獣人
突然の怒号に引き寄せられ、大ホールには瞬く間に野次馬の群れが集まった。
ヴァンとカールも足を止め、振り返った。
人だかりの中央では、荒々しい顔つきをした傭兵らしき男が、商会の職員の襟首を乱暴につかみ、大声で怒鳴っていた。
「いい加減にしろ! 一体いつになったら通れるんだ!」
「お、お客様、どうか落ち着いてください。これは上からの命令で、私たちにもどうすることもできないんです……」
「俺たちはこのクソみたいな場所で、もう一週間近くも待ってるんだぞ! 依頼の期限が延びれば延びるほど、違約金も高くなる。この損失、お前らが全部賠償してくれるのか、ああ!?」
顔面蒼白の職員は必死に彼を宥めようとしていたが、血に飢えた獣のように荒れ狂う傭兵には、まるで聞く耳がない。
周囲の警備兵たちも、理性を失った屈強な傭兵を前に、下手に手を出すこともできず、ただ途方に暮れた様子で見守るしかなかった。
(できることなら、こんな揉め事には巻き込まれたくない。……でも)
ヴァンは視線を横へ移した。
すると、先ほどの受付嬢が、どうしていいか分からず、今にも泣き出しそうな顔をしているのが見えた。
ヴァンは鼻から少しだけ息を吸い込み、軽く吐き出して、短くため息をついた。
そして、隣に立つ大柄な仲間へ声をかけた。
「ねえ、カール」
「ん?」
「あの……ちょっと頼んでもいいかな? あの人を助けて。止めるだけでいいから……」
「……分かった」
カールは考える様子すらなく、短く頷いた。
そして、迷うことなく大股で騒ぎの中心へと向かっていった。
ちょうど職員を殴ろうと拳を振り上げていた傭兵の背後で立ち止まり、指先で軽く肩を叩いた。
「あぁ? てめぇ、誰だ――」
傭兵が苛立ったように振り返った、その瞬間。
――ドン!!
カールの丸太のように太い腕が勢いよく振り抜かれ、一切の躊躇なく、傭兵の顔面を正確に捉えた。
「ぐわっ!?」
短い悲鳴とともに、屈強な傭兵の身体が宙へ飛び、そのまま石床へ激突し、完全に気を失った。
静まり返った大ホール。
周囲の客や警備兵たちは、突然起きた光景に驚き、大きく口を開けたまま呆然としていた。
カールはその場にへたり込んでいた職員の腕をつかみ、引き起こすと、表情一つ変えずに淡々と呟いた。
「……これで静かになった」
「あ、ありがとう……?」
呆然とする職員へ軽く頷くと、カールはヴァンのいる方へ振り返った。
しかし、本来そこにいるはずのヴァンの姿は、どこにもなかった。
* * *
少しだけ時間を遡る。
カールが傭兵を「説得」するために歩いていった直後、人だかりの端に残されていたヴァンの背後へ、突然、何か鋭く冷たいものが強く押し当てられた。
(え……?)
「……声を出したら、心臓を貫く」
背後から、低く、まるで地面を這うように冷たい声が耳元で囁かれた。
「命が惜しいなら、このままゆっくり歩いて出ろ。……分かったか?」
背中に押し当てられた刃先と、背後から突き刺さる本物の殺気を感じ、ヴァンは全身の血が凍りつくような感覚を覚えた。
心臓は激しく鼓動していたが、それでも大人しく従うしかなかった。
背後の見知らぬ人物に押されるまま、ヴァンは商会から抜け出し、人気のない暗い路地へと連れていかれた。
路地に入ると、ヴァンはすぐに両手を軽く上げ、降参する姿勢を見せながら、ゆっくり相手へ声をかけた。
「もし目的がお金なら、僕は本当にあまり持っていません。でも、身につけているお金は全部渡せます。だから、命だけは助けてもらえませんか……?」
しかし、相手はヴァンの言葉をまったく聞かず、乱暴に彼の襟首をつかむと、力いっぱいレンガの壁へ押しつけた。
同時に、冷たい短剣の刃がヴァンの首へぴったりと押し当てられた。
深くかぶったローブのフードの影から、獣のように鋭い光を放つ金色の瞳が、ヴァンをじっと睨みつけていた。
その目と、フードの縁からわずかに露出した鋭い口元を見れば、相手が人間ではないことが分かった。
(獣人……なのか? この人)
「黙れ。大人しく俺の質問に答えろ」
ローブ姿の人物は懐から古びた羊皮紙を取り出し、乱暴にヴァンの目の前へ押しつけた。
「……これに見覚えはあるか?」
そこに描かれていたのは、奇妙な模様の入った、腕輪のような装飾品と、一人の男の肖像だった。
その男はヴァンと同じ黒髪黒眼を持ち、右目の下には横向きの刀傷が一本あり、腕には「S」のような形の刺青が刻まれていた。
刃を首へ押し当てられたまま、ヴァンは震える目でその絵を見つめた。
しばらくして、ゆっくり首を横に振った。
「……ごめんなさい。本当に、今まで見たことがありません」
「嘘をつくな!!」
ローブ姿の人物は短剣を持つ手に少し力を込めた。
ヴァンの喉の皮膚がわずかに切れ、鋭い痛みが走った。
「お前のように『シノア人』の特徴を持った奴が、一人で『ユーラス大陸』なんていう辺境の地をうろついているはずがない。お前は、本当にただの旅人なのか? 答えろ!」
(……こいつ、僕の財布にはまったく興味がないのか?)
