新たな街
ヴァンは長く重い溜め息を吐き、凝り固まった肩を回した。
午後の斜陽が果てしない荒野を茜色に染め上げ、二人の影を長く、歪に伸ばしている。連日の強行軍で積もった疲労が、泥のように全身にまとわりついていた。
「朝にあの森を出てから、もう半日だぞ」
ヴァンは隣を歩く巨躯の相棒を見上げ、恨めしそうに問いかけた。
「カール。本当に、方向は間違ってないんだろうな?」
「間違ってない」
カールの低く地響きのような声が返ってくる。出会ってから一ヶ月、この男の野生の勘が外れたことは一度もない。その視線は、一点の迷いもなく前方の地平線だけを捉えていた。
「もうすぐだ。あとしばらく」
「……なるほど。君の言う『あとしばらく』は、人間の足で半日を意味するわけだ」
ヴァンはこめかみを押さえた。
あの森を抜けるだけで丸一週間。地図もない旅路においてカールの直感だけが頼りだが、種族間の「距離感覚」のズレだけはどうにも埋めようがなかった。
カールが足を止めた。
「あそこに、街がある」
逞しい腕が、遠くの地平線を指し示す。
節の立った指先が捉えたのは、天地の境目に浮かぶ、わずかな人工の輪郭だった。
夕暮れの靄に包まれ、最初はただの岩山かと思ったが、目を凝らすほどにそれは不揃いな直線の集合体へと変わっていく。石積みの城壁、連なる屋根、そして細く立ち昇る煙。
「……本当だ」
「行こう。今日は野宿しなくて済みそうだ」
カールは小さく頷き、「ん」と短い声で応えた。
* * *
数時間後、二人は巨大な城門の足元に辿り着いた。
遠くからは小さく見えたそれは、近づけば見上げるほどの威容を誇っていた。高さ五、六メートルはあろうかという分厚い石垣が、圧倒的な威圧感を放ってそびえ立っていた。
城門の前には、入城を待つ長い列ができていた。
色とりどりの荷を積んだ馬車、武装した傭兵、そして埃まみれの旅人たち。
ヴァンはフードを少し深めに被り、列に並んだ。行き交う商人や旅人たちが、二メートルを超えるカールの巨躯を物珍しそうに、あるいは少しばかり警戒するようにチラチラと見ている。ヴァンはそんな視線を特に気にかけることもなく、ただ静かに順番を待った。
やがて彼らの番が来た。門番の衛兵が、鋭く威圧的な視線で二人を上下に品定めする。
「旅人か、冒険者か、それとも商人か。……そこのハーフオークは連れか?」
「ええ、旅人です。彼は僕の旅の相棒です」
ヴァンはカールの前に半歩だけ出ると、穏やかで、しかし隙のない大人の笑みを浮かべた。
「東へ向かうため、数日間の滞在と補給を希望します。通行料はこちらで」
淀みのない身のこなしと、すっと差し出された銀貨。衛兵はヴァンの落ち着いた対応に毒気を抜かれたのか、軽く舌打ちをして事務的に登録札へ筆を走らせた。
「日没の鐘が鳴れば門限だ。メインストリートでの揉め事は厳禁。違反すれば、城内の法に従って処罰する。いいな?」
衛兵は道を譲り、重々しい城門を指し示した。
門を潜り、一歩足を踏み入れた瞬間、荒野の寂寥感は吹き飛び、むせ返るような「生気」が押し寄せてきた。
広場には露店がひしめき合い、商人の呼び込みと、酔客の笑い声、石畳を叩く蹄の音が入り混じっている。
鼻を突くのは、家畜の臭い、石炭の煙、そして――どこからか漂ってくる、油で何かを焼く香ばしい匂い。
ヴァンは街をうろつきたい衝動を抑え込み、まずは拠点探しに思考を切り替える。
二人は大通りを抜け、裏手に一軒の宿屋を見つけた。
一階は酒場、二階が客室。看板には朝日を背にした鳥の紋章――『暁の息亭』と刻まれている。
木製の重い扉を押し開けると、カランカランと澄んだベルの音が響き、暖かな熱気が二人を包み込んだ。
酒場の中は既に賑わっており、荒事師や旅人たちが杯を掲げている。ヴァンは視線を泳がせながら、カウンターの奥に立つ女性に歩み寄った。
オレンジ色の髪を高いポニーテールにまとめ、白いエプロンをきびきびと揺らす女性。その生き生きとした佇まいは、一目でこの店の女主人だと分かった。
「いらっしゃい、『暁の息亭』へようこそ!」
女主人は屈託のない笑顔で二人を迎えた。
「お食事? それともお泊まりかしら?」
「宿泊をお願いします。ベッドが二つある部屋を、二泊で」
「了解。……合計で銀貨十枚だよ」
ヴァンは革袋から銀貨を取り出し、カウンターに並べた。女主人は手際よくそれを回収すると、一本の古い鍵を差し出す。
「二階に上がって、突き当たりの左側だよ。ゆっくり休みな」
* * *
部屋は広くはなかったが、清潔に整えられていた。
ヴァンは背中の荷物を床に投げ出すと、そのままベッドへ倒れ込み、深く息を吐いた。
「ふぅ……。これでようやく、野宿から解放される」
羽毛の柔らかさが、旅で強張った神経を解きほぐしていく。
「ん」
カールは短く答え、自分の荷物をテーブルに置いた。
だが、彼はベッドに横になろうとはせず、立ったまま、じっとヴァンを見下ろしていた。
「……どうした?」
ヴァンが寝返りを打って問いかけた瞬間、絶妙なタイミングで、部屋の中に雷のような音が響いた。
カールの腹の虫である。
「……腹、減った」
カールは真顔で呟いた。
そのあまりにも純粋で無防備な一言に、ヴァンはやれやれと呆れたような、小さな苦笑をこぼした。
窓の外を見れば、太陽は完全に沈み、階下からは食欲をそそる煮込み料理の匂いが上がってきている。自分も、カールの腹の音に触発されるように空腹を自覚した。
「……ふっ、そうだな。わかったよ。よし、下に降りて何か美味いものを食べようか」




