ep.7 胸キュン密着と、またやったただのバカ(※ただし神楽坂は気ずいていない)
テストが明けたものの、近衛零華による厳しい補習課題に追い詰められた神楽坂蓮。
勉強から逃れるため、久しぶりに元所属していたテニス部へと足を運んだ蓮だったが、そこでマネージャーの九条ゆずと遭遇し、予想外の「胸キュン密着事故」が発生してしまう!
そして、それを陰から目撃してしまった零華の心にも、予想外の嵐が吹き荒れることに……!?
「……逃げるんだ。ここにとどまっていたら、俺の精神と平穏が崩壊する……!」
放課後の教室。俺は補習のプリントと参考書が山積みにされた絶望のデスクから、気配を完璧に殺して脱出することに成功していた。
近衛零華のスパルタ指導は日増しに厳しさを増している。彼女の熱心さは認めざるを得ないが、このまま真面目に付き合っていたら、俺の「平穏な高校生活」はおろか、自室でゲームに没頭する体力すら残らない。
保身のための緊急避難——俺が逃げ込んだ先は、かつて自分が所属していたテニス部のコート脇、日陰になった木漏れ日の下だった。
「ふぅ……ここならあの近衛の精密な捜索網も届かないだろ。適当に部活の様子を遠目から眺めているフリをして、時間を潰すとしよう」
コートから響く軽快な打球音と部員たちの威勢の良い声をBGMに、俺がホッと胸を撫でおろした、まさにその時だった。
「……あ、神楽坂先輩……?」
不意に背後から、少し上ずったような可愛らしい声が聞こえた。
驚いてガバッと振り返ると、部活のドリンクを入れた重そうなボトルカゴを両手で抱えた、テニス部マネージャーの九条ゆずが立っていた。
「九条……っ! いや、これはだな、俺はただの散歩で偶然ここを通りかかっただけで——」
「うそ……っ、うれしい! 先輩が部活に来てくれるなんて……っ!」
ゆずの大きな瞳が一瞬でパッと輝き、俺の言い訳など耳に入っていない様子でパタパタと小走りで駆け寄ってくる。
だが次の瞬間、浮き出た木の根っこに足をすくわれたのか、「きゃっ!?」と小さく悲鳴を上げて、ゆずの体が俺の胸元を目がけて一直線に倒れ込んできた。
「おっと……!? 危険回避ー」
ここで怪我でもされたら、元部員としての責任を問われたり事情聴取を受けたりして面倒なことになる——そんな保身の反射神経で咄嗟に受け止めようとした結果、俺はゆずの細い腰をしっかりと両腕で抱きかかえるような形で、正面から受け止めてしまった。
ガシャーンと派手な音を立てて転がっていくボトルカゴ。
だが、そんな音すら耳に入らなくなるほどの超至近距離。
「っ……あ……」
ゆずの驚くほど柔らかい体と細い肩が、俺の全身にぴったりと密着している。
スポーツドリンクの爽やかな香りと、少し汗をかいた彼女の甘い体温が、制服の生地越しにダイレクトに伝わってくる。
「先輩」
ゆっくりと顔を上げたゆずが、至近距離で俺を見つめ返してくる。
いつもなら計算され尽くした「あざとい小悪魔スマイル」を見せる彼女が、今は耳の先まで真っ赤にして、瞳をうるうると濡らしながら口元を微かに震わせていた。
ドクン、ドクン、ドクン——。
自分のものなのか、それとも胸を重ね合わせているゆずのものなのか判別がつかないほど速くて強い心臓の鼓動が、全身を通じて響いてくる。
(お、おいおいおい! いつものマネージャーとしての演技じゃないガチの距離感と本気の鼓動じゃないか……!?)
思いがけない密着ハプニングに、俺の保身脳内CPUは完全にフリーズしていた。
「あ、あの九条、とりあえず怪我はないか? とりあえず離れてよ」
「……嫌です」
俺が慌てて体を引こうとすると、ゆずはぎゅっと俺の制服の裾を両手で強く掴み直し、逃がさないようにさらに密着するように体を寄せてきた。
「離れたくないです。先輩、最近ずっと近衛さんとばっかり補習して私と全然話してくれないじゃないですか」
寂しさと焦りが入り混じった、嘘偽りのない本気の吐露。
至近距離でまっすぐに向かってくるその純粋な熱量に、俺の保身バリアは粉々に砕け散りそうになっていた。
「あ、あのな、九条……っ」
「……私、本気ですから。今度の土曜日、13時に駅前のカフェに来てくれませんか? 私……先輩とちゃんと二人だけで話したいんです……っ」
顔を真っ赤にし、上目遣いで想いを伝えてくるゆず。
俺はこの甘酸っぱすぎて心臓に悪い「胸キュン密着空間」から一刻も早く脱出したい一心で、二つ返事で頷いてしまった。
「分かった! 分かったからとりあえず立ってくれ! 土曜の13時だな! 約束する!」
「……ほんとですか? えへへ……約束ですからね♡」
ゆずはようやく満足したように可憐に微笑むと、真っ赤な顔のままパッと体を離し、転がったボトルを急いで拾い集めて逃げるように去っていった。
「ふぅ命拾いしたー。あんな密着、俺の平穏が崩壊するところだった」
ダラダラと吹き出る冷や汗を拭い、部活エリアから一刻も早く離脱しようとダッシュを開始した俺。
——だが、俺は全く気づいていなかった。
校舎の陰、青々とした植え込みのすき間から、その光景を一部始終目撃していた人物がいたことに。
「なによ、それ」
姿を消した蓮を追いかけて校庭までやってきていた近衛零華は、木の陰に身を隠したまま、きゅっと制服のスカートを強く握りしめていた。
胸の奥が、ずきりと痛む。
まるで冷たい氷の塊を胸元に直接押し込まれたような、重くて、鬱陶しくて、不快極まりない感覚。
(なんなの? なぜ私が、こんなに胸が苦しくてイライラしなければいけないの……?)
