戦場はメリークリスマス
*
クリスマスイブが訪れた。
しんしんと空から降り積もる氷結晶の集合体。天気予報が予告するホワイトクリスマスに世のカップルは目を輝かせていることだろう。
日本中で湧き上がるお祭りムードには逆らえず、さすがの受験生も勉強そっちのけでプレゼント交換をしたり放課後に遊びの予定を立てたりしていた。
そして当然のごとく、俺のところにはそんな浮かれ話はやってこない……と信じていた。さっきまでは。
机の上でスマホのメール画面を開く。迷惑メールと『フロム・フィオリータ』関連のメール、そして姉貴の悪戯メールと積み重なった受信フォルダの一番上に、そのメールはあった。
【今日の放課後 うちによれ クリスマスパーテーをやる 龍山】
「…………」
なんだこれ?
もう一度言ってもいいかな。
「なんだこれ?」
まず、俺はあの事故以来邦武父とは話していない。葬儀のときもお互い目も合わせなかったはずだ。それ以来、《くにたけサイクル》を訪ねてもいない。近くを通ることすら自重したくらいだ。
そして何より、邦武父はかなりショックを受けているはずだ。俺の次、いや俺に匹敵するくらい……それか、認めたくないが俺よりも深く傷ついているかもしれない。
それが何故今になって、クリスマスパーティを開催しようということになるんだ?
はっきり言って意味がわからない。
でも、この日は『フロム・フィオリータ』の活動予定も姉貴からの面倒な指令もなかったので、放課後俺は数か月ぶりになる《くにたけサイクル》に向かったのだった。
茶色い毛糸のニット帽と黒いコートがところどころ白にペイントされ、すぐに融けて、また白がくっつく。
一歩一歩進むごとに俺の体の白と黒とが入れ替わる。身動きできない地表や家々は、ただ重複していく白に体を沈めていた。
視界の奥、無数の白い粒の向こうに《くにたけサイクル》の看板が姿を現す。クリスマスパーティと言っていたわりには、ウインドウにも店先にもそれらしい飾りつけは見られない。ただ雪だけがコーティングされていて、クリスマスカラーの赤と緑はどこを見渡しても見当たらない。
降雪に埋もれたのか? いやいや、積もってるとは言ってもせいぜい十数センチといったところだ。現に、来る途中に見かけたコンビニなんかは雪とツリーの色が綺麗にコラボしていてクリスマスらしさを思う存分演出していた。
やっぱり、どう見ても《くにたけサイクル》はいつもの《くにたけサイクル》だ。
……いや、正確には違う。この様子は美織がいなくなってからの『いつも』で、それ以前の『いつも』とは決定的に違うのだ。
リパクパ以後の自転車業界がどうなったかは想像に難くないが、《くにたけサイクル》に漂う空気はどう見てもそれだけが理由ではなかった。
その時、店の奥で何かが動いた。
赤い何か、だ。
遠目でも分かるその巨大さ……おそらく二メートル弱はあるんじゃないだろうか。
のそり、のそり。一歩ずつ踏みしめるように赤い足は雪道の方へ進む。そのたびに空気が振動する。至近距離ではっきり見ているわけでもないのに感じる、時間を揺らするほどの一歩。
実際には一分もなかっただろうけど、俺には一時間のように思えた。
そして赤い何か――サンタクロースはその巨躯を完全に店の外へと出した。
絵本や広告やらで小さいころからサンタの数々のイメージを見てきたが、前方に立っている人物はその誰よりも巨大だった。冬眠から目覚めたヒグマだと説明されても違和感ないほどに。
リンゴのように真っ赤なはずの頬はむしろ梅の青に近く、余計な贅肉は数パーセントもない。ヒゲは白でなくて真っ黒だった。
町のどこからか聞こえるジングルベル。
陽気な音楽が流れているのに、サンタクロースは笑いもしないし、プレゼントをあげる素振りも見せない。ただじっとこちらを……俺を見ている。
「久しぶり……龍山さん」
