらと浮かび上がっている。
その影は一度だけ宿屋の窓を一瞥すると、瞬く間に夜の闇へと溶け込んでいった。
* * *
翌朝。
夜明けの光が町を薄っすらと照らし始めた頃、二人は荷物をまとめ、一階へと降りた。
チェックアウトの手続きを済ませ、ヴァンは部屋の古い鍵を女主人の元へ返却する。
「お世話になりました。そろそろ出発します」
ヴァンが穏やかな笑みを浮かべて告げると、女主人は鍵を受け取り、頷いた。
「ええ。道中、くれぐれも気をつけてね」
「はい」
二人はずっしりと重い荷物を背負い直し、宿屋『暁の息亭』の分厚い木扉を押し開けた。
冷たくも清々しい朝一番の風を胸いっぱいに吸い込み、カールが先頭に立って歩き出す。
目指すは南東。二人は新たな旅路へと足を踏み出した。




