自転車泥棒
*
クリスマスイブの翌々日、安田青果店の二階。卓袱台には湯気の立った緑茶が三つ、真ん中には蜜柑が皿いっぱいに置かれている。下からは時々安田が客呼びしている声が聞こえてきて、隙間風の吹く六畳間も熱い活気で満ちていた。
「カ~ジ~カ~、なに俺らの知らねえとこでポリの世話になっちゃってんの?」
亜門の口は文句を言いながらも、顔には心底可笑しいと書かれている。
「で、どういう顛末なんだよ。オレら一蓮托生の身同士、隠し事ァなしだぜ?」
ニヤニヤと意地の悪い目つきで、門倉もそう言った。
嘆息。もはやこいつらに隠し事をしていても仕方がないと判断した俺は、ある幼馴染が好きだということ、その親父と喧嘩をしてガーゼまみれになっていることだけ説明した。
「あー、あの時の!」
皆まで言わずとも門倉はピンときたようだった。
「そ。お前が転ばしたときの」
「なあカジカ、今度その彼女紹介してくれよ。謝りたいこともあるし……な?」
門倉は心底申し訳なさそうに言う。俺は少し睨んで、まだその件を許したわけじゃないと伝えた。
「……それに、今は受験勉強もあるし、ちょっと無理だろうな」
そうじゃなくても、お前みたいな不潔野郎にゃ絶対会わさなねえだろうな。
心の中でそう呟いた。鼻腔の奥が、ツンと痺れた。
「で、自転車の件だが」
門倉が話題を変えると、部屋が一瞬だけ静寂に包まれる。
「盗むこと自体困難になってるのは確かだ。最近じゃ普通の家庭でも警備会社を雇ってるし、オレらはセコムやアルソックに真っ向勝負できるほど強かねえ。逃げきれるほど器用でもねえ」
「だから、今はその網から漏れたチャリを盗むしかないだろう?」
亜門が口をはさんだ。
「そうなんだが……それよりもっと重大な問題がある」
門倉の力強い眼光が三割増しになった。俺も亜門も、ゴクリと唾を飲み込む。
「このままじゃ近い将来、自転車は絶滅する。競輪用、マニア用の高級バイクだって自転車自体が広く世に浸透しているから価値を持つわけだ。自転車の個人所有が無くなれば、当然乗るやつもいなくなるし、興味を持つやつもいなくなる。このリパクパに終止符が打たれない限りな……」
ここまで真剣そうに聞いていた亜門は首を傾げた。
「それは、もしかしたらそうなるかもしれねえけど……でも今のうちに盗んじまえば――」
「アホ。自転車の価値は現在進行形で失われてるんだよ。イコール、盗む価値だって失われてるってことさ」
門倉の厳しいツッコミが入る。
しかし、と俺は思う。
「じゃあ門倉。お前はそもそもどうして自転車を盗もうって思ったんだ?」
金になるためじゃない。
アントニオ・リッチへの憧れ?
超能力を行使する快感?
そんな返答を予測している俺に、門倉は言った。
「そんなことはどうでもいい」
それを聞いて、俺も亜門も言葉を失う。
どうでもいいって……なんだよそれ。そう口に出そうとしたが、俺が言う前に門倉は言葉を繋いでいた。
「だからこそ、なんだよ。ここで大事なのはただ一つ。『盗むリスクが高まって』、『盗む価値も無くなって』いる自転車を盗むってことは……誰も盗もうとしないもんを盗むってことだ! そいつは世のリパッカーどもにとっては災難だが、オレらにとっちゃ、むしろテンション上がるってもんだろう?」
大声でそう説明した門倉の目は、今までと比べても一段と輝いていた。
誰も盗もうとしないものだからこそ、盗む価値がある。
その理屈は百人中百人が異議を唱えるだろうけど、何故か不思議な説得力があった。
「亜門はどうする?」
俺は尋ねると、亜門はドレッドヘアを指でいじくり「俺は乱土に付いてくって決めたから」と答えた。
「カジカは?」
「俺も……期限付きで付き合うって言っちまったしなぁ」
こうして今日も、自転車を盗み、サインを書き、どこかに捨てる『フロム・フィオリータ』の活動が始まる。
この時点では、これが最後だなんて思いもしなかったけど。
*
放置自転車や警備の甘い駐輪場を探しながら、俺たちは冷たい空気の中を歩く。
道路には車が飛び交っていて、コートを着た人々が脇をどんどん追い越していく。
