11.
岩狸の竹韋は見た目は小太りの中年男で、父親から受け継いだ夢天楼をそれなりに運営してきた。自分が凡人だと分かっているので、店を大きくしようなんて野望はない。潰れなければ良いという考えなので、店の経営よりも寄合だ会合だと外に出る事が多い。のらりくらりとした正確から竹ではなく柳だと花街では有名な男でもあった。
その日も会合と言う名の飲み会から帰ってきた竹韋は、店に入るなり遣り手婆に新人の検分を頼まれた。
「今帰ったばっかりですよ?ちょいと寝かせておくんな。夜見世までにはやるから、とりあえず着替えさせて格子部屋に座らせといておきなさいよ」
「今日から客を取らせるんで?」
「まさか。初卸しなんだから、競に決まってるだろ。うんと綺麗に飾って、高値をつけてもらわなきゃね」
それだけ指示すると眠い眠いと自室に行ってしまった。
遣り手婆は呆れ顔でその背中を見送り、さて誰に付けようかと候補の遊女を思い浮かべた。
ここで待ってろと老婆に言われて、烏兎は小部屋でぽつんと座っていた。
先程から少しずつ人の気配が増えてきた。部屋から離れているが烏兎の長い耳は色んな音を拾う。女性の笑い声や話し声に紛れて三味線や琵琶の音がする。雑多な音は、知らない人がたくさんいる事実を教えていて、烏兎は緊張で身を固くした。
まんじりと座っていると、近づいてくる足音が聞こえた。息を呑んで襖の向こうを警戒しながら見れば、現れたのは赤い襦袢を着崩した三毛猫の女だった。
「へぇ、本当に兎だぁ。珍しい。ねぇ、この子?」
前半は烏兎を見て、後半は背後にいる老婆に向けて話しかける。
「五日後に競にかけるから、その間色々と教えて磨いとくれ」
「わっちの取り分は二割かい?」
「馬鹿を言い。一割だよ。精々高値がつくように磨くんだね」
「業突張りめ。ちっ、分かったよ」
老婆に悪態をついた女は、烏兎へと近づくとじっと見つめてくる。
肌けた襦袢から肩や足が見える。歩く姿さえあだっぽく、同性なのになぜかどきどきとしてしまう。
「さぁて、とりあえず脱ごうか」
悪戯っ子の様に笑った女性は夕柘と名乗った。
言われた言葉に目を白黒させているうちに、二階にある彼女の私室に連れて行かれた。
着物を剥ぎ取られ、彼女と同じ赤い襦袢を着させられる。さらさらとした肌触りは良いが、こんな派手な襦袢は着た事がないので何だか気恥ずかしい。
「違う、違う。襟はまだ下げるんだよ」
夕柘はそう言うと、烏兎の襟をぐっと引き下げる。普段の倍以上開けられた襟では背中まで見えてしまう。
恥ずかしがる烏兎を座らせて、夕柘は烏兎の黒髪を櫛削ると器用に結いあげていく。
普段、後ろで一つに束ねるぐらいで髪油を付けて結いあげた事がない烏兎にとっては拷問のようだった。顔の皮膚まで引っ張られている様だし、結った髷はなんだか重く感じる。そこに更に珊瑚や瑪瑙の簪が差し込まれる。藤の花に似せた花簪を横に差し込まれ、俯けば可愛らしい花がしゃらりと揺れた。
「今日は貸してあげる。もちろん賃料はもらうよ。こっちだって死活問題なんだからさ」
その賃料が高いのか安いのか、烏兎にはわからない。ただ、借りた物なのだから無くさない様に気をつけよう思った。
髪の次は化粧だった。
「羨ましいねぇ。白粉なんてほとんどいらないじゃないか。肌もしっとりとしていて気持ちいいし、いいねぇ」
頬から首筋を手の平で撫で下ろされて、烏兎の体がぴくりと震えた。
夕柘は白粉を化粧刷毛に付け、烏兎の首に塗っていく。襟から見えるところ全てに塗るので、くすぐったくて仕方がない。変な声が出たり笑わないように、目に涙を浮かべながらなんとか我慢をしていたが、体が震えるのは止められなかった。
