契約成立
翌朝。
ヴァンが目を覚ますと、隣のベッドはすでにもぬけの殻だった。
「あれ? カールは……?」
寝ぼけ眼で室内を見回すが、彼の姿はどこにもない。ベッドに残された毛布にそっと手を触れてみると、生地はすっかり冷え切っていた。ずいぶんと早くにここを離れたようだ。
ヴァンは念のため一階へ降り、厨房の準備を始めていた宿の女主人に尋ねてみたが、「誰も降りてくるのは見ていない」という。どうやら日が昇る前の暗いうちに、ひっそりと宿を発ったらしい。
自室に戻ったヴァンは、空っぽのベッドを見つめて小さく息を吐いた。
(……本当に、ずいぶんと早くに出て行ったんだな)
どうして黙って行ってしまったんだろう。まさか、昨夜急に『一人で行く』と言い出したせいで、怒らせてしまったのか? いや、そんなはずはない。彼はそういう性格じゃないし……。
別れの場面については自分なりに想像していたつもりだったが、まさかこんな形になるとは思わなかった。ヴァンは胸の奥に、少しだけ割り切れないような、しこりのようなものを感じていた。
(……まあ、いいか。面と向かって別れを言うのは、どうせお互い苦手だろうしな)
妙な寂しさを振り払うように頭をかき、ヴァンは荷物をまとめて部屋を出た。
* * *
宿を出て城門を抜けたヴァンは、ギルドで買った地図と立て札の指示を頼りに、東へ向かう森の街道へと足を踏み入れた。
(一人で行くとは言ったものの……いざ実際に行動するとなると、なんだか自信が持てないな)
時折、風で周囲の草木がガサリと揺れるたびに、ヴァンはビクッと肩を震わせた。「奇妙な獣や強盗が飛び出してくるんじゃないか」と緊張が走り、無意識のうちに歩調が早まる。
(どうか次の町まで、何も危険な目に遭いませんように……)
ヴァンは心の中で祈りながら歩き続けた。
(無事に着いたら、何か護身用の武器を買うか、戦い方を教わらないと。いや……でも僕のこの貧弱な体格じゃ、いくら武器があってもたかが知れてるか)
ふと、ある考えが頭をよぎる。
(そういえば、この世界には魔法があるんだったな。僕にも覚えられたりするんだろうか……?)
そんなとりとめのないことを考えながら気を紛らわせているうちに、やがて日が傾き、周囲が深い茜色に染まり始めた。
(もうずいぶんと遅い時間だ。そろそろ野営の準備をしないと)
ヴァンは街道沿いにある手頃な岩陰を見つけ、荷物を下ろした。
石を集めてかまどを作り、枯れ枝に火を点ける。新しい鉄鍋を火にかけ、夕食の準備に取り掛かった。一人分の簡単なスープだ。
「ええと、あとは塩と……昨夜取ったラードを入れて……」
ヴァンは鍋を見つめたまま、無意識に呟きながら横の背嚢へ手を伸ばした。
すると、視界の端からすっと、求めていた塩の小袋と壺が差し出された。
「ん、ありがとう」
ヴァンは反射的にそれを受け取り、鍋に塩を振り入れた。
「…………?」
――数秒後。
ヴァンの思考が、ピタリと停止した。
(……ん?)
一人旅だ。塩を渡してくれる人間など、ここにいるはずがない。
ヴァンは首からギギギ……と錆びたような音が鳴るほどの勢いで、猛然と隣を振り返った。
「よっ」
そこには、胡坐をかいて座るカールの姿があった。
荒野を駆け抜けてきたのか、その全身にはうっすらと土埃を被り、横には昨日までは持っていなかったはずのパンパンに膨れ上がった大きな革の鞄が置かれている。
「カ、カール!? なんで、君がここに……!?」
ヴァンが目を丸くして素っ頓狂な声を上げると、カールは鍋の中身をじっと見つめながら、極めて真面目な顔で答えた。
「それより、腹が減った」
「えぇ……!?」
状況が全く飲み込めないヴァンをよそに、カールは当然のようにヴァンの背嚢へ手を伸ばし、しまってあった自分の木椀を引っ張り出すと、無言でスッと差し出してきた。
そのあまりにも堂々とした態度に、ヴァンは毒気を抜かれたように肩から力を抜いた。結局、深く溜め息をつきながらスープを二等分し、焚き火を挟んで並んで座ることになった。
「……それで? 村に帰ったんじゃなかったのか?」
熱いスープをすすりながらヴァンが尋ねると、カールは淡々と、極めて平静な声で答えた。
「一度帰った。今日の昼前に」
「帰った!? 人間の足なら片道でも丸一日かかるあの距離を、半日で往復してきたのか!?」
ヴァンの目が見開かれる。
村に戻ったカールは、長である父親のトゥパカリフに「旅に出る」と告げた。
『急になんだ? あの黒髪の若者なら、もう町へ送り届けたはずだろう』
突然の言葉に父親は驚いて尋ねたが、息子の真っ直ぐなエメラルドグリーンの瞳を見ると、それ以上は深く追及しなかった。
『……まあいい。お前が決めたことなら、止めはせん。気をつけて行け』
短くそう言い残し、父親は力強く背中を叩いて送り出してくれたという。
そして妹のセヌイは、兄の不器用で頑固な性格を誰よりも理解していた。
彼女は呆れたように短くため息をつくと、説教も文句も口にせず、ただ黙って奥の部屋へと向かった。そして、カールが旅先で困らないよう、替えの丈夫な服や野営用の毛布などを手際よく大きな革鞄に詰め込むと、無言のままドンッと兄の胸に押し付けて送り出してくれたらしい。
「で、そのまま休まずに街道を走って追いかけてきた、と……。本当にデタラメな体力だな」
ヴァンは額を押さえた。
「なんでだ? 君には東方大陸に行く理由なんてないだろ?」
カールはスープを飲み干すと、空になった椀を置き、焚き火越しにヴァンをまっすぐに見据えた。
「お前一人じゃ、絶対に途中で死ぬからだ」
その言葉には、一切の嫌味はなく、ただ純粋な事実だけが込められていた。
「……護衛のつもりか? もう十分に恩返しもできないくらい借りがあるのに。それに、悪いけど僕には君を雇うような金なんてないぞ」
ヴァンが苦笑交じりに言うと、カールは鼻を鳴らした。
「金はいらん。その代わりとして――」
カールは空の椀をトン、と指先で叩いた。
「俺に、美味い飯を作れ」
そのひどく単純で、けれど絶対に曲げられない彼なりの『契約条件』を聞いて、ヴァンは一瞬だけ呆気に取られ――やがて、堪えきれずに吹き出した。
「ふっ……あはははっ! なんだよそれ……馬鹿みたいじゃないか」
焚き火の爆ぜる音が、ヴァンの笑い声に重なる。
昨夜から抱えていたもやもやとした孤独など、すっかりどこかへ吹き飛んでいた。
「……わかったよ。契約成立だ」
ヴァンは笑いながら立ち上がると、鍋の中の残りのスープを、カールの椀にたっぷりと注ぎ込んだ。
「雇い主として、美味い飯を必ず作ると約束する。……これからもよろしくな、カール」
パチパチと燃える炎が、二人の影を荒野の岩肌に長く映し出している。
これが、二人がパーティを結成する前に起きた、ちょっとしたお話。