その道中、門倉は『自転車泥棒』について語っていた。そのほとんどは耳にタコができるほど聞いた話だったが、中には初めて聞く豆知識もあった。
「物語の舞台である第二次大戦後のイタリアってのはな、職を探す人間でごった返していたんだ。そんな人たちにとってはベッドのシーツも自転車も大事な財産なんだよ。だから質に出すのにも抵抗があるし、盗まれることだってある。今とは真逆だよ、自転車には価値があったけど、人のごった返す中じゃあ泥棒もしやすかった」
白い息が町にとけ、人の波に飲まれていく。
「今のオレはアントニオ・リッチじゃない」
俺も亜門も余計な口は出さず、ただ溶ける息を眺めていた。
「金のためじゃない。生きるためじゃない。ただオレん中のどっかに穴があって、それを塞ぐために自転車を持ってきてるだけなんだよ、フィオリータからな」
「そういうの、第三者が言わないとダメなんじゃないの?」
亜門が苦笑しながらそう言うと、門倉もフッと吹きだした。
「じゃあインタビューの時はお前らから説明してくれよ」
歩いて歩いて、太陽も落ちて、いつしか誰も喋らなくなっても、盗めそうな自転車は見当たらなかった。
この地域一帯の自転車は、一つ残らずフィオリータ産になったのだろうか。だとしたら素晴らしいことだけど、現実はそんな簡単じゃない。
いくら自転車に乗る人がいなくなったとはいえ、たった一月半ほどで盗みきれるほど、この町の規模は小さくない。
俺たちのやっていることは実にちっぽけなことで、世間に何かを訴えることはできず、世界は変わらず、自分一人すらも変えられない。自分たちが何をしたいのか、何をしているのかという根本的な部分が曖昧だからだ。自分が思っていることと、生きている目的が雪のように降ったり融けたりを繰り返すからだ。
世界っていうのは、そんな人間が変えられるほど脆弱ではない。
「ねーなぁ、チャリンコ」
今までの疲れを凝縮したような亜門の溜め息。
「しょうがねえ、今日は帰るか」
諦めたように踵を返す門倉。
そのときふと、俺の中にあるアイデアが芽生えた。
「いや……あるぞ、自転車」
二人の動きがピタリと止まる。怪訝そうな四つの目が俺を見つめる。
「警備なんかは雇ってなくて、しかもけっこう高いやつ。GPSは付けてるけどアシが付かない保障もある。もちろん場所も分かってる。誰かに見つかる心配もしなくていい」
「はあああ? なんでそんなこと黙ってたんだよ!?」
亜門は顎が外れそうな勢いでそう怒鳴った。
なんとかそれを落ち着かせたあと、今度は俺が先導して、通ってきた道を引き返していく。
町の大通りを抜け、学校を通り過ぎ、人気の少ない路地を進んでたどり着いた先……そこは
「久しぶりだな……」
元ゲームセンター《スリーアミューズ》。
本格的な冬が到来して以来、ここを集合場所にすることは少なかった。そのためか、記憶にある風景よりもずっと寂れて見える。
今日の集合場所であった安田青果店はこの近くであったため、俺はかつてのアジトに自転車を停めていたのだった。
奥へ進むと、液晶の割れた筐体の裏に、眩しい黄色のタイムトライアルバイクが見えた。
「どうしてまた、わざわざこんな場所に停めてたんだよ」
門倉が疑問を呈した。
「今どき店先に堂々と駐輪するのは変かなあって。しかも高級品だし」
そう答えると、門倉から「変なとこで慎重だな」とつっこまれた。
「じゃあ門倉、これお前に預けるよ」
「いや預けちゃダメだろ。盗むんだから」
「ああ、それもそうだな。じゃあ俺はどっか行っとくよ」
「それもダメだ。『自転車泥棒』の犯人は三人組なんだから」
「細かいなぁ」
「それぐらい拘ったっていいだろ?」
「いいから早く始めようぜ」亜門が痺れをきらしたように言った。
そして俺たちは作業を始める。
亜門は外を見張った。
門倉は持ち主を観察した。
俺は用意していたもので獲物を飾った。
俺は黙々と手を動かし、そして三十分ほどの時が過ぎた。
「……できた」
かつて門倉を追い詰め、邦武父より譲り受けたタイムトライアルバイクは変貌していた。