サンタクロース――邦武龍山は熊のように巨大で山のように壮大で……でも表情は対照的に空虚だった。
身体の軸はいっさいブレていないのに、人差指でつつくだけで瓦解してしまいそう。
巨神にして虚心の男。それは俺の知っているサンタクロースと邦武父、そのどちらからも著しくかけ離れていた。
雪にしっかりと足跡つけながら俺は近づいていく。熊の獰猛さも鬼の猛威もなかったが、何故だろう、近づけば近づくほどに離れていくような気がした。
離れていくというか、彼が別人になっていくような感覚だ。
目は木のウロのごとく、腕はだらりと脱力した、プレゼント袋も希望も持たないサンタクロースの目の前に俺は立った。
「…………ぃぉ……が……」
「……何だって?」
邦武父の掠れた声はジングルベルにかき消され、残った音も耳には届かず雪の中に吸い込まれていった。
「美織が……」
今度は微かだが、聞こえた。
「…………………………………………………………死んだ」
ハロウィンの日に亡くなった娘。
時が経ち、父親がその死を認めたのはクリスマスイブの日だった。
これは偶然か、それとも運命か。
亡二下非のイメージがサブリミナル効果のように浮かび、瞬時に消える。
俺は邦武父に何も言えなかった。ただ待っていた、ウロのような目が絶望に染まる人間の目に変化するのを。
少しずつ、徐々に人間らしさを取り戻していく。何故あんなメールを送ったのか、何故サンタなのかとか細かい疑問はあるけれど、この人の様子を見ているだけで今日ここに来た意味が分かるような気がした。
そして――
「こ、ぞぉぉおおおおおおおオオオオうううウ!」
俺の目の前にそそり立つ巨人、邦武龍山は吠えた。夕方の住宅地で、サンタ服のまま、人目なんか意にも介さず。
あまりのボリュームに鼓膜は麻痺し、スタングレネードを食らったかのような衝撃が体全体に走る。
「お前は何をしに来た!」
「え? いやアンタが呼んだんじゃ……」
「何を言いに来た!? こたえろぉぉおおお!」
邦武父の虚ろだった瞳はにじみ、溢れ、頬を伝い、そして足元の雪を溶かした。
わけがわからない、頭をどっかにぶつけたんじゃないかと思う。でもそんな、わけのわからない言動を、この人はいつだってしてきた。
美織につく悪い虫を払うため、馬鹿みたいに必死になっては美織や良子さんに叱られていた。
そんな邦武父に感化されたのか、今の大声量で脳味噌が狂ったのか知らないが、俺は邦武父理論に従い、こう答える。
「む、娘さんを……僕にくださいっ!」
「ふざけるな! どこの馬の骨とも知らん輩に、大事な一人娘をやれるかっ!」
「それでも貰います! 何がなんでも!」
「そこまで言うなら見せてみやがれ! テメエの覚悟ってやつをぉ!」
「分かりまし――いや、分かった! そんなに言うならやってやろうじゃねえか!」
世に悪鬼羅刹の類いあれど、邦武龍山に敵うものなし。
サンタ服の下の筋肉はありえないほど膨張し、顔の血管がぼこぼこと浮き出る。歯がギリギリと軋む音が聞こえ、近くの街路樹にいた鳥たちが一斉に寒空へ飛び立った。
勝てるわけない。ただの帰宅部生が、こんなバトル漫画の登場人物みたいなやつに歯向かえるわけがない。
しかし、俺はイメージする。
春。無事大学を卒業して、駆け出しのサラリーマンになり、身を粉にしてやっとの思いで指輪を買う。美織に似合いそうな、柑橘系を思わせる金色のリングだ。そしてスーツ姿で《くにたけサイクル》へ出向き、卓袱台返しをする邦武父と一世一代の大喧嘩。
そこに負ける要素はあれども、負ける理由は微塵も存在しなかった。
「うおおおおお! ……があっ!」
邦武父の胸板は鋼のようで、俺の拳は悲鳴を上げる。
なにせこれまでの人生でまともな喧嘩なんかしたことがないのだ。百戦錬磨の赤鬼とは経験も筋肉も違いすぎる。
「チックショオー!」
何度殴ってもダメージを与えられている様子はない。拳が通じないと判断して、今度は前蹴りで攻める!
