4.
山にいた時よりも遠くに見える空の色を不思議な気持ちで見上げた。心なしか空の色まで違っているように見える。
それに空気も匂いも違う。里ではまだ雪が積もっていたのに、ここでは日陰にさえ見つからない。まるで夏の様だ。
改めて、遠くに来たのだと思い知る。
この屋敷から見えるのは庭木や隣家と空だけ。
山から降りた日、夜明けに見た故郷の雪山はどこにも見えない。どの方角にあるのかも分からない。
御守りを入れた懐をそっと押さえる。そうやって側にいない弟に語りかけるのが日課になりつつある。
–––––癒兎。元気かな。私は、元気だよ。
この想いが少しでも伝わればいい。そう願う。
洗濯盤から手に取ったのは藍墨の着物だ。
体格の良い藍墨の着物は烏兎の身長よりも長いので干すのに工夫がいる。初めての時は裾を踏んで転けた挙句に土まみれになり、洗い直す羽目になったし、初めて下着を手に取った時は奇妙な叫び声をあげて残菊たちに揶揄われ、真っ赤になったのはほんの二日前だ。
あの時よりも上手く干せるようになった物干しを見れば、自分と藍墨の着物が並んでいる。
長さの違うそれは、夫婦と言うよりも親子のようだ。
現実味がないそれから視線を外すと、片付けを始めた。
祝言も目前ならば夫婦同然だと、顔合わせの後から烏兎は藍墨の身の周りの事を任されるようになった。とは言っても、やる事は本当に少ない。掃除や料理は皆でするので、洗濯と朝夕の身支度を手伝うぐらいだ。その身支度も、背の高い藍墨の着付けは難しい上に、慣れた藍墨は一人でこなしてしまう。烏兎が部屋の端でおろおろしている内に全部が終わってしまうのだ。
料理にしても自分が食べる分しか作った事がないので、大人数の分量には慣れないし、豪快な肉料理など作った事もない。
これまでは自分の為だけだったが、ここではみんなの為だ。様々な事を教えられ、注意され、時には叱られる。それが烏兎には嬉しくてたまらない。
叱られるのも注意されるのも、自分を見てくれるからだ。自分の存在を認めてくれるからだ。
物を知らない烏兎に丁寧に教えてくれるみんなの為にも頑張ろうと心に決めた。
「うーちゃん。おちゃしよー」
「あ、は、はい」
小さな花王の誘いにこくこくと頷く。
人見知りな烏兎に声をかけてくれるのは花王みたいな子どもたちが多い。それは、大きくて威圧感のある大人よりも子供たちの方が良いだろうという残菊たちの配慮だった。
「今日はね、お団子なんだよ」
「お団子…」
「きな粉と餡子なの。おいしーのよ」
「きな粉好きー」
芍香の双子の娘である紅花と白雪が加わり、烏兎の手を取って早くと急かす。ぐいぐいと引っ張る力は強く、小さく愛らしくても獅子なのだと感心する。
母親がどんな種族でも、生まれてくる子どもは父親と同じだ。烏兎が藍墨の子どもを生めば、その子は必ず獅子になる。
獅子族の子供たちの成長は早く、十歳の子は烏兎と同じくらいの身長がある。もうすぐ六歳になる花王も烏兎の胸ぐらいの高さがある。そして体力面で言えば烏兎よりも上である。かけっこでは到底追いつけない。
もし、自分が子供を生んだなら、いくつまで遊んであげられるのだろうか。身長はあっという間に抜かされそうだ。
まだ見えぬ未来に思いを馳せ、思わず笑みが溢れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
決死の覚悟に近い気持ちで告げた異能の事は、あっさりと「そうか。それは残念だ」と笑って済まされた。
あまりにもあっさりし過ぎて、拍子抜けした烏兎は間の抜けた顔で冨貴を見つめてしまった。
その表情がおかしかったのか冨貴はくくっと笑い、再び残菊に背中を叩かれていた。
「痛いな。手加減せんか」
「手加減してるからその程度なんだろ?ああ、烏兎。気にしないでおくれ。異能があるなら知っておいた方が良いだろう?無くても別にかまやしないよ」
異能が無くても良いなんて、そんな事を言われたのは初めてだった。
烏兎にとって異能は有るべきもので、望んでも手に入らないものだったから。
後に教えてもらったが、獅子族を始め平地に住む人々は混血が進んだせいか異能持ちが少ないのだという。
冨貴が治める獅子族の中にも異能持ちは百人にも満たないらしい。