紅を唇以外にも眉と目尻に差し、仕上げに香水を額や頸や胸元につけられた。ふわりと甘い匂いが烏兎を包み込む。
「あ、あの、わ、私、どんな仕事をすれば、良いんでしょうか」
化粧が終わり片付けをする夕柘にようやく話しかける事が出来た。だが、夕柘はそれを聞いて目を丸くした後、大きな声で笑った。
「あっはははは。どんな仕事かだって?そんなことも知らずにここに来たのかい?」
夕柘は前髪を片手でかき上げて、馬鹿にしたように烏兎を見下ろした。
侮蔑に満ちた視線は見覚えのある悪意で、烏兎は小さく息を呑んだ。
「呑気で哀れな兎さん。ここはね、春をひさぐ場所さ。男に天国を見せる為だけの女の地獄だよ」
笑っているのに夕柘は泣いている様にも見えた。
女の地獄だと言う言葉に、烏兎は底知れぬ恐怖を感じた。
ここは、恐らく良くない場所なのだろう。ここから屋敷に帰る為にどれだけの日にちを過ごさなければならないのか、恐ろしくて問う事はできなかった。
ただ、一刻も早く屋敷に、藍墨の側に帰りたかった。
乱暴に手渡されたのは緋色の豪華な着物だった。長い袖と裾に大輪の華が咲き、美しい蝶が舞っている。
「あ、あの。こ、こんな豪華な着物、き、着れません」
「着れませんじゃなくて、着るんだよ。こんな貧乏くさい着物で客が付くわけないじゃないか」
ふるふると首を振れば、夕柘は呆れた顔で烏兎が着ていた着物を摘み上げる。
残菊たちが烏兎の為に選んでくれた着物を悪く言われて怒りが湧き上がった。
「貧乏くさくありませんっ」
精一杯睨んでみたが、夕柘はどうでも良いのか「ああ、そう」とおざなりにへんじをして、着物と同じく豪華な金糸の派手な帯を渡してくる。
「どうでもいいから着なよ。そのままでも構わないけど、競値が下がるじゃないか。出来るだけ高値が付かないとわっちも困るんだよ」
「競?」
さっきから言葉端に出てくる不審な単語。
競値や高値など、烏兎が売られるような言葉を思い出して血の気が引いた。
まさか、どこかに売られるのだろうか。
咄嗟に嫌だと思った。
帰りたい。自分を受け入れてくれるあの屋敷に、穏やかに側にいてくれる藍墨の側に。
焦燥に駆られて胸が引き絞られる感覚に、烏兎は胸元をぎゅうと握りしめた。
その時、階下から凄まじい音が聞こえた。
嵐の日のように風がごうと唸り、何かが倒れ壊れる音、そして、人の悲鳴や怒号が聞こえてくる。
その中で「烏兎」と名前を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
烏兎は耳をぴんと立てて、集中する。
騒音の中に確かに烏兎を呼ぶ声が聞こえた。
誰の声か分かった瞬間に烏兎早く駆け出した。障子を乱暴に開けて廊下を駆けて、階段にたどり着く。
「烏兎っ!!」
なぜかあちこちが壊れた階下の中に、藍墨がいた。
射抜く様に鋭い瞳が烏兎の足を止める。
階上を見据えたまま、片手に捕まえていた男の人を無造作に投げ捨てる。まるで空を駆けるように階段を駆け上がった藍墨は、ぶつかる直前で足を止めて慎重に烏兎を抱きしめた。
「すまない。遅くなった」
長身の藍墨にすっぽりと優しく抱きしめられる。ここ何日かで嗅ぎ慣れた藍墨の匂いに包まれて、ぶわりと涙が溢れた。
「ぁ…あ、あいずみ、さま。藍墨、さま、藍墨さま」
怖かった。
帰れないかもしれないと、もう会えないかもしれないと思って、恐ろしかった。
藍墨の着物をぎゅっと握りしめて縋りつき、馬鹿みたいに名前だけしか言えなかった。
ぼろぼろと涙を溢す目元に柔らかい感触が触れる。目を閉じている烏兎はそれが何かは分からなかった。額に、こめかみに、目尻に、頬に、唇に。優しく落ちてくる温かい感触はとても心地よく、藍墨に包まれて安心した烏兎はその腕の中で意識を手放した。