「っな!」
邦武父の鳩尾目がけて突き出したはずの足は、片手で止められた。
なんて握力だ……振りほどこうにもピクリともしない。
「それで終わりか小僧!? そうりゃあっ!」
邦武父が掴んでいた手を右に大きく振った。同時に体が浮いたかと思うと、次の瞬間背中から地面に叩きつけられる!
「!!??」
声が出ない。息が止まる。雪のおかげで失神せずにすんだようだ。しかし体は全然言うことを聞いてくれない。
無防備な俺のもとへ足音とも轟音ともつかぬ音が近づき、一本の剛腕が俺の胸倉をつかんで起き上がらせる。
「そんなんじゃあ……うちの娘は任せられんなあ」
邦武父は鬼の形相のまま、泣いているようにも笑っているようにも見えた。
「……ぅヵぃ」
そうかい、と口を動かして唾を吐く。
唾液は邦武父の顔面には届かず、サンタ服を汚した。
すると邦武父は怒りの色を露わに、これまでとは段違いの鋭さで俺を睨みつける。
「こいつァな、美織が十二歳のときプレゼントしてくれたやつなんだよ……。毎年貰ってるだけじゃ悪いから、そのお返しにってな……。おかしいだろ? 毎日毎日、美織から貰ってたのは俺の方だってのに……」
「……親バカ」
「ああ!?」
「親バカだっつってんだよ! いいかげん子離れしやがれモンペ野郎が!」
胸倉を掴む手に爪を思い切り食い込ませ、力が弱まった瞬間に脱出する。
いったん距離を取り、中指を立てて挑発。文字通り怪物のようなモンスターペアレントは思った通り激怒し、こちらに突進してくる。
それを避けるでもなく、逃げるでもなく、俺もまっすぐ突進する!
これは賭けだ。成功すれば確実にダメージは与えられるし、失敗すれば俺はきっと起き上がれない。分は悪いが、迷っている時間はなかった。
五メートル、四メートル、三、二、一!
ぶつかる一歩手前で俺は跳ぶ!
門倉と対決したときと同じだ。勝機はきっと飛翔にある!
ブルドーザー並の衝撃は……こない。
閉じようとする目をこじ開けて、雪の上でなんとか受け身をとる。
「成功、したか?」
振り返ると、そこには人の背丈ほどあるクリスマスツリーに頭から突っ込む邦武父の尻が見えた。
俺は勝ち誇った笑みでその尻に向かって言う。
「どうだ、これで文句ないだろ! これからは無い知恵絞って結婚式のスピーチ原稿でも考えてろジジイ!」
しかしこの台詞は失敗だった。相手は眼光だけで熊をもビビらす邦武龍山。俺の勝ち口上はかえって彼のハートを熱くするだけだったのだ。
「言ったな……言いやがったな小僧」
片膝を立ててと起き上る邦武父。額からは血が流れ、顔面はより凶悪さを増している。滴る血を舐める姿は、まさに獣そのものだった。
そう、男と男の闘いというのは、この程度じゃ終われないのだ。
――その五分後、猛獣対男子高校生の熾烈を極めた大喧嘩は駆けつけた警官によって治められ、このクリスマスパーティは収束した。
俺は一人の若い警察官によって取り押さえられたが、邦武父は三人がかりで抑え込まれ、それでも止まらぬ暴動を鎮めたのは邦武母こと邦武良子さんと一枚のフライパンだった。