身近な所では、二夫人の芙蓉は花を咲かせる異能があるという。そして夫となる藍墨は風を操る異能があるが、旋風を起こすぐらいなので滅多に使わないらしい。
「あれば便利だが、無くても問題ない。その程度さ。なにせ私たちには強靭な肉体があるし、異能に頼るほど弱くないからね」
残菊の言葉に烏兎は言葉を無くした。
里からここまでの道中、烏兎を背負いながらも信じられない速さで駆けていた男たちを思い出す。あんな速さでもほとんど息を乱す事がなかった。
確かに、彼等ならば異能が無くても困る事はないのかもしれない。
「しかし、あるに越した事はない。お前に無くても子には遺伝するかもしれんしな。期待しておこう。遠慮せずにバンバン産めよ」
「少しは情緒ってもんを学んできなっ」
大口を開けて笑う冨貴は、即座に残菊に耳を引っ張られていて痛がっていた。
目の前で繰り広げられる夫婦喧嘩におろおろと周りを見れば、他の三夫人は気にも止めないどころか逆に囃し立てたりと楽しんでいる。冨貴の隣に座わる藍墨に目を向ければ、彼も烏兎をじっと見ていた。
周りの喧騒が嘘のように、彼の周りだけ静寂が包んでいるようだった。まるで、夜空だ。冬の日の、月に照らされた澄んだ夜空のよう。
同じ黒色なのに、自分とは全く違う色に見える。自分の髪はこんなにも汚いのに、彼の夜のような黒髪は素直に綺麗だと思った。
この人と夫婦になるのかと、不思議な気持ちになる。
夫婦も恋人も、烏兎にはよく分からない。
結婚すれば、癒兎みたいに笑いかけてくれるのだろうか。
夫婦になれば、癒兎みたいに愛してくれるのだろうか。
結婚して、子供を産んで、–––––それから?
癒兎と同じように大好きだと思う日がくるのだろうか。
何一つ想像できない烏兎は視線を逸らして俯いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
どうしよう。
目の前の物干し竿を見上げて、烏兎は心底困っていた。
背伸びをしてようやく竿に指がかかる高さにある為、竿の上げ下ろしには棒を使っていた。先端が二股に分かれた木の棒は、子どもたちが遊んでいた時に折ってしまった。
明日は会合があって忙しいので、残菊と芍香はそちらの手伝いに出かけ、芙蓉と茉莉は夕餉の準備で忙しい。洗濯物の取り込みなら出来るからと申し出たのに、これでは役に立たない。
芙蓉たちの迷惑になるかもしれないと思うと、できる限り自分でなんとかしたかった。
何か台になる物はないかと探したが、ちょうど良さそうな庭石は重くてほんの少しも動かない。木箱はあったが、板が薄くて乗れば折れそうだ。
なんとかならないかと背伸びをしてみるが、指に触れるが外すには少し足りない。
飛び上がればいけるかもしれないと、軽く膝を曲げる。狙いを定めていたら、目の前の竿がひょいと持ち上げられた。
「取り込むのか?」
低い声が頭の上から下りてくる。
仰ぎ見れば、藍墨が烏兎の背後から手を伸ばして物干し竿を持ち上げている。
驚きすぎて声も出ない烏兎はもう一度問われてこくこくと何度も頷いた。
藍墨は物干し竿から洗濯物を外し、烏兎はそれを受け取って籠へと入れていく。
程なく全ての洗濯物を取り込むと、藍墨は黙って背を向ける。
「あ、あの、ありがとうございました」
烏兎が慌ててお礼を言えば、振り向いて烏兎をじっと見た。それから周囲を見回して一本の梅の木に近づく。その枝を容易く折ると付いていた小枝や葉を一気に取り除いてしまう。
比較的まっすぐなその枝を無言で烏兎に差し出したので恐る恐る受け取れば、大きな手が烏兎の頭をぐりぐりと撫でる。そして、満足したのか屋敷へと去っていった。
呆気に取られた烏兎は藍墨の背中が見えなくなるまで渡された枝を握りしめていた。
太くなく細くなく、烏兎が握るにはちょうど良いそれは先が二股に分かれている。折れた棒よりも使いやすそうだ。
藍墨が触れた頭にそっと手を当てる。
大きくて、暖かった。
胸の奥がぽかぽかして嬉しくて、知らずふにゃりと笑みが溢れた。
冨貴達のお仕事は多種多様なお店経営と地域のまとめ役。義理と人情に厚く、時には体を使った熱い指導が行われることもある。




