本能の警告
ヴァンの「命令」を受け、もともと一触即発だった二人は、完全に固まった。
ハイエナの女は冷や汗を流し、全身の毛が無意識に逆立ち、背筋に寒気すら走った。
おかしい。あまりにもおかしい。本当に、おかしすぎる。
目の前のこの男は、武器を何も持っていない。鋭い牙も爪もなく、見たところ、いかにも簡単に倒せそうだ。ついさっきまで、自分が短剣を首に突きつけていたほどだ。
なのに、なぜ?
彼女は動こうとした。だが、身体がまったく言うことを聞かない。
魔法なのか?身体を拘束する魔法?
あり得ない。この男は魔法使いには見えない。それに、話し始めてから今まで、一度も呪文を唱えていない!自分には魔力の気配さえ感じ取れない。
彼女はすぐに、何かがおかしいことに気づいた。
違う。違うのだ。自分の身体は、魔法の影響を受けているわけではない。
本当に自分を動けなくしているのは、身体の奥底から湧き上がる野生の本能だった。
危険だ!
動くな!
さもなければ――死ぬ!
ハイエナの女は、なおも素早く考えを巡らせていた。
彼女が視線を反対側へ向けると、あの緑色の大男の目つきがおかしいことに気づいた。
目つきが変わっていた。
いったい何が起きている?
さっきの路地での戦いも、つい先ほども、彼の目には戦意が満ちていた。
なのに今、その目は何かを避けるように揺れている。
誰を避けている?入口にいる、あの弱々しい男を?
そんなはずがない。
それとも、自分の判断が間違っていたのか? まさか、目の前のこの男は、実はただ者ではないのか?
自分自身の本能的な反応も、隣にいるあの緑色の大男の異常な様子も――
すべてが、同じことを彼女に告げていた。
今は、絶対に、この男の言葉に逆らってはいけない。
一方――
(……まずい。)
入口に立つヴァンを見ながら、カールの脳裏に過去の記憶がよみがえった。
それは、ヴァンと旅を始めてまだ間もない頃のことだった。
あの日、自分は全身血まみれになり、森で狩った獲物を野営地へ持ち帰った。
普段はいつも穏やかなヴァンが、その時だけは、今と同じ表情を浮かべていた。話し方も今と同じだった。
気づけば、自分はヴァンの前に座っていた。
ああいうヴァンは、好きではない。
なぜヴァンがあんな表情をするのか、自分には分からなかった。なぜ自分があんな反応をしたのかも、分からなかった。
自分は今まで、何かを怖がったことなんて一度もない。どれほど危険な猛獣であろうと、一歩たりとも引いたことはなかった。
なのに、あの時だけは。
あの瞬間、自分は今まで感じたことのないものを感じた――
危機感を。
その後、似たようなことが何度も起こり、ヴァンも次第に慣れていった。今では、ヴァンはせいぜいため息をついたりするくらいだ。
だが、本能に警鐘を鳴らされたような、底の見えないあの感覚を、カールは今でもはっきりと覚えている。
「……ほうきとちりとりは、廊下の一番奥ですよ」
ヴァンが静かに言った。
死んだように静まり返った部屋の中で、固まっていた二人はようやく我に返り、自分たちが周囲にどれほどひどい被害を与えていたのかに気づいた。
その後、ヴァンの無言の監視のもと、カールとハイエナの女は黙々と、手際よく、散らかった部屋をきれいに片づけた。
そしてその後、二人はヴァンに首根っこをつかまれて一階まで連れていかれ、宿屋の主人に深々と頭を下げて謝罪した。
結局、弁償の金を払ったのもヴァンだった。
* * *
「……ちょっと待ってよ! なんでアタシが部屋を掃除したうえに、他人に頭まで下げて謝らなきゃならないのよ!」
三人が宿屋の一階の食卓に座ったあと、ハナはようやく、まるで今までかかっていた魔法が解けたかのように、何が起きたのかを理解した。
「そもそも、なんでアタシがあんたたちと一緒に飯を食べてるのよ!?」
「ここは食卓です。もう少し静かにしてください。……はい、これがあなたの分です」
ヴァンは女給から湯気の立つ煮込み料理とパンを受け取り、彼女の前に置いた。
「あ、ありがと……」
ハナは煮込み料理の香りに引かれ、反射的にパンを手に取った。
だが、数秒後、再びハッと我に返り、パンをテーブルに叩きつけた。
「違うでしょ!」
周囲から向けられる視線に気づき、ハナは慌てて声を落とした。
「ついさっきまで、アタシはあんたの首にナイフを突きつけてたのよ!? なのに、なんでそんな何事もなかったみたいな顔して、ここで飯なんか食べてられるのよ? あんたたち、頭おかしいんじゃないの!?」
ぺらぺらと喋り続けるハナに対し、ヴァンはスプーンで煮込み料理をすくいながら、平然と答えた。
「今さらそれを言うのは、少し遅すぎませんか?」
「アンタ……」
「いろいろありましたけど、みんな疲れています。それに、あなたはまだ何も食べていないでしょう? お腹も空いているはずです。話はまず食事を済ませてからにしましょう」
最初は文句を言い返そうと身構えていたハナだったが、ヴァンの言っていることも、なぜか筋が通っているように思えた。
口まで出かかっていた言葉を、そのまま飲み込む。
だが、どうにも何かがおかしいような気がする。
隣にいる、我関せずとばかりにただ食事を続けている大男を見ていると、腹を立てる気力さえどこかへ消えてしまった。
「……ああ、もう! 完全に調子が狂ったわ!」
すっかり怒る気力をなくしたハナは、自暴自棄に叫び、深くため息をついて、しぶしぶスプーンを手に取った。
* * *
食事の後、三人は再び部屋に戻った。
ヴァンは椅子に座っているハナを見ながら、静かに言った。
「改めて自己紹介しましょう。僕はハク・ヴァンです。ヴァンと呼んでください。隣にいるのが、僕と一緒に旅をしている仲間のカールです」
カールは顎をわずかに引き、低い声で返事をした。
「今さら聞くのも少し遅いかもしれませんが……名前を教えてもらえますか?」
「ハナよ」
ハナは腕を組み、鼻を鳴らして、いかにも大人の女らしい余裕を装いながらヴァンを見た。
「ハナ・スドーン……ふん、飯までご馳走になったっていうのに、今さら名前を聞くなんて、確かに遅すぎるわね」
「それじゃあ、ハナ。今日の朝、どうしてあんなことをしたのか教えてもらえますか? お金が目的だったようには見えませんでしたが」
ヴァンの問いに、ハナは鋭い犬歯を見せ、憎しみに満ちた目でヴァンの顔を睨みつけた――正確に言えば、その黒い髪と顔立ちを。
「そんなの決まってるでしょ。元の姿に戻るためよ」
「元の姿……?」
「そうよ。今のアタシの姿を見たら信じられないかもしれないけど……アタシはね、もともとは『人間』だったの。それも、ぴちぴちの大美女だったんだから!」