零華自身、この胸の奥で渦巻くモヤモヤした感情の正体が分かっていなかった。
ただ、神楽坂くんが自分以外の女子生徒と抱き合い、顔を近づけ、何か秘密めいた約束を交わしていたという事実が、無性に、そして激しく腹が立ったのだ。
(あんなチャラチャラした下級生に鼻の下を伸ばして! 私との補習をサぼってあんな破廉恥な行為に及ぶなんて、指導係として、一人の人間として許せるはずがないわ!)
「嫌な気持ち」の正体を「指導係としての正義感と怒り」に強引にすり替えた零華は、氷のように冷たい光を宿した瞳で、蓮の逃走ルートへと先回りした。
……それからわずか10分後。
校門へ向けて逃走していた俺の前に、仁王立ちした近衛零華が立ち塞がった。
「見つけたわ、神楽坂くん。私から逃げ出そうなんて、いい度胸ね」
「げっ近衛っ!」
零華の全身から放たれる雰囲気が、いつも以上に刺々しく、周囲の空気ごと凍りつかせそうなほど冷え切っている。
「今日の分の課題は倍にしてあげるわ。それと、土曜日の13時に駅前に来なさい。来週のテストに向けた参考書を買いに行くわよ。逃げないでね」
(拒否したら来週からの補習が地獄の強制収容所レベルに強化される! ここは素直に従うのが一番の保身だ!)
「了解した。土曜の13時、駅前だな」
ゆずとの「密着ハプニング」の動揺と、零華の尋常じゃない冷気への恐怖でパニックになっていた俺は、ふたつ目の約束をした瞬間に、ひとつ目のゆずとの約束を脳内から完全に失念していたのである。
そして——運命の土曜日、12時55分。
私服姿の俺は、待ち合わせ場所である駅前の噴水広場に呑気に立っていた。
「ふぅ……今日は近衛と参考書を買う約束だったな。サッと買い物を終わらせて、ケーキでもご馳走になって帰るとするか」
完璧な休日のシミュレーションを回しながら、なんとなくスマホを取り出し、リマインダーのメモアプリを開いた。
そこに表示された恐ろしい文字列を目にした瞬間、俺の思考は完全に停止した。
『土曜日 13:00 駅前:九条』
『土曜日 13:00 駅前:近衛(参考書買い出し)』
「………………は?」
背中に、サーッと冷や汗が吹き出していく。血の気が引き、視界がぐにゃりと歪む。
(待て。え? 九条? カフェ? あ、あれ? 俺、九条とも約束してなかったか!?)
記憶の引き出しがパカッと開き、数日前のテニス部裏でのやり取りが怒涛の勢いで脳内を駆け巡る。
「……あ」
血の気が引いていく。冷や汗が背中を津波のように駆け抜ける。
「ま、待て待て待て! あの部活の時のゆずとの約束、完全に忘れてたあああぁぁぁっ!!」
パニックを起こしてその場から全力逃亡を図ろうとした、まさにその瞬間だった。
「神楽坂先輩っ! お待たせしました〜♡」
「神楽坂くん。時間通りね」
右側の通りから、いつもより少し大人っぽい私服に身を包んだゆずが。
左側の通りから、清楚で上品な私服に身を包んだ零華が。
寸分違わぬタイミングで、俺に向かって歩み寄ってきたのだ。
「あ……」
「……え?」
二人の視線が、俺の目の前でバチッと交差する。
お互いの存在に気づいた瞬間、ゆずのあざとい笑みが引きつり、零華の表情が絶対零度の氷のように冷え切った。
「「神楽坂くん(先輩)これ、どういうことかしら(ですか)?」」
俺はダラダラと滝のような汗を流しながら、ゆっくりと後ずさりをした。
(俺の保身ライフが開幕と同時に詰みなんだがっ!?)
自分の大ポカによって引き起こされた最悪のダブルブッキングデートが、こうして幕を開けるのだった。
第7話をお読みいただきありがとうございました!
テニス部でのゆずとのアクシデントと、それを目撃した零華の自覚のない嫉妬、そして蓮のケアレスミスによるダブルブッキング発覚までを描いた第7話となりました。
次回第8話では、この絶対零度の修羅場と化した駅前で、2人のアプローチと蓮の必死の保身がぶつかり合う「ダブルブッキングデート編」へ突入します!
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