変貌とはいっても、タイヤの数が増減したわけでもハンドルが捻じ曲がったわけでも奇怪な模様にペイントされたわけでもなかった。
サドルには『フロム・フィオリータ』と白のマジックでサインがされ……それ以外のフレームやタイヤ、ハンドルにペダル、至るところにびっしりと文字が書き込まれていた。大小様々な殴り書きが鮮やかだった黄色を覆い、凛々しかったスタイルは一気に台無しになった。
「み、耳なし自転車ぁー!?」
亜門がそう叫んだ。
「いや、耳あったら怖えって」
門倉の的確なツッコミ。
「そんで、どこまで運んでやろうか?」
「いや、悪いけどこいつは俺が始末するよ」
門倉の手は借りない。俺のものは、俺の過去は俺自身でケリをつけるべきなんだ。
門倉はそうか、とだけ言って、亜門と一緒にゲーセンから出ていった。
出ていく直前、門倉は背を向けたままこう言った。
「お前はなんつーか、一見どこにでもいる普通の高校生にしか見えねえけどさ。なんかこう……普通の高校生たちが絶対持ってないもんを持ってそうな感じがすんだよなあー。うまく言えねえけどよ」
「そんなことない。勘違いだ」
「だろうな」
どっちだよ、と小声で突っ込む。
「でもよ、それはお前が単純に変ってことじゃなくて……ただ統計的に変っつーか、むしろそれを持ってる方が普通なんじゃねえかって思うんだよ」
本当にうまく言えてないな、と思った。
「まあそんだけだ。じゃあなカジカ」
門倉たちが見えなくなったあと、俺は耳なしタイムトライアルバイクを押して外へ出た。
町を歩いていたときは気づかなかったが、今夜は満月のようだ。どんなに冷え込んだ夜でも、月明かりが道を照らしてくれるだけで気分は幾分マシになる。
俺は文字の隙間から月光を反射する自転車に跨り、『フロム・フィオリータ』のサインに尻を乗っけないよう、立ち漕ぎで走り出した。
この自転車が行き着く先はどこだろう?
職員室の明かりがまだ灯っている学校の前を通る。
暗い《くにたけサイクル》のある通りを過ぎる。
美織と待ち合わせした公園を横目に夜風を切る。
真撫家を迂回して走る。
門倉とデッドヒートを繰り広げたときの風景が見える。
そこからずっとずっと遠くまで……町境を超え、シャッター商店街のアーケードをくぐり、田んぼと畑の間を突っ切り、そしてたどり着いた。
隣町の、車でしか行かない距離にある、大きな大きなショッピングモール……の跡地。
リパクパ以前から不況の波に煽られて、別のグループに吸収されたのだとか。その際に大規模な改築工事が始まって取り壊されたのだ。
しかしその新しいグループのオーナーが横領事件を起こし、会社は倒産。その影響で工事も中止され、ここにはだだっ広いコンクリートと作りかけの建物らしき物体しか残っていない。
北風を防ぐものなど何もないこの庭で、俺は一人、体を震わす。
自転車を置いたところで、帰りの手段について何も考えてなかったことに気が付いた。
もう夜も更けた。今から歩いて帰る気力はもう残ってない。
あの時は歩いて帰ったけど、美織が一緒だったから歩けたんだろうな……。
元ショッピングモールの前にはバス停があった。明日の朝一番の便に乗れば町には帰れるだろう。問題はそれまでどこで過ごすかだ、と悩んだ俺の目に未完成の建物が見えた。自転車はコンクリートの庭に放置したまま、そこへ向かう。
鉄骨の足場をくぐり、ブルーシートで包まれた内部へ侵入すると、意外と散らかっていないことが分かる。小石、虫の死骸、空き缶、ビニール袋、段ボール……この程度、あのゲーセンに比べたらどうってことない。
段ボールを被って横になる。眠りにつく前にポケットからスマホを出して、今夜は友達の家に泊まる旨を親に伝える。
「うん、勉強合宿。ここからがラストスパートだからさ、頑張らないと」
根も葉もない真っ赤な嘘をついた俺は、スマホを省電力モードにして今度こそ寝ようとした。
だが、ホーム画面の上に流れるニュースの内容が、休息を取ろうとする俺に盛大なビンタをくれたのだった。
【ピポヘル不要】高垣山公園のコパン君、リパッカーになる! 【サイキック猿】