首に走る痛みと死の恐怖に直面しながらも、ヴァンは相手の目に浮かぶ、異常なほどの焦燥を感じ取っていた。
ヴァンは必死に弁明しようとし、口を開いた。
「嘘じゃない! 見た目は似ていても、僕はオーレン大陸から来たシノア人じゃありません! その人についても、本当に何も知りません!」
相手がさらに問い詰めようとして口を開いた、その時。
――シュッ!!
小さな路地に、凄まじい風切り音が響き渡った。
ローブ姿の人物は瞬時に殺気を察知し、ヴァンを放して後方へ飛び退いた。
直後、先ほどまで相手が立っていた空間を、カールの巨大な拳が横薙ぎに通り過ぎ、脇に積まれていた木箱を粉々に砕いた。
カールはヴァンがいなくなったことに気づくと、半獣人特有の鋭い嗅覚を頼りに、ヴァンの匂いを追ってここまでやってきたのだった。
「助かった……ありがとう、カール」
ヴァンは咳き込みながら、首に残った浅い傷をそっと押さえた。
カールは一言も話さず、ローブ姿の人物を睨みつけていた。
静かな怒りによって、路地の空気そのものが凍りついているようだった。
「チッ……!」
ローブ姿の人物は構えを取り、再び短剣を掲げた。
次の瞬間、カールが猛然と突進し、重い拳を振り下ろした。
しかし、相手の反応速度と身のこなしは明らかにカールを上回っていた。
カールが破壊力の極めて高い重拳を何度振り下ろしても、相手はそれを軽々と躱し、壁を蹴ってカールの背後へ回ろうとした。
だが――相手自身が選んだこの狭い路地が、逆に相手の弱点となった。
限られた空間では、逃げ道は瞬く間に尽きていく。
カールの振るった拳がレンガの壁を砕き、その破片と風圧によって、相手の退路は強引に塞がれた。
躱すために大きく後方へ跳んだローブ姿の人物は、背中を「ドン」と音を立てて袋小路の壁へぶつけた。
「しまった――」
この一瞬の隙を、カールが見逃すはずがなかった。
――ドン!!
カールの重い拳が正確に相手の腹部を捉えた。
鈍く短い悲鳴とともに、ローブ姿の人物は糸の切れた人形のように崩れ落ち、そのまま地面にうつ伏せになって動かなくなった。
戦いは終わり、路地には再び静寂が戻った。
カールは倒れた相手を見下ろすと、そのまま深くかぶっていたフードを無造作にめくり上げた。
フードの下から現れたのは、獣のような顔だった。
丸みを帯びた獣耳が頭頂部から突き出し、首から頬にかけて、独特の斑点を持つ体毛が覆っている。
「……ブチハイエナの……獣人か?」
ヴァンは相手の特徴を見ながら呟いた。
するとカールは、相手に喉仏があるかどうかや、交戦中に感じ取ったわずかな違いから判断し、無表情のまま淡々と付け加えた。
「ああ。……それに、女だ」
「えっ? 女の人!?」
ヴァンは驚いて目を見開いた。
(そういえば……ハイエナっていう生き物は、雌のほうが雄より体格が大きくて、強いって聞いたことがある……それに……)
カールはヴァンの驚きなどまったく気にせず、無表情のまま振り返って尋ねた。
「どうする? 殺すか?」
「いや……待って。そこまでする必要はないだろ? それに……」
ヴァンは慌てて彼を止め、地面に落ちていた肖像の描かれた羊皮紙を拾い上げた。
(それに……もし本当に盗み目的で僕を襲っただけなら、あんな妙な絵を見せて、あんなわけの分からないことを聞いてくるはずがない)
ヴァンは気を失っている獣人の顔をしばらく見つめ、それから小さくため息をついて言った。
「……さっき、この人は何か言いたそうだった……もしかしたら、本当に何か厄介なことに巻き込まれているのかもしれない」
それを聞いたカールは、不満そうに眉間へ深い皺を寄せた。
「とりあえず、先にこの人を宿へ連れて帰ろう。目が覚めたら、もう一度ちゃんと話をしよう」
「……分かった」
カールはどこか不満そうに低く唸ったが、それでもヴァンの提案に従い、気を失ったブチハイエナの獣人を、軽い荷物でも担ぐように、いとも簡単に肩へ担ぎ上げた。




